沙耶の唄:作者のナイーブな期待と認識

2011-06-24 18:09:03 | 沙耶の唄

というわけで、予告通り「沙耶の唄」についてまた書いていきますよと。以下の内容は「二項対立と交換可能性」に続くものとして書いたものだが、前回説明した視覚がもたらす等価性が、善悪の境界の曖昧さ(恣意性)を意識づける機能を果たしており、それゆえに沙耶の唄=恋愛モノと捉える人が多くいても全く不思議でないという話をしている。

 

あえて言うなら、沙耶の唄のテーマそのものはそう珍しいものではない。しかしながら、人物への没入を容易にする主人公主観といった表現形式、さらには意表をつくエンディング(これは別の機会に説明する)という内容面が相まって、「沙耶の側が(完全に)正しいわけではないと理屈ではわかっていても、そちらに引きずられてしまう」という現象が起きる。で、そのアンビバレンスな認識に「いやちょっと待てよ・・・」ということになって、実はちょっとした演出で感情移入や動員のフックなんて作れてしまうし、またそれに乗せられてもしまうんだなと気付く。そうすると、世界に「狂気」や排除が渦巻くのは踊らされる「バカな」人たちや没入する「弱い」人たちがいて、特殊な彼(女)らがやっているだけで自分たちには関係ない(=風景の狂気)という考えは大きな間違いだとわかる。このような世界認識のリフレーミングは、例えば「ヒトラー最期の12日間」の中で触れた“THE WAVE”や“es”(最近リメイク版として“The Experiment”が公開された)を見ても起こるが、内側から生じる感覚を元にした内省という意味では、こちらがより深い気付きとなりうると私は考えている。

 

てな具合になるわけだが、同じ作者が脚本を書いた「魔法少女まどか☆マギカ」を見れば、今言った話はずっと簡単に理解できるものとなるだろう。たとえば、インキュベーターは「萌え」を狙った外見でありながら、「感情移入」のフックをあえて全く与えていない、とかね(あのガラス玉のような眼?を何度も映すのはちょっとあからさますぎて萎えるが)。あれは「理屈としてはわかる部分もあるけど、感情的には納得できない」というものであり、沙耶とは全く逆の反応を喚起するものですよと(cf.「平等」)。

 

さて最後にちょっと補足。原文では「作者はあくまでゲームメーカーなのであって、批評家でも何でもないのだから(まあそれを言ったら私もそうだが)」という文章があるが、この「私もそうだが」ってのは「批評家でも何でもない」という部分にだけかかっております。老婆心ながら念のためwまた押井守については、「昨今の」と断り書きを入れる必要があるだろう。

 

 

<原文>
前回の「沙耶の唄:二項対立と交換可能性」では、作者の意図に反して沙耶の唄を「恋愛もの」と評価する人が多かった理由を、サウンドノベルという形式及び郁紀視点と耕司視点の等価性(特殊であるはずの前者が第三者視点によって補強されている)にあると分析した。そしてその上で、「レベルの低いナイーブな作者の意図」よりも作品から読み取れる交換可能性の方が明らかに質が高く、ゆえに私が作者の意図がどのように誤読されたのかを分析するのも、作者の意図に合わせて現行の内容を改悪することではなく、あくまで実態を把握するのが目的なのだと述べた。


ただ、そこにおいて「作者の意図」という表現をしてしまったことにより、私の批判の対象が作者の考え方そのものだという誤解を与えてしまったのではないかと思う。それは時代状況という一般論的なアプローチから入った理由にも関わる重要な問題なので、今回は、一体私が何を、そしてなぜ批判的に見ているのかを今一度明らかにしておきたいと思う。


インタビュー記事やその他の解説を見ていて強く印象付けられるのは、沙耶の側を明らかな異物とする二項対立的位置付けである。そしてそのような見方は、作者がB級ホラーのところで述べているようなシニカルな視点(≒様々な作品に触れることで得されるパターン分析的視点)を土台としている。つまり、いくら少女に見えようが、「人間的」と思える行動を見せようが、結局それは仮初のものに過ぎない、というわけである。このように、いささか捻じれた土台に基づいてはいるが、あえて単純化するなら、作者の見方は「人間VS異物」、「ヒーローVS悪役」的なものだと言っていい(だから作者はどうしても反撃を描きたくなるのだろう)。


では、このような二項対立的視点そのものが問題なのか?
確かに、いわゆる「大きな物語」が凋落した今日、それ自体あまりに単純で古ぼけたものであるようには思える。とはいえ、そのように価値観の多様化した状況であるからこそ、たとえ時代錯誤に見えようと、異常に思えようと、それもまたやはり一つの価値観として存在を根本から否定し辛いのは確かである(特に嗜好の問題であればなおさらだ)。そして私もまた、それ自体を批判の主な対象としたいわけではない。


問題なのは、そのような認識を多くのプレイヤーが共有していると作者が考えていることなのである(設定資料集96Pの郁紀を耕司が追うシーンのコメントで、プレイヤーの視点が後者にシフトしたはず、と述べていることはその最たる例)。要するに作者は、それがあくまで自分個人の問題だと考えず、一般化しているわけである。だからこそ私は、その考えが的外れなものであることを、例えば自分のプレイ経験であるといった特殊具体的な切り口ではなく、時代状況の分析という一般的な視点から始めなければならなかったのだ(もし前者のようなアプローチをすれば、自分の反応がいかに一般的であるかを様々な具体的事例[=他のレビューの集積]から証明しない限り、単に「例外」として処理される危険が付きまとう)。


さて、作者の期待するプレイヤー像、すなわち「オタ街道」とやらを極めている者が多く、それゆえにシニカルな視点を持っているというイメージが時代錯誤なものであることは、「虚淵玄の期待とプレイヤーの反応の齟齬」において説明した通りである。そこでは、エロゲーの普及、「たこ壺化」、「泣きゲー」の流行現象といった視点で話したが、もっと話を広げるなら、(「たこ壺化」とも連動するように)作者の認識は様々な意味でポストモダンの世界における多様性・相対性とそぐわず、サブカルという観点で見た場合でも、攻殻機動隊で示されるコピーとオリジナル(あるいは自我)の境界線の曖昧さであるとか、グレッグ・イーガンの「しあわせの理由」で示されるような人間の動物性(人間⇔動物という対立図式の失効、ないしは相対化)とも逆方向である(ちなみに言えば「順列都市」もそのような境界線の相対化という観点で興味深い)。そしてこれらの作品は、少なくとも作者の言う「B級ホラー」などと比べれば、当時あるいは今日でも流行しているのである。要するに、作者の認識は時代状況だけでなくサブカルという観点で見ても的外れなものだと言える(そう、おそらく作者にとって、「オタ街道」なるものにはB級ホラーは含まれても、当時話題になっていた攻殻や海外SFでは非常に有名なイーガンは範疇に入らないのだ……とこのような言い方をすればわかると思うが、要は作者言うところの「オタ街道」とは、実態を反映したものなどでは当然なく、自分の作品を自分の意図したように受け取ってくれるのに都合のよい枠組みにすぎないのである)。


とはいえ、だ。
百歩譲って、このような視点を作者が持ちえないことは認めてもよい。作者はあくまでゲームメーカーなのであって、批評家でも何でもないのだから(まあそれを言ったら私もそうだが)。しかしそれにもかかわらず、批判が的外れであるとか厳しい要求であるなどとは全く思わない。なぜなら、設定資料集を発売した2005年8月の時点で作者はプレイヤーの多くが沙耶の唄を「恋愛もの」と評価した事実を知っているだけでなく、沙耶の唄の発売から二年も経過している事情で、そのことについて考える時間は十分にあったはずだからだ。


このような訳で、作者がインタビューの中で沙耶=異物を元にした二項対立的認識を恥ずかしげもなく提示するばかりか、それを一般的であるような物言いをするのは、不見識を通り越して異常だとさえ言える(※)のであり、ゆえに私はそのような作者の態度全般を指して、「レベルの低いナイーブ」なものと評価するのである(※2)。


さて今回の記事で、作者の期待した反応とプレイヤーのそれがズレた理由は大方の読者に理解されただろうし、また何をいかなる理由で私が批判的に見ているかも明らかになったと思う。よって次回は、沙耶の唄=「恋愛もの」という評価に大きな影響を与えたと思われるEND1(郁紀が精神病院に送られる)という具体例を取り上げ、一応の締めとしたいと思う。


(※)
このことは、いかにこのような認識の呪縛が強いかを物語っている。そしてだからこそ、彼はただ誤読に戸惑い、自分が参照してきたものを提示することしかできないのである(例えば、107Pにおいて「美少女ゲームだから恋愛ものだと思い込みたかったのでは?」というインタビューワーの浅薄な推測に、作者が同意していることなどを想起したい)。


(※2)
沙耶の唄の作者は、少なくともエロゲーという領域においては定評のある作家である。それがこの体たらくなのだから、エロゲーの程度が知れるというものである(まあ一応弁護するなら、彼はただ好きなことをやっているだけなのだろう。アニメで言うところの押井守みたいな感じか?)。


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