最首悟さん
カミさんが取っている,シニア女性向けの月刊誌『ハルメク』に,最首悟さん(生物学者,和光大学名誉教授)のエッセイが3回に分けて載っていた。新聞に載るコメントは時々見ていたが,まとまった文章は久しぶりに読んだ。
最首さんとは,1960年代末の大学の争議で,反乱する学生のいうことを理解し,支援しようという助手の集まりができて,わたしもそれに参加し,そこで知り合った。
最首さんには,ダウン症で盲目の重度知的障碍者,44歳の星子さんという娘さんがいる。星子さんが生まれた時,最首さんは人生の目標について迷っていて,星子さんを贈り物と思い,迷いから吹っ切れ,障害者や公害の問題にかかわってきた。その経緯については,『生あるものは皆この海に染まり』(新曜社 1984年)に,詳しく書かれている。
また,最首さんは,2016年「津久井ヤマユリ園」で起きた障碍者に対する殺傷事件の犯人,植松聖青年(最首さんはこう呼んでいる)と,青年に求められて面接し,手紙の交換をしている。
一昨日,京王線で起きた,20歳代の青年による放火・殺人未遂事件のニュースで,事件を起こした車内でタバコをふかす犯人の姿を見て,怒りと同時に心の痛みを覚え,最首さんのエッセイを読み直してみた。
最首さんの文章は,考えたことを何度もひっくり返して練り上げた結果なので,論理的ではあるが,とても要約は出来ない。エッセイの中から,いくつか文を拾い出してそのまま記すことにする。
*「人間」という言葉は元来「じんかん」と読み,-中略-2人の人の間,関係のことなのです。つまり人間は,少なくとも2人以上いて,相手がいてこそ自分がいる。
*近代社会は,知力と体力のあるものを人間と認めて,その上で個人の尊厳を認めてきました。そこで問題になるのは,その知力, 体力がない者です。-中略-私は星子という「無用の用」の存在により,人間は自立していなければならないという呪縛から解放されました。
*植松青年は(私に)こう言います。大学教授という高度な人材を育てる立場のわたしが,社会の役に立たない障害者である星子を育てるのは矛盾ではないかと。
*(植松青年を)寂しい人だと思います。私は彼が「自立」が「孤立」になった人だと思います。過剰なほどに自立に執着して役に立たないと思った人間関係を切り捨て,その結果周囲との関係を築けず孤立したのです。
*星子は私にとってその(頼り頼られる関係)の象徴的な存在です。星子を育て,お世話するうちに,自分の存在意義を感じられるようになりました。星子も私を頼り,わたしも星子に頼っています。
*みんなその人の世界を持ち,「あなた」として立てられる存在なのです。誰もがそのままでよく,頼り頼られながらそこに居る。ともに生きている。私はそれこそが二者性における「愛」であり,生きる支えになるものだと思います。
京王線放火の青年は,友人や仕事の対人関係がうまく行かず,孤立を深め,それが煮詰まってあの犯行に及んだのだろう。同様な事件が続いて起きているように思われる。
最首さんの言う二者性の愛が,みんなに行き渡るにはどうしたらよいのか。自助努力を要求する新自由主義はそれを逆行させているように思う。ではどうしたらいいか。答えはそう簡単には見つからないだろう。一つ確実に言えることは,それを探し続けていかなければならないということではないだろうか。
早春のの上高地
梓川から涸沢を望む。