ヒトラー最期の12日間~「風景の狂気」からの脱却~

2011-01-26 18:09:27 | レビュー系

アルラウネと性活してみた」の中で怒りの総統シリーズを引用したので、ついでに元ネタの「ヒトラー最期の12日間」のことも書いておこうと思う。

 

一般的な歴史(人々の認識)においては、アドルフ・ヒトラーという男は第二次世界大戦あるいはユダヤ人大量虐殺の元凶として認識されているのではないだろうか・・・というのは少しばかり言いすぎにしても、この作品のヒトラーの描き方に違和感を覚えたり、それを同情的だと批判する人は少なくないと思われる。しかし、もしその批判が「製作者がヒトラーに同情的だから」というものであるなら、それは極めて底の浅い見解と言える(あるいはヒトラーへの同情的描写そのものが禁じられるべきと言うのなら、それは偏狭な表現規制・言論弾圧である)。たとえば、状況を打破する術を失った無気力で退廃的な将校の様子と見捨てられ逃げ惑う市民の姿が同時に描かれているが、それは「滅びの美学」などというナイーブな評価をこの作品に与えることを拒絶するばかりか、むしろ「美学」の名のもとで人々の生命を踏みにじる者たちの姿が印象付けられるであろう。このことからすれば、製作者側がヒトラーに同情的だなどと単純に言えるはずもなく、逆にそう自分が感じる理由=内面化された基準をこそ問題にすべきではないだろうか。

 

そういう前提を元に視点を変えると、私はヒトラーに同情的、というか彼を(ある程度)理解可能な存在として描いていることが極めて重要だと思う。なぜだろうか?先にも述べたように、アドルフ・ヒトラーという人物は一般的な歴史においては極悪人としてその名を刻まれているわけだが、それは彼をパラノイア的、メガロマニア的狂人=単なる風景の狂気へと仕立て上げるとともに、ナチスや民衆たちの熱狂を「イカれた現象」と人々に認識させてしまうだろう。元々イカれたヤツらがイカれた事件を引き起こしたのだ、と考えることほど楽なものはない。なぜならそれは自分たちには全く関係がないのだから(註)。ヒトラーを、あるいはナチスを絶対悪として描く作品群の中には「それによって同じ悲劇を繰り返さない」という意図をもったものもあろう。しかし、そこに到るプロセスが理解可能な形で示されないならば、仮にその行為がどれほど残虐非道であっても、それは行為者(たち)が始めから病んでいたがゆえにそうしたのであって、その病にかかっていない私(たち)には関係ないということで無害化されてしまうのである(もちろん、「『神の罰』の起源」やら「論理至上主義の陥穽」でも書いてきたように、あらゆるものを理解可能な範疇に収めようとする心性には注意を払う必要はあるが)。

 

逆に言えば、ヒトラーを理解可能な存在として描くことによって初めて、「それにもかかわらずなぜあのような凶行に向かったのか?」という視点が出てきうる。つまり、他者へ同情や気遣いもする人間が、なぜあれほど残酷な大量虐殺を命令できたのであろうか、と。ここからは、前にも断片的に書いた「いい人」の問題、つまりカール・シュミット的な「敵―味方」の線引きや善ー悪の交換可能性の問題などが立ち上がるわけだ。それとともに、ヒトラーについて行った人たちのことを、ただ「狂人に騙された残念な人たち」と見なすようなこともなくなるだろう。同時代に書かれたアドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』やフロムの『自由からの逃走』に見られるような危機感・問題意識には到れないとしても、だ(たとえばそれは、「なぜワイマール共和国、あるいは西ヨーロッパという『先進地域』が、あのような怪物を生み出してしまったのか」などと表現できるだろう)。

 

そのような意味で、「ヒトラー最期の12日間」は人間の脆弱さ、あるいは文脈依存性を扱った“THE WAVE”や“es”とはまた違った形で気付きをもたらしうる作品だと言える(「人間という名のエミュレーター」)。またそういうわけで、私はヒトラーに対する同情的とも見なしうる描写を極めて重要だと考えるのである。あとは、その描写に引きずられて「ヒトラーがかわいそうだ批判するな。彼もまた被害者だ」といったナイーブな言説を振りかざすようになる人間が皆無に近いことを願うばかりだが、そのような反応もまた他山の石にはなるだろうし、またしていくべきだろう。

 

(註)

作中でゲッペルスの次のような言葉がある。

「同情はできないね。彼らに同情などしない、絶対に!彼らが自ら選んだ運命だ。驚くものもいるかもしれないが、よく思い出せ、我々は1度として国民に強制はしていない。国民が委ねたのだ。それで破滅に至るなら自業自得さ。」

これ自体は、政権を握った後で反対者を弾圧した(=常にドイツ国民が自由意思に基づいて支持してきたわけではない)ことなどを隠ぺいした自己中心的な発言と言える。とはいえ、前述の無害化の話と絡めると、これは「ドイツ国民はヒトラーという狂人に踊らされただけだ」といった責任逃れに対する批判として興味深いものである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 灰羽連盟草稿3:冗長、共感... | トップ | 灰羽連盟:寺院訪問アラカルト »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

レビュー系」カテゴリの最新記事