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白雲楼、起雲閣、日本タイプライター、康楽寺

白雲楼、起雲閣、日本タイプライターは全て父桜井兵五郎の資産からなり、父個人の寺「康楽寺」に寄付したものである。

私の母の8周忌 私の祖母と康楽寺

2008年03月10日 12時15分24秒 | 私の母

私の母が亡くなってからもう8年になる。 毎年12月20日になると三条西家のお墓に参りに行くが、墓石には母の死亡の銘が彫ってない。つまり墓に入れさせてもらえないのであろう.これが華族の仕来りなのであろう。母の魂は何処かにさ迷っているのではと思う。 三条西公正氏と母が海外に日本の香道を広めるため、昭和38年4月27日外務省文化局から香道紹介のため欧米各国で実演を行うため派遣されて、米国、ヨーロッパを回ったことがあり、外務省にその記事や写真等を公開することを申請したことがあった。平成18年3月7日のことである。窓口の担当官は何故か入れ替わり立代わり数人の人が私の前に現れた色々質問をした。 最後に現れた者がシツコク胡散臭げに質問をしてきた。 その記録なら残っているでしょうという人も居れば、最後に現れた者は言うには、どこで其の事をしったのかとか、何か目つきの悪い担当官が私の手帳の覗き込んで、内容を確認者した。随分失礼な奴と思ったが手帳の記録を見せると、覗き込み確認していた。何故このように外務省の公開受付の担当者が入れ替わり立ち代り現れ、しつこく質問する権利が彼らにあるのであろうか。 なんだか気持ちの悪い感じがした。つまり私の母に関する記事を公表しないのではないかという気がした。 1月後やはり外務省からは文章が無いとの通知が来た。しかも外務大臣に異議申し立てが出来ると文末に書いてあった。無いのもはいくら異議申し立てしても無駄であろう。しかし異議申し立てが出来るとあるのは、やはり記録があり、外務大臣が不許可としたのであろうか?当時の外務大臣は麻生氏であった。麻生氏といえば、母とも遠い縁戚かんけいがあり、父の会社の日本レミントン会社の取締役が加納久朗氏であり、同氏の仲人で麻生太郎氏の父と吉田茂氏の長女が結婚して麻生太郎氏が生まれたのである。私はそれ以前外務省に父がビルマから仏舎利を寄贈を受け、康楽寺を建設する公文書を開示請求したことがあったが、梨のつぶてで何の返事も無かった。父の麻布の土地についても現在ドイツ大使館になっているが、父は康楽寺に寄付したのである。吉田茂氏が当時外務大臣兼任であり、アデナウアー首相より、駐日大使館の敷地の取得の要請をうけていた。当時は連合軍が適性財産であるドイツ大使館の敷地を没収しており、その敷地として国会図書館とすることに国会で決まったのである。私はこのことに関連して関係省庁に公文書を請求していた。 私の名前が外務省では要注意人物の為った居たのかもしれない。 戦時中私の父の提案で外務から

、大東亜省が新たに設置され、外務省から分割されようとしていたが外務省の反対で、結局名前だけの省となったのである。しかしこの大東亜省の御かげでビルマやインドなどが独立国家となった。 母はこの頃は宮中で女官として皇后さまの身の回りの世話をしていたのである。三条西氏は皇后様の妹君が妻であった。母は四条姓であり、父と母は別れたのである。母と三条西しが結婚したのは、戦後のことであり、同氏の妻がなくなったあとである。  私の祖母は私の母のことを、父の妻に遠慮して表に、出てこなといって嘆いていた。それで私を残してよく我慢しているとも言ったものである。そのころの写真で私と母のなんともいえない悲しい顔をした二人の写真があった。私はハンチング帽子を被り得意げな顔をしており、母は私の横で悲しみに打ちひしがれて様子であった。父と別れ私と別れる最後のショットであったのである。 大分以前のNHKのドラマで終戦時の皇居内で、戦争を終結しょうとする天皇の詔勅のレコードを奪回しようとする反乱軍が、皇居内に押し寄せ、当時女官であった母のもとにも押し寄せてきたのである。母の名前は四条の宮であり、夫は海軍少将であった。もう一人の女官も夫は陸軍中将であったようである。之は物語の中での設定であったが、かなり史実に照らして作成されていた。私はこのテレビを見ながら母の役割を知ったのである。 この女官等によって天皇の詔勅のレコードが反乱軍に奪われずに済み、天皇陛下の終戦の詔勅の放送が行われた。


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