この世界の片隅に:戦争の高揚を描かずして、戦争を理解することはできない

2017-02-27 17:23:23 | 本関係

 

 

みなさんこんにちわ。ベリーニ様の下僕になり隊隊長の藤田浩之です。やはりmother-fucker疑惑が・・・って俺と10歳も違わないと思うけどなwヒトラーの演説の緩急は見習いたいところだが、それにしてもこの男、ちょっとボディランゲージが少なめじゃね?もっと総統閣下は情熱的かつ煽情的であらせられるはずだが・・・

 

まあ冗談はこの辺にしておいて。
「この世界の片隅に」が類希な傑作であることは何度も書いてきたとおりだが、それに強く感銘を受けた理由は、私がこれまで書いてきた問題意識とも連動する部分が大いにある。その一つこそ、戦争の高揚(言い換えれば戦争の多面性)もまた描いている、という点だ。

 

具体的に言うと、原作(漫画版)の昭和20年5月(下巻)の回で、周作の父円太郎に近い視点で「広工廠歌」に乗せて建艦競争や軍縮、飛行機の製造といった歴史の流れが説明され、「それは確かに誰かの夢であり、誰かの悪夢でもある」という言葉の後にB29の来襲が描かれ、工廠の破壊がほのめかされる(ちなみにこれは「風立ちぬ」に近い視点と言い換えてもよいだろう。母方の祖父が一等整備兵で似たような話をよくしてくれたこともあって、私には馴染みのあるものでもある)。端的に言えばそれは、空襲に抵抗しがたいがゆえにそれが「災害」のように感じられるという一般市民の感覚と同時に、それまでの営為=夢が破壊されるという軍属の技術者の感覚を表現しており、空襲をただの事実描写にしないとともに、受ける側にとっての多面性を見事に描いたものと言える(この描写は映画版にはないものの、敗戦後に出てくる「火」が円太郎たちにとっては設計図を燃やす=これまでの営為を否定するものであると同時に、すずたちにとってはこれからの生活を作るものとして対比的に描かれるように、その志向性は的確に受け継がれていると言える)。そして、ここが極めて重要なところだが、そうして対置される円太郎は戦争を好む存在として否定的に描かれるどころか、むしろお茶目で職人気質で家族を思いやる、温和ながら芯のある人物として描写されているのである(国や郷土を守るために悲愴な決意をして特攻にのぞむ、というようなパターンとも違う)。

 

このように、「この世界の片隅に」では戦争にかける想いや戦争の高揚を身近で等身大のものとして描くことで、戦争による苦難や喪失と併せて戦争の多面性が表現されている。これは、戦争を理解する上でも、あるいはそれゆえに戦争を止めたい人にとっても不可欠な視点であると考える。凡百な作品や語り手は、戦争の理不尽や惨劇を提示しさえすれば、人がそれとは決して関わらないであろうと想定する。しかしながら、ただペストの恐ろしさを様々な角度で提示したところでペストを防ぐことはできないのと同じように、それが生まれる過程を精密に描き、共有せねば再発に対して全くのところ無力なのである(そもそも、戦争の悲劇性について言えば、直近の第一次世界大戦にしてからがその被害の大きさや凄惨さで世界中の人々の心胆を寒からしめたのであって、にもかかわらず30年と経たずして第二次世界大戦が起きた時点で一面的な描写の無効性は明らかである。ちなみに、病気と戦争が違うのは、過程を提示すれば人がそれを防ぐべく一致団結するわけでは必ずしもないところだ)。

 

そのような見地に立つがゆえに、このブログにおいては、最初期から「反戦・反軍事化を叫ぶ人へ」といった記事を書くとともに、「es」「THE WAVE」「ヒトラー最期の12日間」、そして冒頭の「帰ってきたヒトラー」などの描いているものを重要視してきた(リンク先でも書いているが、ウェーバーの集合的沸騰やパーソンズのアノミー論、フロムの「自由からの逃走」やシュミットの「友ー敵」図式を連想することも有効。ちなみにこれは人間のコントロールという点で人工知能の話題「沙耶の唄」のレビューともつながる)。またそれゆえに、「この世界の片隅に」が戦争の高揚を当時の人々の等身大の姿として作品内に組み込んでおり、かつそれを現在の視点で断罪していないところ、かつそれをa point of viewつまり歴史の一コマ(世界の片隅)としてバランス感覚をもって描いている=歴史の、戦争の多面性を描き出しているとして高く評価するのである。

 

まあブレグジットが起こり、トランプが大統領になり、マリーヌ=ル=ペンのFNが躍進し・・・という現状では昔のように戦争の悲惨さを叫んでいるだけでは無力であるといっそう明確に意識されつつあるとは思うが、ともあれ鬼畜米英と教わった人間たちが米軍の捕虜の扱いに心ほだされて軍事機密をどんどん教えたりすることに典型なように、最も忌むべきは素朴なる人間なのである。つまり、戦後「日本は悪だ」とただ教えられ信じ込んできた人間は「日本こそ善だ」という方向に簡単に転ぶし、「戦争は悪だ」とその惨劇をひたすら教えてこられたとしても、結局それがもたらす高揚感と対処法を知らねば簡単に飲み込まれるだけだ(ちなみに、「戦争は悪だ」とただ教えられてきた人間にとっては、それに加わった当時の人々は「狂信者」ということになろうし、ゆえに自分とは無関連化され結局処方箋たりえない。なお、戦争の一面的理解は、たとえば「この世界の片隅に」の人物に当てはめて言うなら、周作が以前遊郭に行き白木リンと懇意にしていたことをもって彼を「破廉恥」と罵り、すずが水原に淡い恋心を抱いていたことをもって彼女を「尻軽女」と決めつけるのと似ている)。

 

以上、「右ー左」的両極端なカテゴライズで思考停止が起こりがちな今日的状況にこそ、重層的・多面的描写で成り立つ「この世界の片隅に」は極めて重要な作品であると強調しつつ、この稿を終えたい。


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