道端鈴成

エッセイと書評など

自殺

2006年03月10日 | 思想・社会
  むやみやたらにひとりごとといったタイトルで、開設者本人の自殺未遂の経験が赤裸々に綴られたサイトを読んだ。予告記事を残し、昨年の末に山で自殺を既遂してしまった。亡くなってしまってからも、友人や知人、通りすがりの人の書き込みが続いている。知的で優しく、多くの人に愛された人だったらしい。読んでいてなんだか妙な感じがした。以前にガンで亡くなる直前の同僚からメールをもらった時の事を思い出した。
  考えと、行動と人間関係が自殺というアトラクターをめぐってまわり始めて、結局、死にすいこまれてしまったように思えた。中高年における生活苦や病気での、追いつめられての、あるいは、万事窮しての自殺とは異なる気がする。青年期における死の想念は、あらゆる恥辱と自負をすいとって、雑多な現実を超越する点をなにがし示しはするので、ある種の甘い吸引力があるのかもしれない。
  だいぶ古いが、ホメオスタシスの概念の提唱者のキャノンに「からだの知恵」という名著がある。我々の身体が、いかにして生命を維持しているのかの仕組みには驚くべきものがある。今日でもまだ完全には解明されていない。自己の生命を消滅させようとしても、簡単でないのは、我々の身体や無意識が、生命を断とうとする行為に必死に抗しているからだ。自殺(Suicide)は、やはり、自らを対象とした殺人の一種であると思う。何でもいいから夢中になれるものを見つけて、自己への関心の集中と自己消滅の想念から、はなれられなかったものかと思った。
  以上は概念的な一般論である。本当のところは、その身にならなければわからない。そうした語りえない領域は、宮沢賢治の詩、「青森挽歌」(「春と修羅」)や〔堅い瓔珞はまっすぐに下に垂れます〕(「春と修羅」補遺)などが、ぎりぎり表現しているように思う。

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