心の底からIしてる

2013-02-26 18:44:46 | 感想など

おとついの「『属性』と交換可能性」に書ききれなかった話をここに掲載しときます。

 

さて前回は「属性」が交換可能なものである一方、「沙耶の唄」という作品で描かれる郁紀ー沙耶の感情は不変であるがゆえに超越的な印象を与え、それが「純愛」という評価に繋がっているのであろう、と書いた。ここでは、その補助線になる事例を一つ紹介しておきたいと思う。

 

ちょうど一ヶ月前のこと。椿山荘で行われる結婚式に出席するため目白駅で降りたが、少し時間があったのでブックオフに寄り本を探していた。その時に偶然『オタク成金』という新書を見つけ、記憶の片隅にあった「あかほりさとる」の名前に興味を覚え手にとってみた。そこで目に付いたのは、「かんなぎ」と「下級生2」という作品のある人物が非処女だったことに怒りを表明した人たちとそれへの評価だった。というのは、それをもって著者は「萌えはエロじゃなくて純愛」と評していたのである。

 

さて、これに対する意見をあれこれ述べる前に、まずプレイヤーが怒りに到った構造を考えてみよう。

1.学園ものという観点で言えば、「先生」といった妙齢のキャラが非処女だったことで反発が出たという話は聞いたことがない

2.たとえ学生であっても、たとえば「聖ヤリマン学園援交日記」といった作品に抗議が表明されたり、そのレーベルが打ち壊し(笑)の対象になったことはないらしいw

3.「かんなぎ」も「下級生2」の該当キャラも、最初から明らかに非処女であることが明示されているわけではないようだ。

※ちなみに「下級生2」の発売元であるelfは、老舗ということもありそのような反応・メンタリティに極めて自覚的であることは注意を要する。詳しくは「同級生から下級生へ『白紙』の主人公の扱い」を再掲する際に言及する予定→「主人公の設定・描き方」)

といったことからすると、要はバッタもんを掴まされた(処女だと思ったのに非処女だった!)という期待との齟齬に怒りの原因があるのだろう。まあフランス料理を食べに行ったのに出てきたのが中華料理だったら(#゜Д゜)ゴルァ!!となる人もいる罠、ということである(まあいささか過剰な反応だとは思うがw)。

 

ただ、私が疑問に思うと同時に興味深いと感じるのは、あかほりさとるの「純愛」という評価である。「純愛」という言葉の定義自体が多様でありうる(のによく考えもせず使われている)ことは前に書いたとおりだが、前掲の「『属性』と交換可能性」の内容も踏まえれば、そのあり方は「処女」というタグを愛している=条件付きの愛だと言うことができよう。では条件付きの愛は他にどのようなものがあるか。たとえば熟年離婚というものがあるが、それは「金の切れ目が縁の切れ目」的なものを一つの要因としている(もちろん昔と比べた離婚に対する社会の目の変化や女性の立場の変化etc...と色々な要素が絡んでくるが)。また「いくら顔が良くても年収~以上ないならパス」といった思考もあるだろう。いや、先の例は身体にまつわることじゃないか?と疑問に思う人もいるだろうから(まあそれをわかって書いてるのだがw)、例えば事故に遭って想い人が顔はグシャグシャで両手両足切断になりました。それで全く愛情が失せました、というのはどうだろうか?あるいはそこまで極端でなくても、恋人がレイプされて以降全く何も感じなくなった、というのは?

 

今述べたような思考態度もまた「純愛」であると評価するのなら、「処女」というタグを失ったことによって反発したり興味を失くすのもまた、「純愛」と言えよう。ただ、もし今の例を聞いて単純に驚く(=「純愛」とは思わない)のなら、処女性を「純愛」に結びつける自分の視点がワンノブゼムにすぎない、という他者性が欠落しているのだろう。言い換えれば、処女というタグを重視する姿勢は、条件付きという意味で(おそらくそういう人たちが嫌がるであろう)年収などを重視する姿勢と何ら変わりがないことに全く気づかず、自分の価値観を無邪気に信じている(だから真実性が高いという意味で「純」なる言葉を使いたがる)のではないか、という話である(ちなみにこの話をしつつ、私は世徒ゆうきの「375」という話を思い出した)。

 

勘違いされると困るのだが、私は条件付きの愛を批判するために持ち出しているのではなく、あくまでその具体例をいくつか取り上げたまでである(まあ熟年離婚の場合は、社会的な体面として結婚してから愛など全く感じていない、というケースもままあるだろうが)。というか、ここがしばしば勘違いされるところなのだが、それがありふれている「からこそ」、不変の愛が超越的な印象を与えるのである。また、「超越的」という言葉も問題なので一言しておくと、「超越的」ということと「正しい」ということは全く別の話である。たとえば、民族大虐殺の異常な情熱もまた、超越的なものとして感得されうるのであります(ヴァイツゼッカー風にw)。

 

え、そういうお前はどうなのかって?俺は条件付きの愛情しか抱いたことないからわかんねwwwたとえば日本を「ダメであるがゆえに愛する」とか聞いたりするけど「それどんなマゾプレイ?」としか思わんしwwwえ、家族はって?おいおいおい。それこそ「家族」っていう条件付きのものじゃんwwwただまあ今みたいに構造解析はできるし、少なくとも自分のそういう独善性に自覚的ではある。だからこそ、半ば露悪的な意味を込めて「外道語録」とか書くわけでね。別の言い方すっと、「無条件の愛」ってロマン主義と一緒で不可能性の希求なんだな。それを理解せずに美しいとか素で考えてるアホは、まあ「スポーツマンシップ」の記事でも読んで頭冷やせってことwwwでさあ、条件付きの愛がありふれているからこそ、その枠に収まらない郁紀と沙耶の態度や関係性が超越的な印象を与えるわけでしょ?そしてそれが「純愛」なる印象を生み出してるんじゃねーの?ってことなのよ。そこんとこいい加減理解汁!いやまあさっき書いたような自分が「Iしてるだけ」のことにも気付かんアフォどもの感情の動きを予測した上でそれを「純愛」とお墨付きを与えてあげるとか、あえてぞくじょーとのけったく的に言っているのならいいけど、素なら軽くキョーフっすねwww

 

最後に。
他者性とは、よく勘違いされるように「ただ相手のことを思いやる」といったことではなく、結局自分というフィルターを通してしか世界を見ることができないこと、そして他人もまた同じであるがゆえに自分の意のままにならぬことを徹底的に自覚することから始まるのではないだろうか?とだけ書いてこの稿を終えたい。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沙耶の唄~「属性」と交換可... | トップ | 願望、交換可能、未規定性 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

感想など」カテゴリの最新記事