gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

1022 平安遷都の日

2012-10-22 00:13:50 | 雑記

794年のこの日、桓武天皇が長岡京から山背(やましろ)国葛野の新京に遷った。翌11月8日山背国

を山城国に改め、「平安京」と号した。平安京は後世においては「へいあんきょう」と音読みするが、当

初は「たいらなみやこ」と訓読みした。京の名前は地名を冠するのが一般的で、本来ならば「葛野宮」と

すべきところを、長岡京の騒動が原因の一つとして遷都したわけで、新京では悪いことが起こらず、

「平らかで安らかな都」、「平安(たいら)」であって欲しいという桓武天皇の願いが込められている。

784年、桓武天皇は平城京から長岡京に遷都した。遷都の際、桓武天皇は朝廷内の改革に取り組

み、藤原種継とその一族を重用し、反対勢力を遠ざけた。785年、造長岡京使の種継が暗殺され、桓

武天皇の皇太弟早良親王がこの反逆に関わっていたことが判明し、親王は配流先で恨みを抱いたま

ま死去する。親王の死後、日照りによる飢饉、疫病の大流行、皇后・皇太子の発病など様々な事変が

起こったことからその原因を占ったところ、早良親王の怨霊によるものという結果が出て親王の御霊を

鎮める儀式を行う。しかし、その2ヵ月後、大雨で都の中を流れる川が氾濫し大きな被害を蒙ったこと

から、和気清麻呂の建議もあり桓武天皇は再遷都を宣言する。

平安京を造営する際、古来の中国の風水思想を取り入れたといわれている。風水とは土地の形状、

や方位、陰陽五行説など考え合わせて都市や住宅、墓などの位置の吉凶禍福を決定するために用い

られて来た、気の流れを物の位置で制御する思想。その土地の良し悪しを判断し、王城などが繁栄

するように都市計画する。

■「背山臨水」。背後の山があり、前方に湖沼や海の水がある。背山臨水が風水の基本であり、中国

の「四神相応」の考えに通じる。東西南北の方向を守護する青龍(せいりゅう:東)、白虎(びゃっこ:西)

、朱雀(すざく:南)、玄武(げんぶ:北)。キトラ古墳の壁面にこの四神が描かれていて四神が墓を守る

ものとされてきた。平安京にも、四神が山や海、川や道などに相当する四神相応が盛り込まれている。

青龍は東山や吉田山に加茂川、白虎は双ケ丘や西山、朱雀は今は埋め立てられた巨椋池、玄武は

船岡山や北山に見立てることができる。

平安京の大内裏を中心にみると、背後は船岡山や北山があり、前方は大椋池。まさに背山臨水で、

四神も配して、「”気”が大内裏に集まる」ように工夫している。

四神を山や川に見立てるのは、山や川抜きでは都市計画を考えることが出来ないという事だ。

山により風の吹き方が変わり、水の流れ方が決まる。これは現代も同じだが、造成によって容易に変

えることができる。昔の人々は自然と共生する形で、都市計画と繁栄を実現している。そのために風

水は古代科学の基本といえよう。

また、桓武天皇は、仏法によって国家の災いを鎮めるために、表玄関である羅生門の両脇に[東寺」

と「西寺」を建てた。西寺は衰退したが、後の天皇に鎮護国家を託された空海は真言密教の総本山

として東寺を造り上げていった。 

ところで、今の元号「平成」の由来は、『史記』五帝本紀の「内平外成(内平らかに外成る)」、『書経』の

大禹謨「地平天成(地平らかに天成る)」からで、「内外天地とも平和が達成される」という意味。

2011年3月には東日本大震災と福島第一原子力発電所事故が発生し、放射能汚染で福島県の広

範囲が居住不能となり、多くの人々が移住を余儀なくされ「戦後最大の国難」と称された。

日本列島はもともと地震列島であり、プレートによる地震ばかりでなく活断層による地震の恐れもあり

、今後どこに首都機能を移転しようとも安全なところはないといえよう。

1995年1月17日の阪神淡路大震災が起きるまでは、西日本は比較的地震が少ないと考えられてい

た。平安遷都より1218年目に当るわけだが、風水という古代科学も想定しなかった地震という現実

を今突きつけられている。

 


コメントを投稿