すんけい ぶろぐ

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茂山千之丞「狂言じゃ、狂言じゃ!」

2005-04-13 09:12:47 | 書評
修学旅行で京都に行ったけど、なんも覚えてないよ


前情報なしで理解できない作品は、あまり好きではありません。

やはり、一つの作品は一つの作品として独立しているべきである。なにか特殊な知識や技能が必要な、一部の人間に対してのみ門戸を開いているような作品には、どうも料簡の狭さや、鼻持ちならない高尚さ、たこつぼ式のオタク臭を感じてしまいます。

と言っても、厳密に「前情報なし」で理解できる作品なんて、ないのかもしれません。

たとえ感性で理解できる音楽や絵画にしても、より深く理解しようとすれば、文学や映画と同じよう、そのメディアの歴史をも知らなくてはいけないわけでして。


すでに虚構的な「型」が伝承されてきている古典演劇では、とにもかくにもその型の完全な肉体表現にまず没頭します。その際、あることを表現するためには、なぜその型でなければいけないのか、どういう必然によってこの型になったのか、そんな疑問はもってはいけないのです。そんなことはどうでもよいことなのです。生まれつき理屈っぽかったらしい私は、十五、六歳まで、稽古中に「これ、どんな意味なのですか」などと質問をしては、祖父や父から「理屈を言うな」とこっぴどく叱られたものです。外形的には無味乾燥にさえ見える伝承された虚構的な型を、ときによっては盲目的に身につけること、それ以外に稽古の方法はないのが古典の世界です。そして、ある程度正確にその型ができるようになると、自然とその時の情感が心に宿るというのが古典の演技なのです。
 型から入るか。心から入るか。これは恐らくこれからの演劇にとって、永遠の命題であろうと思います。様々の演劇が生まれ、そして死んでいくでしょう……。そして、型から入っていく芝居の典型、我が狂言も、同じように死んでいく……、のでしょうか……。
茂山千之丞「狂言じゃ、狂言じゃ!」58~59頁 文春文庫

作者・茂山千之丞のお兄さん・茂山千作は、狂言師として人間国宝に認定されています。

そんなサラブレッドでも、古典の常識といったものには、若い頃は疑問を感じていたようです。

やっぱ、そういうものなんですねぇ。


で、本書では、そういう古典のお約束を把握していない人間でも、狂言が理解できるように解説してくれています。
くだけた口調(ちょっとオヤジ臭いところが多いですが)で肩肘張らず読めます。

狂言を見る機会がある方には、前情報としてうってつけなのではないでしょうか?


狂言じゃ、狂言じゃ!

文芸春秋

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