この世界の片隅に:水原の演技について

2016-12-28 12:21:12 | レビュー系

前回は、本作における自然の描写、すなわち「人間と重なり合わぬ、人間の都合など関係ないそれそのもの」としての描写について触れた。一応補足しておくならば、「神風」と期待された台風が空襲の厳しい昭和20年7月・8月ではなく、よりによってその直後の9月に来たこと、そして焼け野原となった広島市や呉市に甚大な被害をもたらしたこと(欄外の注によれば、呉市の死者だけで1154名)は、「神風に護られた不滅の神州」として本土空襲も神風でどうにかなると思っていたという人々のナイーブな自然観に対する痛烈な皮肉となっていることは明らかである(そもそも今のようなモノローグとともに台風一過の中で生き延びようとする人々の姿が描かれており、作者が前回述べたような図式を明確に意識していることは明白なため)。

 

というわけで、ある意味「自然」と「人間」の対比的側面というか、自律的側面について書いた(ただし、作者は「自然に無邪気な期待を寄せる人間」という視点よりむしろ、「他者とのわかりあえなさ」の一環として、人間のナイーブな自然認識を描いていると言った方が適切である)。今回は登場人物の一人である水原哲のアニメ版の演技(ちなみに声優は「おそ松さん」の十四松と同じ)に絞って論じておきたい。

 

彼については、以前の記事でアニメ版の声優の演技を賞賛した際に、入湯上陸して結婚したすずと再会した彼の演技だけはやや浮いている感があると書いた。これについて、原作との対比も交えながら少し補足をしておくと次のようになる。

 

水原の存在は、呉におけるよそ者であり、北条家にゆかりのない者であり、最前線にいたという点で内地の者とも違う(まだ呉が空襲を受ける前のことだ)。つまり、あらゆる意味において「異質」な存在であると言う事ができる。このことは、すずが家事に勤しむ様子を見てずっと楽しそうにしながら「お前ほんまに普通じゃ」と言っていること(それは、非日常を経験して「普通」というものがどれだけかけがえのないものかを知っている者の佇まいであるように思える)、あるいはすずたちが「身の回りにあるどんなものでも使うのが私たちの戦争」と言い何とか毎日を生き延びようとしている中で、彼は「死に遅れるいうんは焦れるもんですのう」とかすれるような声で言っていることなどからも明らかだろう(ちなみに原作では、その直前に「同期もだいぶ靖国へ行って(筆者注:死んで)しもうて集会所への寄りにくうなった」という発言があり、北条家の訪問も「死に遅れる」発言の背景にある複雑な陰影がわかるようになっている)。さて、その「異質」さは、原作においては次のように表現される。

 

 

一目見れば明らかなように、水原だけが濃い色の服を着ており、それがすでに彼の存在を浮き上がらせている(そう見える彼が「内地にいて家を守るすずと青葉で国を守る自分も同じ陸続きの存在である」という趣旨の発言をするからこそ、重みがあるのだけれども、それはまた別の機会に書きたい)。しかしながら、アニメ版では次のようになっている。

 

 

周作も同じ色の服を着ているし、北条家の母子(特に径子)が濃いめの服を着ているため、ビジュアル面で水原は浮いていない(ちなみに原作で濃い色の服を周作が着ているのは結婚式の時と、武官になってからだけである。この変更がリアリズムによるものなのか、はたまた他の事情かは私の知識不足で不明)。では、どのように異質な存在であることを演出しているのか?そう考えた時に、彼の演技が連想されるわけである。監督インタビューでも言われていることだが、本作においてキャラクターの動きや演技は生活感が非常に意識されている。その中において、水原の豪快と無神経が同居したようにも聞こえる声や笑いは明らかに異質である(幼少の頃はむしろやや斜に構えた声・態度であることにも注意を喚起したい)。だから、彼の演技は異質であることを示すためにも、実際今の「普通」がこの上なく幸せなものと見えることを示すためにも、ややもすると大げさに見えるようなものとなっているのではないだろうか。


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