どうもこんちわー。「沙耶の唄」の内容を小学生にでもわかるように説明する試みです。それでは早速見ていきましょう。
ふみのり「お前らクセえから近づくな、潰すぞ!」
こうじ「ふみのりヤベえ・・・」
つくば「ふみのりヤベえ・・・」
さや「ブミ゛ノ゛リ゛が安心して暮らせる、パラダイスみてえな世界を作りてえ」
あおば「ふみのりヤベえ・・・あべし!! . . . 本文を読む
「泣きゲーへのアイロニー?」に引き続いて沙耶の唄レビュー(?)復活第四弾。
今回は原文がアホみたいに長い(なんせ文字だけで4000字近くもあるw)ので手短に説明しておくと、この記事の意図は、前掲の「泣きゲー~」で書いた主人公主観の問題をさらに発展させ、沙耶の唄における視覚的表現方法が沙耶・郁紀―耕司の等価性を意識させるものになっていると具体的に示すことにある。つまり、例えば二枚目 . . . 本文を読む
今年も終わりですねー。まあ私は普通に朝から晩まで仕事ですけど何か(゚∀゚)アヒャ
ちなみにここで書いていることは、単に沙耶の唄で描かれるものが「純愛」ではないという話ではなく、そもそも人間のコミュニケーション自体がただの蓋然性の産物に過ぎないという話である。そのような事実が、人工知能の発達の中でどんどん剥き出しになっていき、全てがそのようなものとして定義されるのか、あるいはそれゆえ . . . 本文を読む
最上もがキタ━━(゜∀゜)━━ヨ!
マーニャたん(;´Д`)ハァハァ
と相変わらず血気盛んな漏れですが、皆様いかがお過ごしでせうか? 思えば今まで「ショートカット」、「褐色」、「金髪」、「つり目」、「メガネ」、「ポニーテール」、「年上」、「男の娘」、「獣姦」と様々な「属性」の話をしてきたわけでありますが、今回はそれを「『純愛』なる印象の必然性」で書いた交換不 . . . 本文を読む
[はじめに]
昨日の「沙耶の唄~『純愛』なる印象の必然性~」においては、郁紀と沙耶が別離する前後の場面を主に取り上げつつ、それがもたらす交換不可能性の印象を指摘し、作品の内容を「純愛」ととらえる人たちの解釈に必然性があることを示した。続いてはそれと真逆の交換可能性の話を「属性」に絡めてしつつ交換不可能性を理解する補助線にしたいと考えたが、まずは受け手と作者、そして私の「沙耶の唄」で描かれるものの . . . 本文を読む
「『純愛』なる印象の必然性」に続いて「属性」に絡めた交換可能性の記事を書くはずだったが、予定を変えて急遽こちらを(再)掲載しておきたい(次の記事で使うため)。なお、原文はかなりの数リンクを貼っていたが、それはあえて復活させていない。一部は「沙耶の唄:神域の完成度」→「disillusionの内包」のように再掲載をしているので必要があれば検索などかけてくだされ。ちなみにこの記事を元々いつ掲 . . . 本文を読む
[はじめに]
「沙耶の唄」については、これまで膨大な分量の記事を書いてきた。その要約は「埋没・覚醒・気付き」を読んでもらうとして、今回は作者の意図と受け手の印象の齟齬の最も端的な例として、「沙耶の唄」=「純愛を描いた作品」という視点について述べたい。
[「純愛」という印象の要因]
作者虚淵玄は、この作品が多くの人に「恋愛モノ」として受け止められたことについて、 . . . 本文を読む
これまで、殿堂入りした作品として「YU-NO」、「君が望む永遠」、「沙耶の唄」、「ひぐらしのなく頃に」を取り上げてきたが、YU-NOを例外とすればその全てが受容環境(受容の仕方)も考察の対象としている点に特徴がある。
沙耶の唄の場合、焦点は作者の期待する解釈と(多くの)プレイヤーの反応の齟齬にあるが、具体的には、プレイヤーたちが予想に反して沙耶の側にかなり同情的な見方をし、結果と . . . 本文を読む
さて、前日に引き続き「沙耶の唄」のことを書くとしよう。二つの問題がある。
まずプレイヤーに関して。
キャラというものは作者の手駒である、という感覚が決定的に欠落している。
この前のもやしもんで言うなら、武藤という人物がいて地ビールの評価を話すのではなく、作者が話させているのである。
「こころ」の先生やK,カラマーゾフのイワンやスメルジャコフ。そういう役割を振られているからそういうふうに振舞 . . . 本文を読む
前回の記事において、私は人の行動や評価が文脈によって変化するのは当然であるがゆえに、郁紀(主人公)の行動を全く不自然だと思わないと述べた(=交換可能性の認識)。そしてこのような評価は、郁紀が元の知覚を取り戻すエンディング(「エンド1」)が惨劇に終わるだろうという予測と完全に連動するものであったと言える。
周知のように、エンディングの内容はこの予測を完全に裏切るもので、以降作品の内 . . . 本文を読む