すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

国会にバンザイに響いた日

2021年10月15日 | 雑記帳
 木曜日は原則勤務日ではないので、朝からいつものように孫と散歩。家周囲の小石を堰に落としてみたり、季節外れの苺の赤い実を採りあっと言う間に口に入れたり…まさに自然と触れ合う時間だ。その後、さらなる自然を求めてキノコ採りに向かうが、一切収穫なし。今秋は不作であると巷の話。毒キノコもない。



 駄目とは知っているが同行者もいないので、道沿いの山へ単独で行くことになる。クマと出遭わぬためにラジオを流すようにするが、ポイントは山中なので受信状態が悪い。そこでスマホを使えばいいとある方の情報。確かに…そこでyoutubeで70年代のフォークソングを音量アップで聴く。でも、景気はよくない。


 帰宅すると国会解散のニュース。毎度思うが、どうして「バンザイ」なのだ。何が目出度いのか。ネットでも御馴染みの話題として「由来諸説あり」で、「景気づけ」「やけっぱち」「内閣への降伏の意」「天皇陛下への万歳」と載っている。「このご時世に万歳は?」と普通の感覚なら思うようだが、某大政党は関係ないか。


 そもそも「バンザイ(万歳)」とは何か。広辞苑では「①長い年月②いつまでも生きること③めでたいこと④貴人の死を忌んでいう語⑤祝福の意を表すため両手をあげて唱える語」とされ、⑤が一般的だが「⑥転じて、お手上げの状態」という意味の方が、今は頷けるのではないか。⑥なのに②や③だと思っている人々…


 ギターをかき鳴らしていた学生の頃、『バンザイブキウギ』という曲を作った(笑)。歌詞の詳細は忘れたが「今日はお天気、バンザイ」のように何でも目出度く祝おうという形で始まり、実はショボい日常にお手上げ、そしてヤケッパチで終わるストーリー。あれは70年代半ば、あの頃上げた手で今何をつかんでいるのか

なんもしない人は、問いかける

2021年10月14日 | 読書
 「レンタルなんもしない人」の存在を知ったのは、NHKのドキュメンタリー番組だった。その発想に驚き、彼の「仕事」が展開する世相について考えさせられた記憶がある。調べたら一昨年の春の放送で、この著書もちょうどその頃に発刊であった。映像ほどのインパクトはなかったが、考えの幅を広げてくれた。


『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』
 (レンタルなんもしない人  晶文社)



 「二万人に一人くらいは必要としている人がいるかもしれないので、サービスを始めてみます」と、初日のツイッター投稿にある。報酬なし、交通費、食事代等の経費のみという条件で、この「人」をレンタルできる仕組みが、どのように始まり、どんな人が関心を持ったか、どういう道をたどったか、物語が伝わる



 報酬がないのでかなり自分の都合や思いを優先することができる。つまり、依頼者の利用意図とマッチする(少なくとも「やってもいいか」となる)ことが条件になっている。だから、最初に集中したいわゆる「順番待ちの列に並ぶ」依頼も、その対象が何かによって興味の度合いが違うし、このあたりは現実的だ。


 それは「したくないことはしない」「恐怖を覚えることは遠ざけたい」という、誰もが持つ本能に基づいているのではないか。しかし依頼内容は様々で予想しない展開も当然ある。ゆえにその場で発揮される社会性を持ち合わせ、他者の責任について寛容なことが、レンタルが一定期間続き注目された訳だと思う。


 話を聴く、一緒にどこかに行く等々の依頼が多い。それは、気を遣わなくていい他者の存在がいかに求められているかの証左だ。ただ注目すべきはこの「なんもしない人」へメールを送り、そうした存在との「自己対話」によって問題を解決していく例があることだ。「なんもしない」が人に問いかける意義は大きい。

りんごの季節にこんな一冊

2021年10月13日 | 絵本
 昨年、この絵本を目にした時、こういうアイデアもあるのだなと感心した。他の果物や野菜でも出来そうだが「りんご」はぴったりだ。帯の文句がなかなかいい。「つやつや りんごの長い旅 だれも見たことのない りんごの『その後』346日」つまり「変わりゆくりんごの姿をたどる346日の写真記録絵本」である。


『りんご だんだん』(小川忠勝) あすなろ書房 2020.02




 内容の紹介としては、上記のことで十分だ。言葉は「りんご つるつる」の初日から始まり、2ページの「89日」目の「りんご じーっと」に続き、表面上の変化から徐々に中味が朽ちていくまで、「りんご ○○○○」が主パターンで、後半に登場する虫によって変化をつける形。そして「おなかいっぱい」でオチがつく。


 1ページずつ、じっくりと写真を見せていくことしか留意点はない。最後の30,31ページは変化の一覧が載っている。実はこの絵本もPPTでやろうと思うので、ここは機器を使って工夫した方が面白いだろう。多人数の読み聞かせにおいて、見せるべき箇所をきちんと見せることは基本だし、そのための技術活用だ。


 さて、「りんご」というと昔から結構「」になっているものが多い。また歌詞としてはかの吉田拓郎の歌も印象深い。まど・みちおの詩もいいが、個人的には山村暮鳥の教科書に載った「りんご」が何となく好きだし、授業もしているはずだ。秋にふさわしい。

両手をどんなに
大きく 大きく
ひろげても
かかえきれない この気持ち
りんごが一つ
日あたりに転がっている


干し柿の吊るされる頃

2021年10月12日 | 雑記帳


 日曜日に主催した小学生ワークショップの科学実験を見ていたら、妙な連想がわいた。「空気の力」という内容なので、かつて学校の理科で実際にやったことや何かの雑誌等で見たことなどで経験済みなのだが、缶の中の空気を抜くと、周りの空気によってペシャンコとなる事象に、つい「人間も似ているか」と思った。


 物理的な空気ではなく、「気分・雰囲気」という意味での空気だ。周りの「空気」に押し潰されないためには、内部が何かきちんと詰まっている必要がある。もちろん人間の身体は様々な成分で満たされているわけだが、心理的に空っぽだったり、薄い状況だったりすれば、圧迫される感覚が強くなり、縮こまってしまう。


 もう一つ。平らな面同士をぴったり合わせるとくっついて離れない。これも空気の力。ほんの少しズレると簡単に取れるのが不思議なほどだ。昔、研修会で仕事上の人間関係の「摩擦」について問われ「相手と1mmでも離れていれば起こらない」と師は言い切った。密着する原因を俯瞰できれば、外力は調整できる。


 日本人の特徴としてよく挙げられる「空気」による支配。自分もそんなふうに育ったし、指摘されればそうかと考える。しかし、その陥穽からなかなか脱することができずに齢を重ねた。「いや、案外そうでもない」と評する身近な方もいるかもしれない。確かに空気に頼って生きながらえつつ、逞しくなった点もある。


 車庫から出て目に入った隣家の窓先に、今年も柿が吊るされた。外気にさらされ、風に吹かれて熟されていく。かつて駄句をひねった…「干し柿や誰に諭され甘くなる」。けして好きな食べ物ではないが、あの甘さが時々懐かしくなるのは、やはり育った時代や環境だろう。年々、干し柿のような人生に憧れが強くなる。

みゆきはいつも昭和臭

2021年10月11日 | 読書
 こんな昭和臭のする本は久しぶりに読んだ。昭和62年発刊なのだから当然なのだが、「対談」中心の構成で相手の13人中6人ぐらいは故人だということがあるかもしれない。いかにもというラインナップであり、それ以上に中島みゆきの語り口が最近(といっても平成期だが)のように洗練されておらず、生々しい。



『片想い』(中島みゆき  新潮文庫)


 所ジョージを皮切りに、根津甚八、勝新太郎といった役者、吉行淳之介、高橋三千綱、村上龍といった作家の面々。誰と話しても淡々と本音を吐露していく。松任谷由実との対談は今となっては貴重ではないか。この二人が三十数年トップに君臨するという重み…残念ながら感じない。ただそう時代が流れた事実がある。


 村松友視の対談で面白いことを語っている。「ツカサ用の詞とテラ用の詩は違えて書くようになりました」これは、単に音を乗せる乗せないという区分ではなく、「自分でしゃべりたいことと、人に聞かせたいことは別物」といった姿勢である。他人の書いた詩をけして歌わない(歌えない)という歌い手の核ではないか。


 聴き手の立場では別のとらえ方もある。作家三田誠広が「他の歌手が歌う曲に惹かれる」と書いていて、自分も似ているかなと感じた。三田はその訳を「『商品』としてまとめられ、情念がストレートに噴出しないぶんだけ、かえってじわじわと、永く心に残る」と記す。真のファンはその情念こそ魅力と言うだろうが…。


 「豚の目」というエッセイが興味深い。「おだてりゃブタも木に登る」の喩えについてみゆきは、登ったのはオスで「メスブタはおだてても登らない」と書く。「ほめられたのでなく」という理由を見極めるメスの本能か。オスは「おだてとわかったらなお」登るとも。政治や行政の女性活躍推進がなぜ捗らないか、得心する。

星空の下のディスタンスを想う

2021年10月09日 | 雑記帳
 今「ディスタンス」という語を聞けば、すぐに「ソーシャルディスタンス」を思い浮かべるのが普通だろう。もし一昨年までだったら個人的にはアルフィーの「星空のディスタンス」…となんの脈絡もなく曲名が思いつく。♪星空の下のディスタンス♪燃え上がれ、愛のレジスタンス♪なんと、どこかつながる気配も…。



 『図書』10月号で、桐谷美香という美術商の方が「平穏を生む距離」と題し、去年春にニューヨークから帰国せざるを得なかった時期の頃から書き出している。言葉の使い方として、ソーシャルディスタンス(社会的距離)というより、フィジカルディスタンス(物理的距離)が正しいらしいという記述もある。


 そこで思い出したのが、かつて何かの授業で習った「パーソナルスペース」のこと。改めて調べると、人同士の空間を「密接距離・個体距離・社会距離・公共距離」の四つに区分している。コロナ禍でよく言われる約2メートルは、社会距離のど真ん中に位置しているが、実は1.2mから3.5mという幅を持っている。


 今、私たちが心理的制限をうけているのは1.2m以下の「密接距離、個体距離」となり、例えば保育や初等教育の場では非常に難しい点を孕む。マスク着用が常態化していることを考えると、「親しさ」を求められない、「触れる」ことに気を遣う、「表情」を読み取りにくい…これらを前提とした関わりは実に悩ましい。


 「平穏を生む距離」の筆者は、茶室や温泉を例に距離の「図り方」による日本独特の文化について筆を進めていた。しかし「距離を隔たりとしない世の中」の実現は難しい。島国の中で密接・個体距離を重視してきた我が国では、本能的にその距離を求めるゆえに、逆に縮めようとした時の内なる抵抗も強いか。


 日常を取り戻すため「レジスタンス」の心で暮らすのはシンドイが、耐えれば耐えるほど熱量が溜まるとも言える。物理的な近さによる安心感が本能であることを認め、遠ざけずに、一面では心理的距離を縮める手立てや工夫について頭を絞ってみることも人間らしい営みなのだと自らを納得させよう。

必要なときに必要なことを

2021年10月07日 | 雑記帳
 久しぶりに読んだ『図書』10月号(岩波書店)の冒頭エッセイが良かった。作家原田宗典の「親父の枕元」と題された文章だ。亡くなった父親のベッド周りの整理をしていて見つけた写真や手紙、葉書のことなどが記されている。そのなかに、筆者の娘つまり孫からの絵葉書が一通あり、その出だしの文章に惹かれた。


「いつもお手紙をありがとう。おじいちゃんの手紙は必要な時に必要なことが書いてあるのでとてもためになります。」



 何気ない一言ながら「必要な時に必要なこと」という句は読み過ごせなかった。筆者もその点について触れていて、自分が大学入学で上京するときに新幹線のホームで「餞別だ」と言って渡された一通の手紙と「包装された小箱」に触れている。万年筆かと思いすぐに車中で包みを開けた筆者はその中味に赤面する。


 なんとコンドームが入っており、手紙には「一人前の男」が「一人暮らし」をするにあたり「恋愛すべし」とあり「しかし女のひとを泣かせてはいけない」と続きその餞別の理由が綴られていた。粋でお茶目なエピソードは昭和期の濃さを匂わせつつ、それ以上に人同士の関わるタイミングの核心を見る思いがする。


 「必要な時に必要なこと」…今、我々が最も考えなければいけないように思えてきた。不透明な時代という認識に振り回されて、備えや先取りばかりに目を奪われ、今何が肝心で、目の前の事象への丁寧な対処が等閑になる…そんな傾向になっていないか。子育てや教育だけではなく、日々の生き方そのものか。


キヅクはキズクに通じる

2021年10月05日 | 読書
 同音である「キヅク」「キズク」。漢字にすれば「気づく」「築く」は、語源は違うのだろうが、少し関連付けることがあれば、非常に強く作用する気がする。たまたま読んだ2冊から連想した。




『「意識の量」を増やせ!』(齋藤 孝 光文社新書)


 久しぶりの齋藤孝本。結構読んでいるはずだがこれは知らなかった。背表紙のタイトルにある「意識の量」って何?という疑問が湧いたので、手に取ってみた。
 誰しも口にする語だが、改めて「意識」と何かと考えさせられる。広辞苑の「④対象をそれとして気にかけること。感知すること」がシンプルに該当するのか。
 著者が促しているのは、わかりやすく言えば「気づき」だ。
 誰しも感じるように仕事が出来る人間の持つ特徴の一つが、全方位に渡って気づきを発揮できていることだ。
 そのために必要なこととして、V章「自意識の罠から逃れよ」が核心をついている。自意識をむやみに太らせず、対象や他者に意識を巡らし集中する場をいかに多く持つか。
 日本の教育システムへの提言でもある。



『さようなら窓』(東 直子 講談社文庫)

 家族間の軋轢もあり人との関係をうまく作れない女の子「きいちゃん」の物語、連作短編の形をとっている。
 彼女を救いあげてくれている「ゆうちゃん」の語るエピソードにファンタジー要素があり、魅力的な世界観がある。
「窓」とは何か。
 偽りの家族生活を語ってみせたおじさんがいなくなった後、二人でアパートの一つ一つの窓を観る場面に意味づけられている。「微妙に色の違う光を灯す、一つひとつの窓の内側で生きている人たち」…その窓の灯も、いつかはみんな消える。
 読み終えて、きいちゃんが自意識の塊から脱する話であったなあと考える。様々な人が苦しみや楽しみを抱えながら、灯りを強くし弱くし、その窓の中で懸命に生きていると気づけば、足取りは確かになる。
 きいちゃんの名前は「築き」である。

違いへのこだわりは捨てないよ

2021年10月03日 | 雑記帳
 中古本屋で110円の文庫版漫画を買った。『花のズボラ飯』という久住昌之(「孤独のグルメ」の人だね)原作なのだが、妙にレトロな駄洒落やあるある感が満載で和む話だ。主人公の花が偶然に大学時代の男友達二人に合い、一緒に飲んで話をしている回が面白かった。一人がオーディオオタクでそんな展開になっていく。



 ケーブルの違いのことや、スピーカーの下に何を敷くかといった定番的な話から、「アキバで有名なおじいさん」がいて、スピーカーを安定させるために畳をはがしコンクリートを塗り、それでも満足できなくて床板もはがし、家の下の地面にまで手を伸ばし…30mボーリング後にセメントを流し込み…笑ってしまう。


 もちろん実話ではないだろうが、「尊敬と啞然を込めて『岩盤ジジイ』って呼ばれている」というオチは見事だ。一つのことを突き詰めて考える人間の可笑しさは、やはり滑稽だ。さて、男友達は爆笑している主人公の花に対して「でもさ、笑っているけど、女の人の化粧だってそんなもんじゃない?」と何気なく呟く。


 高額化粧品に手を伸ばすご婦人ばかりでなく、女性の何割かは共通する体験や思いがあるのかもしれない。化粧品にもラインがあって…という話になり「自分からみたら全然違っても人から見たらほとんど同じって、化粧もオーディオも一緒かもね」と収められる。趣味嗜好ばかりでなく典型的な箴言かもしれない。


 しかしまた、「これは!」と決めて世界を突き詰めていく者の幸せも想う。まあこうした常識論で括る了見が、凡人の凡人たる所以と思わず自嘲する。だから、主人公花が友人からもらった6000円以上のリップクリームを時々塗って感じる愉悦に共感するのだ。ただ改めて違いへのこだわりを捨てては幸せが薄くなる。と思う。

生き残るための「言い訳」

2021年10月01日 | 読書
 ナイツのネタで驚いたのは、昔の「ヤホー漫才」もそうだが、去年様々なコンビのパターンを真似てみせた時だった。それほどの緻密さを持ちあわせているから、優勝経験がなくともM-1審査員に推されたと実感した。書名は、勝てないことの言い訳の体裁をとりながら、見事な大会分析・コンビ分析となっている。


『言い訳 ~関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』
   (塙 宣之 集英社新書)



 寄席で漫才を見ると、大抵のコンビが実に面白い。それは空間の持つ力も左右するのだろうとは感じながら、同じコンビをテレビで見るとほとんど魅力を感じない。個人的な好みはさておき、この理由を考えると、番組自体の設定や時間制限があり、コンビの持つ力が十分に発揮されないからという結論に落ち着く。



 M-1の歴史の解説があった。最初からの詳細は思い出せないが、結構前から見ていたと懐かしく思い出す。私的にはチュートリアル全盛期や、スリムクラブの登場などが懐かしい。最近では負け続ける和牛、ジャルジャルなどに肩入れしたくなった。それぞれの年の特徴、敗因など、塙の語りが実に的を射ている。


 「どうしたらウケるか」という一点を追求し続けた塙の修業過程も興味深い。20代後半、壁に突き当たった塙は「一日一本のネタづくり」を自分に課す。これは現在でも続けているという。そして「量をこなして、初めて気づいたこと」から自分たちのスタイルを築いていく。「量は質なり」の典型がそこにあった。


 量があるからこそ、パターンを読み、得手不得手やコンビの相性、長短を見事に言い切れるのだ。わかりやすい喩えとして競争馬の距離適性を使っている。短距離馬・中距離馬・長距離馬…馬と違うのは、芸人も「消耗品」だが息長く観続けられる可能性をもつ仕事である。生き残る漫才こそ、「芸」と呼べると思う。