この世界の片隅に:自然描写が見せる「社会」と「世界」

2016-12-25 12:21:17 | レビュー系

前回の記事では、自然が象徴する人物の心理などについて述べた。「この世界の片隅に」は作中人物の重層的な心理が丁寧に描かれているため、それを象徴するものとしてのタンポポやサギがあるわけだが、一方でそれは表現技法として極めてありふれたものであることも事実だ。またもう少し突っ込んで言うと、それならば自然は人間と一致する、あるいは調和している存在のように見えるが、ことはそう単純ではない。なるほど野草でご飯を工夫したりする描写はいかにも「自然に生かされている」という感覚にもつながるし、とりわけ「今と違って自然と調和して生きていたかつての日本」というノスタルジックな見方をするのも容易であると感じられる。

 

しかし、注意深く見れば、そのような視点は一面的にすぎることが明らかになるだろう。その典型的な例が、砂糖にまつわるエピソードである。豆腐を持って帰る途中で晴美と会ったすずが、アリの行列がどこに続いているかを追っていくと実は北条家の砂糖が入った壺だった!という描写から誤ってそれを水桶に落とし、義母のへそくりを持って闇市に砂糖を買いにいく。作ってはいけないはずの西瓜などが堂々と売られていたりする中で(これもまた、作品で描かれるすずの日常があくまで一つの世界=a point of viewにすぎないという暗示にもなっている)砂糖を見つけると、なんと一斤(600グラム)で20円!当時の1円はざっくり言うと現在の2000円弱と言えばその高さが伝わると思うが、悩みに悩んだ末それを購入したすずが、物価の上昇に「そんとな国で生きていけるんかね!?」と懊悩する(このシリアスな現状認識の後で迷子→白木リンとの出会いというテンポの変化にそのまま繋げている演出の妙はさすがとしか言いようがない。これは「さようなら広島」発言、つまり読者はここから一気にシリアスになるのかと身構える場面からの切符買えませんでしたorzシーン→ハゲに関するドタバタエピソードという神展開にも繋がっているw)。

 

ところで、アニメ版ではすずが晴美と出会う直前に樹液を吸うカブトムシのシーンが挿入されている。無駄なものが一切ないと言っても過言ではない演出の中で、なぜこのような場面を入れたのか?そう考えているみるに、それは原作であった「砂糖を黙々と運ぶアリ」と「砂糖を買うか買うまいか悩む人間」の対比をより鮮明な形で浮き上がらせるためではないか。つまり、甘いものを自分の思うがままに食べられる「自然」と食べられない「人間」という対比である(ちなみに表題の「世界」とは森羅万象、「社会」とは人間が営む共同体のことを指す。両者は二項対立的なものではなく、後者が前者に包含されている)。

 

もう一つ象徴的なエピソードがある。アニメ版ではカットされているが、戦争が終わって人がようやく復興に向かおうという1945年9月に広島県などを襲った「枕崎台風」である。そこでは、対応に苦闘する人たちの姿が描かれるとともに、次のような北条家の人たちの発言で回が終わっている。「ハハハ冴えんのう」「まさか今さら来るとはのう」「もう一月も前に終わったのに」「大いばりで」「ほんまに迷惑な神風じゃ!」という具合に。このやり取りを見れば、作者がわざわざこの台風の話を入れた意図は自明だろう。そう、自然は人間の都合・意思など関係なく存在しているのである。特に近年多くの大震災(大噴火水害なども)を経験した私たちには自明のことだが、全くのところ当然のこととして、自然は私たちの「友人」か何かではない。たとえば病原菌が私たちを滅ぼす「ために」存在するわけではないのと同様に、それはまさにそれそのものとして存在しているのである(それらを「天罰」などとのたまう連中もいるが、勝手に意味を忖度しているだけの愚行と言えよう。というより、それがただの自己の写し鏡であると気づかず発言している様が実に浅はかなのである)。

 

そも、「この世界の片隅に」という作品は、独特な描かれ方をしている。たとえば昭和13年2月を描いた「波のうさぎ」では、圖畫の課題で水原の代わりに絵を描いてあげるシーンで、去っていく水原と飛び跳ねる波のうさぎの様子が輪郭線を用いずに描かれている。波がうさぎとして描かれているだけでなく前のコマとは違う描線であることからして、これはすずの心象風景を表していると考えられる。何より印象的なのは、右手を喪った後のまるで左手で書いたような歪んだ風景。これらの描写方法から明らかなように、世界の見え方はその人の心象を反映している。言い換えれば、世界認識は「主観でしかありえない」のである(ちなみにこれは人間同士のわかりあえなさとして、「長い道」という作品で徹底して、しかしコミカルに描かれている)。

 

そのような透徹した視点を持つがゆえに、「この世界の片隅に」では確かに瑞々しい自然描写があり、人間の心情に重ね合わされた象徴としての自然描写もありながら、一方で、自然は自然として我々人間の都合おかまいなしに厳然と存在することもまた極めてはっきりと(しかし押し付けがましくなく説得的に)描かれているのである。そしてこのことが、本作を単なるノスタルジー作品とは全く異質なものとしているだけでなく、世界理解・戦争理解についても極めて禁欲的で信頼できる傑作となった一要因と言えるのではないだろうか?

 

追記

ちなみに、台風の回は「戦争だけを書いているわけではない」ということを再認識させてくれる点も極めて重要である。物語の最初(「冬の記憶」・「大潮の頃」・「波のうさぎ」という三つの短編)こそすずの幼少期で戦争にまつわることは現前していなかったが(水原兄の件が話だけ出てくるのみ)、まさしく「この世界の片隅に 第一回」と銘打たれた話で水兵姿の水原が現れ、戦争に関わるものが目の前に現れる(ここもお見合いの話ですずが呉→水兵を連想したところページをめくると水兵姿の水原登場という展開が秀逸である)。それ以来、「この世界」のエピソードは戦争と不即不離の内容であったのだが、この台風のエピソードではじめて、「ああ、これはすずと周囲の人たちの営みを記す作品であったのだ」ということを再認識させられる。また、このエピソードからは、空襲を被る人にとってはそれがあまりにどうしようもないもの、つまり天災に類するものであったという認識にも繋がるだろう(この話は、「終戦」と「敗戦」の話と絡め、「重層性」というテーマでいずれ書きたい)。


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