この世界の片隅に:匂い立つリアルの訴えかけるもの

2016-12-19 17:32:20 | 本関係

ごく最近、宇多丸のラジオ番組でこの作品を知る機会に恵まれた。映画を先に見ようとしたが、あいにくその暇がないためamazonで原作を注文し、そちらを先に読むこととなった。

 

今はようやく一周読了したところだが、それでも様々印象に残ったことがある。中でも、匂いまで伝わってきそうな町の雰囲気の瑞々しさや登場人物たちのやり取りの生々しさは特筆すべきだろう(私の場合は小学4年の時に「はだしのゲン」を読み、また同時期に江田島などへ家族で行ったこともあり、広島弁を久々に聞いてとても懐かしい感じがした)。しかも、それらはありがちなノスタルジー(「三丁目の夕日」的なるもの)のためではなく、ましてや単なるディテールマニアなどではなく、そこで起こったことを読者が追体験・追想するにあたって極めて重要な役割を果たしている点が極めて重要である。というのも、その生々しさゆえに、いわゆる反戦モノであるとか、あるいは近年増えている「私たちは頑張った・正しかった」という自己肯定のための作品が持つ、「ノイズ排除ゆえの限界」を免れているからだ(結局それらは、思想的立場を超えて受け手に広がることもなければ響くこともなく、「あぁ、そういう狙いね」と、作品アーカイブの一つにすぐ放り込まれて終わるだけだ。ちなみに言うと、「この世界の片隅に」を傑作の前評判の元に触れた人の中には、肩透かしを食うケースもあるだろう。その理由もまた、今述べたようなわかりやすい図式の元におけるカタルシスが存在しないからである。ちなみにそのノイズ排除の件は、すず―水原、周作―白木の描写などに関する記事でまた触れることになるだろう→一応「STANS BY ME ドラえもん」の記事や「心の底からIしてる」で書いたことと繋がる)。私は、すぐに言説や物の見方が「敵ー味方」的な二項図式で硬直しがちな今こそ、このような作品が最も必要とされているように思うのである(それゆえに、この作品が幅広く受け入れられているのは大変喜ばしいことだと感じる)。

 

もう一つ印象的だったのは、主人公すずが絵を描くことと、時折挟まれる本編とは違う画風のコマ・背景である。それは時に擬人化などを含むコミカルなものであったり、あるいは回想であったり、当時の生活・雰囲気を示す要素(例えばカルタや楠公飯の作り方など)として使われたりする。中でも、下巻でのある悲劇の時には、その悲劇の内容と連動して世界の「歪み」が描かれている箇所は極めて印象的な部分の一つだろう。これらは漫画ならではの表現方法だと思うが、それと同時に、世界の見え方とその多様性をも思わせて興味深い。というのもそのことは、「世界の片隅」という題名とともに、この作品で描かれる世界が、迫真性は持ちながらも同時に、一つの主観(a point of view)でしかありえないという作者の倫理観ないし抑制を表しているように思われるからだ。そしてそのような演出方法は、前述した世界の生々しさと相まって、世界観・主張の押し付けがましさの抑制・距離感を獲得することとつながっているように感じられる。であるがゆえに、たとえば終戦の描写が単に「日本という正義」の敗北でもなければ、逆に(「アメリカという正義」による)「日本という悪」からの解放でもないという徒労感や痛み、またそういったものを抱えながらもとにかく生きていかなければならないという描写が強い説得力をもって私たちに訴えかけてくるのではないだろうか(もちろん、このような短い評価で片づけられない万感の思いを込めた描写が終戦部分にはあり、これはこれでまた別に論じる必要があるだろう)。

 

この他様々論じたいことは多いが、今回は第一弾として「この世界の片隅に」の大きな特徴について言及した。次回は、この作品を見てその特徴から私が身近な人たちについてどう思ったか(それは同時に私がこの作品をどう感じ取ったかを理解してもらうヒントにもなるだろう)について書いていきたいと思う。


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