孤独のグルメ:原作の雰囲気とドラマ版の違い

2023-08-20 11:37:21 | 本関係

 

 

さわやかハンバーグの待ち時間に、近くのブックオフで『孤独のグルメ』を購入する。

 

もう数年前のことだが、とある店で昼飯を食べていた時、孤独のグルメ(ドラマ版)が流されていて、愛知県日間賀島が紹介されていて興味を持った。そして最近、アマプラで数話分見たことで原作がどんなものか見てみたいと思っていたところ、偶然時間ができたので買ってみた次第。

 

結構前の作品らしいとぼんやりと知ってはいたが、ドラマ版とはかなりテイストが違う点がおもしろかったので少し書いてみたい(詳しい裏事情とかはそこそこ古い作品でもあるのですでに考察系記事も出ていると思うが、今回は単純に印象に残ったことを書き連ねていく)。

 

自分が原作を読んだ感想を率直に言うと、「ノルウェーの森の主人公が社会人になったらこんな風になりそう」だった。「斜に構えている」と表現したらやや極端だが、行き交うサラリーマンや主婦、学生などのマジョリティからは離れていて、かと言ってそういう流れから明らかに外れた人たちの側にも属さない。そういう独特の距離感が、昔のように「やれやれ」とは言わなくなったけど、外側から生態を観察することを選択した=世間に積極的にコミットしない印象を与えるのだろう。

 

ただ興味深いのは、そう思って読むと、新幹線の話、ヒッピーの話、アームロックの話、野球応援の話と、読者が主人公(やその後ろにいる作者?)への認識をズラしにきているように思えるエピソードが、度々見られることだ。

 

例えば新幹線の話は第6話だが、それまでもエピソードに加え、第5話ではパリでのロマンス話も出てくるので、「スタイリッシュだが孤独を好むハードボイルドな雰囲気の壮年男性が、一風変わった店に鵺のように入り込み、そこの人間模様や食事を観察・吟味する作品」というテイストが強くなっていたタイミングである(少なくとも自分はそういう印象を持った)。

 

そこで第6話では、そもそもお店にいくわけではないという新展開に加え、おいしいものを食べてタバコを吸うという行為が周りに迷惑がられて主人公が恐縮するという内容になっている。これは一つにはいつもの飲食店での過ごし方を公共空間でやるとどうなるかという話でもあるが(別に主人公に悪意はなく、弁当の構造上そうなってしまったのではあるが)、それは「決して主人公のようなあり方をダンディズムとして盲目的に理想視しているわけではないですよ」と暗に主張しているようにも見える。この解釈が正しければ、直線的にでこそないにせよ、孤独のグルメの描き方はあくまで一つの視点・スタンスであって、こういう主人公のあり方ことが素晴らしいと訴えているわけではない、という見方ができるだろう(「ノルウェーの森」的なるものへの距離感と言い換えてもいい)。

 

このような視点で見ていくと、第10話に登場する「ヒッピーのような団塊の世代」やエコに関する揶揄的な視点は世間のマジョリティから距離を置く主人公を通じて「脱成長的なものを是とする人?」という解釈へのカウンターにも見えるし、第12話に登場する今風に言えばパワハラ店主に怒って(パワハラを受ける留学生バイトへの義憤もあって)アームロックをかける主人公、第13話では夏の神宮球場という過酷な環境で汗だくになりながら親戚を応援する主人公の姿は、「やれやれ」と世間に距離を置いて我関せずを貫いているわけではなく、そこにコミットする精神も持ちあわえていることを暗に示しているように見える(ただ、アームロックの話はいささか主人公の発言がややぶっ飛んでいて、おそらく主人公を正義の人としてクローズアップしたい訳ではない意図ではあると思うが、逆に主人公の方がアブない人みたいになっているのはちょっと笑ってしまったがw)。

 

まあドラマと違って商談の場面を一切描いてないから世間から逸脱しているように見えやすいが、実際には取引先と毎日のようにやり取りして動き回っているわけで、作品の構成上そのような切り取り方・受け取り方になりやすいという点にどう対処するか、を考えた展開なのかもしれない。

 

このように、主人公のスタンスから受ける印象と、それを踏まえた上での様々なエピソードの特性を見ていくと非常に興味深いのだが、少し調べてみると、本作は1990年代当時のグルメブーム(あえて言えば「バブルの残滓」か)に対する反発の中で生まれてきたらしい。とすれば、なるほどそれが主人公井之頭五郎の独特な佇まいに反映されているのだなと理解した。ただおそらくは、そのような作品上の狙いに対して、主人公の造形がやや独り歩きしてしまったところから、その調整を図るために前述のようなエピソードが入れられたのではないかと予想している。

 

こういう解釈を踏まえ、改めてドラマ版を見返すと、原作にあったスタイリッシュな感じより朴訥な印象が強く、(おそらく)同じ年齢であるはずだけど、原作が「壮年」だとしたら、ドラマ版は「中年」という言葉がぴったり合う感じである(もっとはっきり言えば、ドラマ版は食事の量を除けば、初老の男性が好々爺として演じていても全く違和感がない。さらに主人公のボイスがやや明るめなドラマCDまで加えると、原作=コバルトブルー、ドラマCD=セピア色、ドラマ版=ロマンスグレーという感じかw)。これは一つは、商談で人と接する場面もきちんと描いており、そこで一貫して穏やかな話し方をしていること(滝山除くw)、また周囲の観察についてそこまで突き放した感じの描き方ではない点が大きいだろう。

 

ドラマ版が作られたのは2010年であり、すでに1990年代後半のグルメブームもバルブの残滓もなくなっていること、そしてテレビ放映ということで家族も見ることを踏まえての変更だと思われる(自分[たち]の生活を否定されるようなテイストの描写はお茶の間で見たくありませんよ、てところか。こういう変化やその意図は、例えば『三国志』と『三国志演義』、『信長公記』と『甫庵信長記』のように、史料と二次創作、そして二次創作が及ぼした影響を考えていく上でも参考になる)。

 

まあそのドラマ版は後に大変なブームを巻き起こしていくわけだが、それはまた機会があれば取り上げてみたい。


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