認知症
テレビの認知症についての特集番組2本をビデオで見た。ひとつは,自らが認知症になってしまった認知症研究第一人者の医師の記録,もう一つは四国のある町にある,認知症の当事者あるいは家族がお互いに話し合う相談所の記録である。
幸いなことに,カミさんもわたしも,物忘れは多くなったが,認知症にはなっていない。そして,ならないように努力している。だから,自分のこととしてではなく,客観的にこの番組を見ていた。
しかし,印象に残った言葉がいくつかある。認知症の医師は,認知症になると,人生の余分なものがはぎとられるという。この医師は,現役時代に,家族の負担を減らすために認知症患者のデイケア制度を提唱し,自分の所属していた病院に施設を作った。自分が認知症になり,家族の負担を減らすために,デイケアに通うことを始める。しかし,すぐに行くのは嫌だ,つまらない,あそこでは孤独だと言い出し,止めてしまう。やはり,研究者・医師としての尊厳が残っていて,患者としての自分を客体視することを妨げているのではないだろうか。
もうひとつは,認知症患者はきついことを言われると,普通の人より,二倍も三倍もこたえるという,患者さんの告白である。患者さんには人格があり,ほかの人のことを気遣っている自分に対する歯がゆさがあるのだ。
実はこの番組を見ながら,母のことを思い出していた。わたしは晩年の母を手元に引き取り,一緒に暮らしていた。母は一人で生まれた家にいると頑張っていたが,ある日割烹着の袖に焼け焦げを見つけて,半ば強制的に連れてきた。生活環境の変化が,少しかかり始めていた認知症を進行させたようだ。やはり手のかかることが多くなり,カミさんの負担を減らすためにと,デイケアや,ショートステイを利用した。あまり聞き分けが無くて,わたしが声を荒げてしまうこともあった。
テレビを見終わって,あらためて心の痛みを覚えている。
秋
ガリレオ温度計の球が一つ上がった。