Do you really dream of jumping sheep?
(ども 火星人です。レイシストお断り)
Martian Official Weblog



ヤフー板で、きついことを言ったら相手の人がHNを消してしまいました。

反省します。

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HPのトップページの音楽にまつわる無駄知識。(どうも風邪気味でネタがない)

ドビュッシーの子供の領分の第1曲で、Doctor gradus ad Parnassumなわけですが、
これはピアノの教則本にもあるクレメンティの曲 Gradus ad Parnassum からとられていることはHPにも書いてます。

そして、今日の写真は、パウル・クレーの代表作の一つ「パルナッソス山へ(ad Parnassum)」ですが、パルナッソスというのは、ギリシャの山の名前です。
アポロン神殿のある山です。アポロンにのっとられる前は、ミューズのものでした。
ミューズは、芸術の神ですね。

さて、gradus は何かというと、もともと「階段」とか「階級」(grade) の意味のラテン語です。
ad はというと前置詞です。場所を表しています。
ここでの意味は、英語の to 見たいなものですね。
(at かと思ったけど)

で、Parnassum というのは、Parnassus の対格。英語で言うと目的格みたいなものです。
英語で、前置詞の後は目的格であるのと同様に、ラテン語でも前置詞の後は対格になります。
もちろん、Parnassus は固有名詞なんだけど、ラテン語では固有名詞でも対格で格変化します。

「パルナッソス山への階段」みたいな意味になりますかね。
おそらく、Gradus ad Parnassumというのは象徴的に使われていて、「芸術を極める道」みたいなものかと思われます。

ちなみに、パリのモンパルナス(Montparnasse)は芸術家が集まる場所だったけど、それは Montparnasse がパルナッソス山のことだからですね

てことで、モンブラン(Mont Blanc)は白い山のことなんだから、黄色いのがモンブランになっていることには常に不満です。


昨夜、白くまのピース見てて、そのあとT REXも見たから今日は眠いです。

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夢といっても、将来についての夢ではなく、眠っている時に見る夢でつ。

タイトルの変な夢という言い方は、微妙でつ。なぜかというといつも変だからでつ。
タイプとしては、次の4種類に分かれると思います。

(1) リアルな夢

行動がわりと普通で、理解できない展開があまり起きないタイプの夢。
これは滅多にありません。
ただしリアルな夢のときは、登場人物がリアルではありません。
リアルな夢に限って、どちらかというとあまり好きではない芸能人が登場し、その人となぜか仲良くなったりします。
ただ、夢の中で交わされる会話の内容や自分の行動などが理解できる範囲のものなのです。
好きな芸能人が出てこないのが不思議です。w

(2) 奇怪な出来事が続く夢

ほぼ「悪夢」と同義です。
とにかく嫌なことが次々と続く不愉快な夢。よくあります。
目覚めワルイでつ。

(3) テレビの音声に影響された夢

テレビをつけっぱなしにしてうたた寝した時に見る夢です。
もろに影響されています。
夢のほうが猛烈な速度で進行しているので、わけがわかりません。
2時間ドラマなどのミステリーな話の時は、必死に謎解きをしています。
ただし、音声のほうはゆっくりと進んでいるので、それが聞こえるたびに展開が変わります。
そのため、わけがわかりません。

(4) 謎の法則がある夢

これが1番多いような気がするのですが、その夢の中の世界には不思議な法則、あるいは不思議な倫理観、または、不明な最終目的があって、自分の行動やまわりの人間の言動は基本的にそれに支配されています。

例えば、貨幣というものが一切ない世界。
貨幣がないかわりになにか特殊な倫理があってみながそれに則って行動している。
自分もそのために必死になって頑張っているが、それが具体的にどんなものなのか不明。
したがって自分はなんのために頑張っているのかさっぱりわからない。けれども、とにかく頑張っている。
もー、必死なのだ。
その謎の倫理にはずれている者がいた場合、戦ったりするわけだけど、どうしてそいつが倫理からはずれているのかはもちろん分からない。でもとにかくはずれているのだ。だから戦わなければならない。(爆

んーー、なんかこれってむしろ現実的かも。w

ごくまれにほのぼのとした夢も見るけど、本当にごくごくまれ。まれな望みと書いて「希望」といいますが、ええと、やっぱ、滅多に見ることができないからかな。。。。

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がっこーで、

645年、中大兄皇子、中臣鎌子らは蘇我家を滅ぼし政治の実権を握った。これを何というか?

こういうのが有ったと思う。
どうやら大化の改新らしいのだが、どうもネーミングが納得できなかった。
「『改新』というのは、しくみやほうりつをあたらしくすることじゃないのかなあ。これはちょっとちがうきがするなあ」といった感じだった。
本来は「大化改新」とはその後の政治改革を含めて言うそうだが。

ところが、結構大人になってから、実は「乙巳(いつし)の変」という言葉があったことを知ったのです。
うーん、これなら納得できる。
政変なんだから、やっぱり「~の変」じゃないと。
蘇我氏を滅亡させたことは改新ではないよね、うんうん。あれが改新じゃあ、勝った方の都合にも程があるのだのだよ。

というわけでただそれだけだったんだけど、そんなことを考えてながら今朝の新聞をちらっと見たら、蘇我入鹿邸の遺構が見つかったとかなんとか。

どうやら世の中はばくを中心に回っているらしい。(違

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全然関係ないんだけど、「水」の話のリンクに「プラス」という表現があって、それでふと思い出したことがあった。

小学生ってときどき(いや、小学生に限らないけど)、テストでものすごく面白い答を書くのがいたりする。

「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)とともに大化の改新の中心になった人はだれですか」なんていう問題に「ふじわらのかたまり」という答を書いたりするわけだ。
採点するほうは可笑しいやら悲しいやらだろうけど、これって天然なだけに可笑しさ倍増であーる。
まあ、「かまたり」と書こうとして「かたまり」になった場合もあるだろうけど、普通、というかぼくなんかはこういう答は書けない。
知識の問題じゃなくて、「ふじわらのかたまり」という答を書く勇気がないのだ。
正解が思いつかなくても、これはおかしい、書いたら恥をかきそうだ、という思いが先にたつからだ。

高校の時に漢字の読みのテストがあって、「猥褻」というのが出てきた。
「あ、『わいせつ』だな」とは思ったが、絶対の確信はなかった。
そのうち、これが「わいせつ」ではない場合のことを考えてしまう。
「わいせつ」じゃないものに「わいせつ」という読みをつけしまってあとからそれを指摘されたら、えらい恥だ。
「エロいやつ」とか「わいせつ君」とか言われるかもしれない。
後々まで残る大きな恥になりかねないのである。w
結局、答を書かなかった。もちろん正解は「わいせつ」だったから、「くそー、しまった」と思ったが、しょうがない。

これはマイナス思考ゆえの躊躇である。

「ふじわらのかたまり」という言葉を思いついた時に、「『かたまり』は変だな。『かたまり』と書いて間違っていたら恥ずかしい」と思ったらやっぱり書けないだろう。
そういう中で「ふじわらのかたまり」と堂々と書いてしまうやつはなかなかプラス思考である。w

その二は後ほど。

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前回の

>それを語るのはちょっと安易なんだけれども、次回は小学校の先生に限ってこうなる原因を追究しようかにゃ。

これって、ちょっと誤解を招くような表現でした。
「小学校の先生に限ってこうなる」というわけではなく、原因を追究する対象を小学校の先生に限る、という意味でした。すまそ。

小学校の先生のことで不思議なのが「担任」。
全教科教えちゃうんだよね。
子供の全人格を把握するのだそうだ。
目指すのは結構だけど、そんなこと、ありえないだろ。

全科目教えるというのは全部、ばっちりできなきゃならんのだよ。
それもほぼありえないと思うのだ。もちろん、知識的にはさほどのものは必要ないかもしれないけど。
公務員の中で一番多いのが小学校の先生だそうだけれども(現在、統計要覧が行方不明なので未確認)、たくさんの子供の全人格を把握して、なおかつあらゆる科目に精通している、そんな超人が日本にはものすごく大勢いることになる。
ニーチェもさぞや満足に違いない。

科目についてはある程度、専科という考え方がでてきているようだけれども、やっぱりお勉強科目に図工、音楽、体育そしてとどめが道徳っていうのは無理でしょ。

「水からの伝言」を授業でやっちゃうような先生は、とても勉強を教えられるレベルとは思えないでしょ。少なくとも理科は絶対嫌だよね。
(道徳もまずいよね)

人間、得意不得意があるんだからさ。まあ本人の得意科目とうまく教えることができる科目が一致するとは限らないけれども、とにかく一人で何もかもやるというのが無理なのだ。

生徒のメタレベルの思考を考慮できない、というのは、つまり先生と生徒の間でメタレベルでのコミュニケーションができていないってーことだぎゃあ。

これはなにも小学校に限ったことではなくて、どんな学校でも有り得るというか普通に存在している問題だろうし、学校だけではなくて、病院だって、医師と患者、看護師と患者、それにたぶん医師と看護師の間でもあるだだろうにゃ。
というよりもどんな社会でも常に重要な問題なはずなのだ。
勤め人だったら、上司や部下や顧客との間でもいいし。

こういう重要な問題、特に子供にとっては非常に重要な問題だと思うけど、結局そこに力を割けないような状況が小学校にあるのではないかと思わないこともないこともないでもないのら。

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一回でまとまるといいなー。(くす

(1) 信じている人たちについて。

信じる信じないは個人の自由なので、あまりとやかくいいません。何を信じようとそれが自由であることは憲法でも保証されています。
ただ、科学とはかけ離れたものを科学的だとあっさり思い込むというのは、やはり「信じたい」精神だと思うのです。
「真実をしりたい」という精神とは正反対のものであって、自分なりにいろいろな資料をしらべるであるとか、そのような精神は無いと私は思っています。
それも、個人の生き方の問題であるので、否定はしません。
だから、信じること自体は構わないのだけれど。。。。

(2) 学校で取り上げることについて

まず、学校で科学でもなんでもないことをあたかも証明されたように語り、それをもとに道徳の授業をする先生。
先生やっていながら、せめて科学的なものかどうかの区別もつかないのかね。
一応、ちゃんとした教育をうけたのではないの?こういう先生に教えた先生もやっぱり同じだった?
「先生」が信じること自体まことに理解しがたいけれども、生徒に教えるなよ。

(3) 道徳の授業として

言葉を単にきれいなものときたないものとして捉えている点。これがおかしい。
しかも、単語だけを対象にしている。
世の中には「口は悪いが根はいい人」なんていうのはたくさんいるだろう。
その反対に使う言葉はきれいだが考えることはろくでない、という人間もいるだろう。

あのサイト(前回貼り付けたやつ)の道徳の授業を見る限り、きれいな言葉をそれらしく言うことが出来ればそれでよしのようだ。
「ありがとう」というのは、まずその「感謝の気持ち」を持つことが重要なのであろう。そしてこういうことは5年生ではなくもっと早くに(教えるならば)教えるべきであろうし。
このような事象(科学について、また、言葉がきれいとかきたないとか)にたいして子供がどのように考えるかという部分がまったくでてこない。
あのサイトにあるように、ただこのように指導してこう話して終わり、という授業なのだろうか。

これはmixiでの友人の日記にでてきたのだけれど、

http://tomiken.at.infoseek.co.jp/eas9.html

(↑直リンをさけてます)

この話は、ベイトソンが統合失調症(当時は分裂症と呼んでいたけど)の説明につかったものだそうですが、
メタレベルのコミュニケーションというものがでてきます。
要するに、表出する言葉の奥にある真意が伝わることでつね。
実際のコミュニケーションは、このメタレベルのコミュニケーションのほうがはるかに重要で、表に出た言葉がコミュニケーションに占める割合はわずかだといわれています。
まあ、どの程度わずかかをあらわすのは難しいでしょうが、普通、ぼくらが会話する時にまるっきり言葉どおりのものだけをきいてそれだけで意味を判断するなんてことはしないでしょう。

ところがこの道徳の授業では、それが無視されているのだ。子供がメタレベルで思考することについては一切考慮されていない。
コンテキストなどは無視して、「ありがとう」という言葉はきれいな言葉だからつかいましょう、ただそれだけなのだ。

子供達が美辞麗句に踊らされるバカになったらどうするのだ?
そこに生えてるきのこが綺麗だったら喰うのか?

道徳というのは主として「当為」(「べき」、ゾルレン sollen←ちなみに刃物で有名な街・・・ではない)で語られるものであろうと思う。「べき」論とは、メタレベルで考えるものだろ。
メタなはずなのに表面だけのこの授業は、一体なに?

当然、こういう場合、似非科学がわからずメタレベルの思考もわからない学校の先生の「質」が問われてしまうのであります。
それを語るのはちょっと安易なんだけれども、次回は小学校に限ってこうなる原因を考えてみようかにゃ。



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よいしょ


<発問>(  )に当てはまる言葉を書きなさい。皆さんは、これがないと生きていけません。
「漢字一文字」というヒントを与える。


まず、設問に無理がある。
これがないと生きていけなくて漢字1字であらわすものは「水」だけではないですね。
質問してもいいが、これが分かるかどうかが重要であると子供が勘違いしないように、注意する必要があります。

<発問>ご飯と同じように水がたっぷり入っている生き物がいます。さて、何だと思いますか。

言うまでもないけど、大抵の生き物はそうなんですよね。。。

続いて、言葉のきれいきたないはなにを基準にしているのでしょうか。

それから、ロックの曲に対する偏見があるようです。
なぜロックの曲といわなければならないのでしょうか?
パンクなら分かります。あれは、汚い言葉を浴びせるために出来たものですから。
そもそもゴールドベルク協奏曲ってなんでつか?変奏曲ではないのでつね?w

水が文字を理解できるということは証明されてません。www

「水に文字を見せる」というのは水を擬人化した上での表現であることを示さないといけません。
擬人法という言葉は難しいから、もっと噛み砕いて説明しましょうね。
あと、単語ばかり使ってますが、水はもう少し長い言葉は理解しないのでしょうか。
方言はどうでしょうか?古語は?
どこの言葉でも分かるのでしょうか?
フィンランド語とかはどうでつか?日本の水はフィンランド語とかわかります?
2ch語はどうでつか?「萌え」だとどんな結晶になるでしょうか。
「おまいらもっときれいな言葉を使ってください」はどうでせう。
水蒸気に言葉を見せても理解できるのでしょうか。

ひょっとして、「ありがとう」という言葉から、マイナスイオンが発生しているということはないのでしょうか。
浄水器では同様の効果は得られないのでしょうか。

さて、そろそろ真面目に語ります。(ぶひ

まず、「ありがとう」という単語の問題。
これは感謝の気持ちを表す言葉であって、きれいかどうかは別の問題。
例えば、「(死んでくれて)ありがとう」がきれいな言葉なのかどうか。
猛烈に大雑把でいい加減な言葉の分類を行っているようだけど。
上のリンクは小5向けの道徳の授業になっているけれども、表面上の言葉以前にまず、本当の「気持ち」が重要であることは小5でもわかるであろう。
そして「ありがとう」を、きれいな言葉としてではなく、当たり前の言葉としてつかえるようになることが重要ではないのか。
もったいぶって「きれいな言葉」などといっている時点で単に自分の授業を美化したいという姑息な願望の表れとしか思えない。

まあ、「ありがとう」の場合、頻繁につかわれると「有り難く」なくなってしまうというヘテロロジカルな展開が待っているけど。w

そして、「実験」がワープロで打った文字を使っている点。
ぼくらが文字を読むとき、その単語の意味は辞書に書いてある意味で考えるのだろうか?
その文字を書いたり打ったりした、その文字の背後にある人間の気持ちを推察しているのではないか?

さて、それでは、「実験」をした人物が、水に対してどのような気持ちをもっているのだろうか。
それは「実験が成功するかどうか」という気持ちではないのかね。
「ありがとう」と「ばかやろー」は、同じ人間が打ったのではないのだろうか。単に文字の並びの違いがあるだけで、それぞれに気持ちが入っているとは思えない。
仮に「ありがとう」がワープロを打った者の本当の気持ちならば、「ばかやろー」の方は気持ちが入っていないはずである。その反対でもいい。
まさか、実験だから気持ちは関係ないとは言わないと思う。それならばこの実験自体が無意味である。
つまり、万が一のさらに万が一のもう一つ万が一、結晶が彼らの主張どおりにきれいになったりきたなくなったりしているとしても、ぞれは水が理解したということではなく、ただ実験に踊らされていることになる。
あるいは水が人間をからかっているか。

そもそもきれいな結晶の部分はまわりの水蒸気が冷やされたもので、最初からあった水ではないはずだが。
(ていうか、「実験」自体がおかしいことは言うまでもないけど。再現性がないとか、そういうことも含めてさ)

なんつーか、科学としてみたら、お笑いの類でしかないようなこの話を、学校でやっている、しかも道徳に時間にやっているというのがおかしいのだよなあ。

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ぼくは、そもそも道徳の時間のようにごくごく当たり前のことをくどくどと話されるのは嫌いなのでこの話にはそれなりの偏見があるかもしれません。

何の話かというとこれでつ。

水からの伝言」だぽこ。

もう3年近く前だけれども、アンビリーバボーとかいう番組で、モーツァルトの曲をきかされた水は綺麗な結晶ができて、ヒトラーの演説をきかされた水は汚い結晶ができた、という話だった。

こういう話は嫌いではない。w
それにこれなら「絶対に無い」とは言い切れない。
「音」は水を直接振動させるのだ。何かしらの影響はあるかも知れないじゃないか。w
少なくとも統計をとってみないと。ひょっとしたら有意な結果がでるかもしれないのだ。

それゆえわたくしは、「非科学的だ」と非難する人に「何もしないで非科学的だというその発言のほうが非科学的だ」と言ってますぅた。

なんでも非科学的だという人は結構いるのだ。ネットでは多いでつ。
例えば地震雲。
本当にあるかどうかは分からない。ひょっとしたらあるかもしれない。
ただ、地震雲の存在とそれによる地震の予知が可能であることを主張する人たちにはあまり科学的なアプローチをしていない人が多い。
しかしながら、そのことによって地震雲がないということにはならない。無いというなら科学的な根拠が必要なのだ。

ていうかー、そもそも科学では、「白いカラス」の話を持ち出すまでもなく、「無い」と断言するのは容易ではないはずだ。

その存在を主張する人間がおかしいからといって、その存在自体を否定してしまうのは、最近のある現象と似ている。
靖国だぽ。
中国や韓国がお門違いの非難をしているからといって、それを根拠に首相が靖国を参拝していいということにはならないのだ。

しかしだ。大きな問題がいろいろとあるのであ~る。
道徳の授業してるんだよね。

さて、長くなるので、続きはまたしても次回。(すまそ)
今日中に行きましゅ。


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小学校の理科の授業で、二度ほど先生に対して不信感を抱いたことがあるでつ。

一度目は、2年生の時。
日時計というのを授業でやって(あれって影時計じゃないいの?ってそりゃどうでもいいや)、まあ、実際に外にでてお日様の影の動きを追って線を引いたりしたわけだけど、それはもちろん問題ない。

テストで日時計のことが出てきて(そりゃあでますがな)、最後の問題だったと思うけど、時間が経つにつれて影が動くことについて、実はなにが動いているのですか、というすごい問題があったのだ。
私は「地球」と書いた。
確実に正解のはずである。
ところが、答案用紙が帰ってきたとき背筋に戦慄が走った。正解の「○(まる)」がついていなかったからだ。微妙に「△」になっている。
そして、その下に「まだ習っていません」とかなんとか理由が書いてあった。
これが当時の義務教育の実態です。
習っていないのは正解じゃないのかよ。いったいどんな宗教やねん。
まるっきり教育という名のドグマなのである。
弱冠8歳にしてガリレオの気分を味わったことはいうまでもない。

二度目は、6年生の時。
2学期から転校したのであった。
転校早々、ちょうど夏休み前に(前の学校で)習っていたところのテストをやることになった。
これも最後の問題。
夕方になると涼しくなるのはなぜですか?という問題だった。
赤外線の放射について習っているはずもなく、まあ、面積あたりの日光のあたる量が日中より少なくなるとか、そんな話なのだが、そんな感じで書いたら、「○」をもらった。
ところが、転校早々に満点をとったのが気に入らなかったのか、隣の女子(笑)が、その私の答案を見はじめた。
そして、最後のところの答が違うと指摘。
先生に確かめると、やっぱり違うのだそうだ。
なんと正解は「影が出来るから」
小学生をなめるにも程がある。
面倒だから授業でそう教えたんだろう。
要するにそういう問題がテストに出るのはわかっていて、だから授業で取り上げなければならないが、説明が面倒だから、「影ができる」などという何の根拠もない話をでっち上げて、それを書けばみんな正解、という図式にしてしまったのだろうね。
私の書いた答のほうがもちろん正解なのだが、他の生徒が事実を知ってしまうと不信感をもたれるので、指摘がでてみなが知ってしまったあとは私のを不正解にしたのだろう。
つうか、ちゃんと授業やれよな。

それにしても「影ができる」なんていう理由で誰も疑問を持たないのがおかしいのだが。
どうして納得できるのだ?

2年生の時の場合は、まだ同情の余地はないこともない。
単に判断ミスというだけかも知れない。
ただ「○」をつけた場合にほかの生徒との答の違いから、だれかがそれに気がついてわけがわからなくなるのを避けたかったのかもしれない。
ちょっと気の弱そうな女の先生だったし。
まあ、「○」をつけた上で「まだ習ってはいませんが」と書けば済んだ事なのだ。

しかし6年生の時のは、どうしようもない。
小学校では珍しく理科の先生だったのだ。つまり理科だけをその先生は教えていたのだ。

と、小学校における理科の授業のいい加減さをぐだぐだ書いてみたのは理由がありまして、次回、ようやく本題に入るのであります。



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火星人ゴーホーム

最近、HPの中身が検索に引っかからないようになっているので、ここにリンクしたりするとどうなるのか実験。

えろーすんまへん。

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デ・キリコいいましたら、過去の自分の作品を否定しはったことで有名でおます。
「わてはそないな絵は描いてまへん」てなもんですがな。

ほなら、デビッド・ボウイはどないでっしゃろ。
デ・キリコみたいに自分のやないとはいわんかったけど(そらそうやな。出したレコードには名前がはいってまんがな)、まいど新しい作風でレコードだしてはったんや。
キャラもそのたびに変えてはったんやな。
まいどまいどキャラが変わるいうことは、決まったキャラがおまへん、いうことになりまんな。
つまりいつも仮の姿ちうことやねん。

ほんで、わてもこれにある時期になって気がついたんやけど、本人、あるレコードでこれをはっきり出しはった。
「間借り人(Lodger)」いうタイトルで、ジャケットの写真は宙ぶらりんのデビッド・ボウイや。
まったくわかりやすいでっしゃろ。
「等身大に生きる若者が自分探しの旅にでる」話とちゃいまっせ。(笑)
そのように生きる宣言やねん。
(だいたい自分探しってなんや。普段なんも考えとらんのかいな。)

ときどき「強い日本」きぼんぬ、な人々がいてはりますな。特にチカゴロノワカモノ(爆)に多いらしい。
そら自己投影でっしゃろ。

国内の問題なのに、中国や韓国が文句いうもんやから、そっちの批判に話をすり替えられても気がつきまへんのや。
そうやって似非ナショナリズムが膨らむんやな。
国家も所詮は仮の宿とか思ってみなはれ。

あ、話がそれましたな。ま、どうでもいいでんがな。

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昨夜のNHK特集ってたぶん再放送なんだろうけど、サイボーグについてやっていたのでつ。

サイボーグって言っても009じゃないでつ。SFでもないでつ。
主に医療の話でつ。

例えば脚や腕を失った人に対して、機械の脚や腕っていうのは今さら驚くことではないのだけれど、脳に電極などを入れてるんだねえ。
人口内耳の技術にびっくりして、パーキンソン病の治療法にまたびっくり。
脳深部刺激法(大脳基底核とかいうところに電極をいれて絶えず電気的な刺激を与える)というの治すのだそうだ。
この方法で鬱病の治療もしているらしい。
鬱病の治療については、いろいろあるだろうけど。
で、軍のサイボーグ研究も出てきて、例えば快楽中枢かなんかを刺激してマウスなどをコントロールするなんていう実験の映像が流れていた。
軍がこのような研究をする自体、非常に危険なんだけど、昔見たある映画を思い出してしまった。
電子頭脳人間でつ。またしても原作はマイケル・クライトンなんだな。

例によってストーリーはこちら

コンピューター科学者ハリー・ベンソン(ジョージ・シーガル)は、しばしば強烈な発作に襲われ、そのつど記憶を喪失していた。彼自身は憶えていないが今まで2度も人を殺しそうになったという。現在は警察の監視下にあり、ある決断を迫られていた。今後も起こるであろう発作による暴力をさけるため、麻薬によって廃人になるか、あるいは脳手術によって巨大な電算機に支配される人間になるかのどちらかだった。後者の場合は彼に暴力的な発作が起こると、いち早く電算機が彼の脳に向けて快楽信号を送り、暴力を回避させられることになるというものだった。

まったくフィクションになっていないではないか。
しかもこのサイボーグの技術、ある技術と結びつくととても恐ろしいのだけれど、あまりに恐ろしくていえません。
たぶん、この二つはすぐに結びついてしまうと思うんだけど。

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べたべたと 濡れた地面に はりつく枯れ葉

つつじにかぶさる泥のような枯れ葉

鉛色の雲 黒いアスファルト 黄色い葉

今日は立冬でつ。
朝から枯れ葉だらけの地面に雨がシトシトと降って憂鬱な事この上ないのだ。まるで病んだ風景。
枯れた葉っぱと枯れ葉とべたっと濡れた枯れ葉に鉛色の空だ。

ところが午後になってときおり晴れ間が射すようになった。
ちょうど幼稚園の前で止まっている車のフロントガラスに日の光が反射してすこし気分も晴れるのである。

幼稚園の前で子供らを待つ車のフロントガラスが今日はまぶしい

この幼稚園の前の車、いうまでもなく園児のお母様たちがお迎えに来ているのですが、ときどき腹が立つのら。
幼稚園の北側には小学校があって、当然このあたりの道路はスクールゾーンになっている。
ところがこのお出迎えの車の中には、その小学校の横の道路を猛烈なスピードで通過するやつがあるのだ。
バカ親め、いい加減にしなさい。ぶつぶつ。

枯れ葉掃く夫婦横目にチャリでゴー

さて、そんな山手線も止まるようなお天気の中、夕方になってすこしマウンテンバイクに乗ってみた。
寒くない。っていうか普通にチャリ乗れるじゃん。
異常な量の落ち葉を掃き集めている人たちもいたぽ。
あたたかーい。
今日は立冬でつ。


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気に入らない映画というのはそりゃ山ほどあるんだけど、ここは「スフィア」について。
ダスティン・ホフマン、サミュエル・L・ジャクソン、シャロン・ストーンなどなかなかなメンバーのSF映画でつ。
原作は、マイケル・クライトンでつ。

あらすじはこちら

まあ、海底で変な球体に遭遇、おかしな現象が次々に起こるのだな。
実は球体には意志があって、それぞれの人間が想像したことが現実になっていることに気がついて、どひゃー。
海外SF小説のファンならかなり早い段階で気がつくんだけど、まるっきり未知の生命体、脳内でのことが具現化する、こりゃ「ソラリス」なんだな。
スフィアの原作は読んでいないので、なんともいえないけど、少なくとも映画はソラリスの小説のほうをパクっているのかあるいはオマージュなのか、もう基本がまったく同じなのだ。

最後もご丁寧に「あの球体と付き合うには我々はもっと大人にならなければならない」(たしかそんな意味の台詞をダスティン・ホフマンが言う)って、もう完全にソラリスなのだ。
スタニスワフ・レムまんせー。

もしも原作でこの通りだったら、マイケル・クライトンはなにをやっているのだ?ってことになるし、そうでないなら、まあ、映画を作った人の考えなのだろうから、仕方ないけど。
さて、内容が薄いのでこの映画はさっぱり面白くないのだけれど、もっと気に入らないSF映画があって、
「ソラリス」。
特にソダーバーグのやつ。
なんだありゃ~。

ぼくはタルコフスキーのも気に入らなかったのだ。(こっちの題名は「惑星ソラリス」だけど)
タルコフスキーの場合は、予算や技術の問題で「海」の様子がさっぱり描かれなかったのだけれど(原作では「海」のいろいろな「姿」が非常に重要)、そこは置いといて、エンディングが気に入らなかった。
「あの球体と付き合うには我々はもっと大人にならなければならない」というソラリスの原作に流れる思想が示されなかったからなのだ。(かわりに「スフィア」が示したけどw)
これはSFにとっては非常に重要な思想だ。
未知のものにただ恐怖し拒絶していてはサイエンスになら~ん。
「ソラリス」では、話の途中ずっと非SF的に未知のものを拒絶し続ける。センス・オブ・ワンダーのかけらもないのだ。
そして最後にようやく悟る。
ソラリスの海と付き合うために大人になるのだと。

二つの映画ともに、これが欠けている。特にソダーバーグは何のために再映画化したのだ?
海も描いていない。タルコフスキーの時とちがって技術も予算もあっただろうに。J・キャメロンが製作だろうが。
それであれとは。とーにかく最低。

というわけで、あのエンディングでは、せっかく映画のソラリスを見ても、
「地球と付き合っていくために大人にならなければ」とは誰も思わないではないか。


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