筒井清忠『近代日本暗殺史』:暗殺に同情的な世論はいかに形成されたか

2023-09-20 17:00:00 | 本関係
この題名を聞くと、「衝撃!暗殺された近代日本の有名人たち!!その手口と犯人像に迫る!!!」ぐらいの煽情的な内容が思い浮かぶかもしれないが、次のような紹介文を見れば、それが表層的な理解だと気付くだろう。
 
 
大久保利通暗殺後、犯人である島田一郎を主人公にした小説が刊行されて大評判となった。また、爆弾を投げつけられて一命を取りとめた大隈重信は犯人の勇気を称賛し、そのことで大隈への人気も上がった。日本には暗殺者への同情的文化が確かに存在していたのである。一方、原敬暗殺の真因は、これまであまり語られてこなかった犯人中岡艮一の個人的背景にあった。犯人が抱えていた個人的行き詰まり・挫折感は現代の暗殺にそのままつながるものである。近現代史研究の第一人者が、明治と大正の暗殺を丁寧に語り、さらに暗殺に同情的な文化ができた歴史的背景についても考察する。
 
 
ここから、「山上徹也による安倍晋三暗殺の背景と、それへの同情的な世論の要因を分析する」といった研究意図を読み取るのは容易だろう(筆者は直接的には言及していないが)。つまり、現代の暗殺者たちのローンウルフ的特徴を踏まえるがえに、集団に包摂され国家のために暗殺を決行した島田一郎や相原尚褧など明治期の暗殺者たちの肖像から、大正時代における孤独と煩悶の中で暗殺に到った朝日平吾や中岡艮一への変化=現代の暗殺者たちの連続性を分析しようとするのである(もちろん、大正時代の暗殺者たちの来歴を見ていくと、その鬱屈には同時代にある程度普遍的な要因が見られ、それが彼らへの同情的言説を生み出している点には注意を要する)。
 
 
個人的には、赤穂事件及びその理想化としての「忠臣蔵」水戸学と尊王攘夷思想憲政の常道とその崩壊などに興味を持っているので、それらをブリッジするような内容として非常に触発される内容であった。
 
 
さて、本書の構成としては、各暗殺事件ごとに参考文献が提示されており、さながら「小レポートの寄せ集め感」があるのは否めないが、前述のように現代へと繋がる「暗殺の精神史」とも言うべき大きな研究テーマが意識されているので、今回はその準備稿(?)の一つとでも捉えておく方がよさそうだ。実際、現代のローンウルフ的暗殺との関連で、最終章では昭和の血盟団事件や五・一五事件=昭和維新にも言及されている(なお、戦後の暗殺については、『日本のテロリスト 暗殺とクーデターの歴史』といった書籍に言及する以外特に触れていないが、1960年に壇上で日本社会党の浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢などをどのように分析しているのか・分析していくのかなどは興味を引くところだ)。そして今回提示された暗殺者への同情的姿勢は、軍部のメディア戦略であったり、昭和恐慌のような社会経済の危機が背景にあるにせよ、「五・一五事件への同情的世論→憲政の常道の終焉と軍部のさらなる台頭」といったターニングポイントにマスメディアや一般民衆がどう共犯的に関わっていったかを理解していく上でも重要だろう。
 
 
ちなみに、記述が江戸時代の話を飛ばしていきなり明治の岩倉具視暗殺未遂事件から始まるので、「おいおい知識人階級にとっての幕末テロリズムの記憶と、町人や農民にとっての義賊や仇討ちの称賛みたいな江戸時代の文化的背景なしかよ」とちょっと鼻白んだが、最終章ではそういった暗殺を当時の人々が称揚した江戸時代からの背景が端的にまとめられていたので、まあ結果オーライというところか。
 
 
例えば、暗殺の受け取り方について、暗殺の対象となった明治期の武士たちは、そもそも自分たちこそ吹き荒れるテロの中にいたのである(命を落とした者も少なくないが、井上馨などのようにテロを生き延び政権側に立った人物も枚挙に暇がない)。なるほど確かに自由民権運動なるものが行われてはいたが、それは新風連の乱や萩の乱、西南戦争といった武力蜂起が失敗したがゆえに、士族らが参政から排除されていることへの異議申し立てをする際そのようなアプローチを取らざるをえなかったのであって、そのような主張方法に全面的に賛成したわけでは全くなかったことに注意を喚起したい。
 
 
また、暗殺の対象とはならなかった民衆の側も、近代化の中で秩父事件などに代表されるように様々な不満を募らせていたわけで、ゆえに政府要人の暗殺事件を、忠臣蔵のような形での遺恨に対する武力報復、あるいはねずみ小僧のような「義賊」による「世直し」と重ね合わせて受容・称賛していったことは、江戸時代との連続性という点で注目に値する(まあそもそも、中世的自力救済の時代からすれば、彼らのメンタリティすら微温的とも言えるのだが・・・)。
 
 
そしてこのような大衆文化は、ある時は民衆の中で自生的・キメラ的に成長していったけれども、またある時には政権によってナショナリズムや既存の支配構造を受容させるためのツールとして利用されてもいったのである(これは天皇への忠節の中で死んだとされる楠木正成の顕彰や、義経伝説を北海道や大陸への領土拡大の正当化に用いるのと同じだ。ちなみにこういった事例は日本以外にも枚挙に暇がないので、たとえば「歴史小説のようなものはひとり創作の世界で完結し、現実理解には決して影響を及ぼさない」というような見方に私は極めて批判的だ→呉座勇一『戦国武将、虚像と実像』に関する記事などを参照)。
 
 
なお、今のような話を「支配者と被支配者」という二項図式のみで考えるのも問題がある。というのも、既存のブームに乗っかり、あるいはそれを作り出して増幅しようとする集団もいたからだ。それこそ、両者の間にいたマスメディアである(その意味でも「媒介者」ですな)。要は、そもそも「仇討ち」や「義賊」、「世直し」といったものに娯楽として慣れ親しんでいた人々に対し、テロールをそのようなものとして提示し、暗殺者への喝采を促進した存在の一つがマスメディアだったわけだが、本書においてはさらにメディア業界の人間の多くが維新の中で敗れた旧幕府側や藩閥政治からはハブられた人々であり、ゆえに反政府的言説の一つとして暗殺の肯定を行ったという指摘がされており、非常に興味深かった(『戦前日本のポピュリズム』などを著した著者の面目躍如というところか)。
 
 
このような傾向からすると、日露戦争のポーツマス条約締結に際してほとんどのマスメディアが政府の態度を弱腰として世論を煽ったとか(cf.日比谷焼き討ち事件)、あるいは部数が伸びるからと満州事変をどんどん煽って若槻礼次郎内閣の政策に悪影響を与えその解散を導き、いわゆる「15年戦争」の端緒を開く戦犯の一員となったという事例が思い出される(当然のことではあるが、反政府・反権力=善などでは全くないし、むしろそれがポピュリズムやパブリックディプロマシーという形で反社会的な影響力を持つこともしばしばであることを再認識できる機会になりそうだ)。
 
 
そしてこの認識を元に今日ジャニーズ問題への隠蔽加担でその信頼を日々落とし続けている大手メディアの様子を鑑みれば、すでに官僚組織化して権力機関として硬直状態になっている彼らに関し、例えば『マスメディア恥部百五十年史』のような書籍が発表されて、その足腰を粉々に砕き、もはやそこへ所属することが恥辱であるような事態を惹起せしめ、もってその解体的出直しを迫るにしくはなし、と思う次第である(「なるほどマスメディアの存在が重要であること自体は同意する。が、テメーはダメだ」て話やねw)。
 
 
ここであえて精神論的なことを言えば、かかる汚名を返上せんとの反骨精神を発揮したる人物たちが、自らも返り血を浴びる覚悟の取材・報道を世に問い続けるのでなければ、すでにその肥満体でまともに身動きが取れず、かつそれを維持することに見苦しくも汲々とするような組織を一体どうやって立て直すというのか、という話である(ちなみにそのような反骨精神と対照的なものが、コスパとタイパをひたすら重視する「ファスト教養」であり、また承認欲求の枯渇から常に出る杭であることを避けようとする「ゼロリスク世代」と言えるだろう)。まあこの不安定なご時世に、そんな損得勘定を超えた気概を持つ人物がそれなりの数集まり、継続的に活動し続けること自体半ば奇跡のようなものだから、その意味でも我々はこれから大手を含めた既存マスメディアが解体していく様の断末魔と悪あがきを見続けることになるのではないだろうか。
 
 
ともあれ、単に暗殺事件とその世間的評価というだけではなく、今述べたような形で様々な領域への理解・興味を深めるきっかけとなるので、ぜひお勧めしたい書籍の一つである。

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