すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

缶詰話の一行知識

2020年07月18日 | 雑記帳
 先週古本屋で買った『トンデモ一行知識の世界』(唐沢俊一 ちくま文庫)を風呂につかりながらのんびりと見た。「カンヅメはナポレオンが考案させた」という項目があり、ふむふむと何気なく読み過ごしたのだが、夕食時、珍しくも缶詰が三種(一つは鍋仕立て)食卓に上がった。手抜きか(笑)。たまにはこれも良し。


 鯖缶は茄子と一緒に煮込んだもの。あとは大好きな馬肉の大和煮。そして先日、缶ビールのシールを集めて手に入れた焼鳥缶。どれも結構いける。食べながら、ああと今日久しぶりに買った月刊誌『サライ』の特集に「缶詰を極める」があったことを思い出す。こんなに重なったのは駄文のネタに缶詰を使えということか。



 と、勝手に拾いあげて書き散らしてみよう。まず、「カンヅメはナポレオンが考案させた」という歴史的事実は、ある根本を思い出させてくれる(大げさですね)。つまり「缶詰とは軍事食である」。長期保存に適する食物の必要性がそこから導かれたのは当然だ。もっとも加熱殺菌処理はずいぶん後になって採用された。


 だから、ナポレオンの名案は技術的に難があって食料を腐らせ戦いを勝利には導かなかったようだ。年代からいうと19世紀の前半で、日本には世紀後半つまり明治時代に登場する。日本ではイワシの油漬けが最初で、その後漬物、サケと続き、牛肉の大和煮が出来て普及したようだ。ちなみに、まだ缶切りはない


 「ノミと斧であけてください」と但書があったそうだ。それより個人的に驚いたのが「カンヅメ」の「かん」は英語の「CAN」であったこと。CANは名詞としてその意味がある。日本語の「罐」や「缶」は音が似ているだけの当て字だという。だから、発音には気を付けねば(笑)。カンヅメは一行知識の宝庫だぞ!

ここまでやれば痛快だ

2020年07月16日 | 読書
 この図書は、先月著者から県内の小学校に配布された。新書のコーナーで「バッタを倒しにアフリカへ」という書名を見かけた記憶はあった。それが児童書という形で出版されるのは、めったにないだろう。その内容も実にユニーク。400ページ近いのでとても読み聞かせはできないが、ぜひにも紹介したいと思った。

『ウルド昆虫記 バッタを倒しにアフリカへ』(前野ウルド浩太郎 光文社)



 著者は本県出身の昆虫学者である。小さい頃に見たバッタの映像とファーブル昆虫記に強く影響を受け、その道を志し、夢見たアフリカでのバッタ退治に強く情熱を傾けることになる。自然環境だけではなく社会環境そして人的環境の大きく異なるなかでの著者の奮闘ぶりが、面白おかしく、かつ痛快に描かれている。


 一言でその生き方を言うには難しいが、彼が出版関連イベントで見かけたカリスマ書店員の姿を評した一節が、そっくりそのまま当てはまると感じた。曰く「本気の人間は実にすがすがしくてカッコいい」。もちろん、舞台は半分以上がモーリタニアというアフリカの地であり、カッコつけていられない出来事ばかりだ。


 バッタの大群の映像などをTVドキュメンタリーで見たりする。そしてその実際を想像したとしても、現実の何億分の一程度の驚きでしかないのは明らかだ。その核になる衝動への強い憧れが、様々な「障害」を乗り越えさせたのだなと感心する。本に出てくるエピソードは、地球の広さの証明がいくつも詰まっている。


 児童書向けの再編集のためルビは当然だが、脚注風の「私なりのプチ辞典」を入れてあり実に面白い。辞書的に意味を付記するだけでなく、ユーモアいっぱいだ。今開いたページには「見解」をこう説明する。「考え方のことなんだけど、ここでは真面目モードで説明しているため、よりかしこまった表現をチョイスした


 著者は研究過程で京都大学「白眉」プロジェクトの一員として採用される。文字通りの称号だなと感じる。この本にある結びの願いも清々しい。「読者となるヤングマンにとって、本書が1人で読み切った初めての大人の本になれば嬉しい。この本を大人の階段を駆け上る少年・少女、それを見守る大人たちに捧げたい。

取り戻したい教えとは何か

2020年07月15日 | 読書
 こんな田舎の町の小・中学校も、夏休みに数日間授業が行われる。感染拡大防止のための臨時休校の分を取り戻すということだ。しかし、いったい「何」を取り戻すか問うた時、それが教科書にある指導すべき事項というだけでは、あまりに寂しい。学校の存在意義や教育のしかるべき姿は一向にぼやけたままだ。

『名門校の「人生を学ぶ」授業』(おおたとしまさ  SB新書)


 このブログにも何度か書いた橋本武先生による『銀の匙』の授業。もし一定時間が与えられ、継続的に高学年の国語を受け持たせてもらえるなら、何か一つの教材を選び、似たようなことをしてみたいと憧れた。言い訳じみているが、もし15年前に知っていたら可能だったかもしれない。自らの縛りを解けなかった。



 さて、この新書には橋本先生のいた灘中も含めいわゆる名門中・高校のユニークな授業(行事も含む)が紹介されている。東大合格者を多く送り出すこれらの学校で行われる、実にインパクトのある実践は、将来日本を背負う者の力を確かに育ててくれるだろうと思わせる。量的には小さいが、強烈な光を放っている。


 例えば、開成中・高の縦割りチームによる大運動会はたまにTVでも取り上げられるが、単なる強調力や突破力の育成に留まらない「組織に埋没しない『個』を育てる」ねらいが明確だ。他校の「演劇づくり」「(全員)バイオリン学習」「水田稲作学習」などどれをとっても根底に揺るがない「教え」が位置づいている。


 個人的に唸ったのは、豊島岡女子学園の「毎朝5分の運針」。白い布に赤い糸で均等に縫い目をつけていく、そして毎回糸を抜き去る…単純な作業の繰り返しに何を求めるのか。他との比較もなし、自分が1ミリでも前へ行くのみ。著者がレポートする教えは「本当に大切なものは、自分の中にしか残らない」だった。


 あとがきで、著者はアインシュタインの言葉を引用する。「学校で習ったことをすべて忘れてしまった後もなおかつ残るもの、それが教育である」。学習内容の履修が学校教育の重要事項である点は認めるが、それはパーツに過ぎない。名門校でなくとも、今正対すべきは何かを真剣に考えている人達がいることを信じる。

梅雨の滴る令和の風景

2020年07月14日 | 雑記帳
 先週末はしばらくぶりに会った方々が複数いる。うち二人は、仕事上の依頼があり打ち合わせをした。同年代であるがまだまだ現役感いっぱいだ。自分などは些細な疲れが身体の不調につながる時もあり、少し羨ましい。梅雨時の鬱々としたなかで、劣化は避けられないが、実は目指している姿は古びた味わいなのだ。



 現役教員である方々とも会い、特殊であるような相変わらずのような話を聞いた。コロナ禍で学校現場にも給付があるという。物品購入と限定されるようだが人的補償がいいと単純に思う。時給1000円だと10万円でも100時間使えると計算が働く。今困っているのは何か、誰か。対策の焦点がずれている気がする。


 日曜朝に『目撃!ニッポン』というNHKの番組を見た。闘病生活で末期の方々にも食べ物を経口摂取させたいという願いを持つ、県内在住の医師を中心としたチームが取り上げられていた。該当家族との信頼が築かれている。「食べる」行為が人をつなぐことは大きい。夫婦で見たがお互い「胃ろうはやめよう」と確認。


 月曜。午前中に2歳の孫を連れて実家へ。往復約1.6Kmを歩く。あまり暑くもなく順調だった。道中、水たまりにすぐ入ろうしながら「どうして水たまりはあるのかな」などと口にしたりする。川沿いの散歩道で見かけるのは、老夫婦の同行姿。犬と散歩する中年、そして我々。端折って言えばこれが令和の風景か。

その罠に絡めとられると…

2020年07月12日 | 読書
 教育実践や研究において意識するしないに関わらず「わかりやすさ」を求めてきた。ただ、もう十年以上前からになるが、次第にそれでいいのか…という思いに捉われていた。きっかけはいくつかあった。野口芳宏先生の講座を聴いて…森博嗣氏の一連の著書を読んで…今回の本も…。この新書はわかりやすかった(笑)。


  『わかりやすさの罠』(池上 彰  集英社新書)



 わかりやすさの権化のような著者は、題名に関してこう言う。「『罠』とはつまり、『わかったつもり』になってしまうということ」つまり浅い理解や誤解に陥りやすい点だ。著者は「罠」として、それ以上ピックアップはしていないが、実はこれは一つ目だ。その次は、以前も目にしたこのエピソードが教えてくれる。


 「以前、番組の中で、ゲストから『池上さんの言うことが正しいと思いますから、池上さんの考えを教えてください。そのとおりに従いますから』と言われて、『そういう考えが一番いけない』と怒った」…追従、盲信傾向だ。選挙の例が如実でトランプ大統領や小泉元首相の例が挙げられている。小池某もそうだろう。


 これらの罠に足を取られながら、三つ目の罠に絡めとられてしまう。それは情報を消費するのみで、思考停止状態となり、判断力が劣化することだ。ネットもSNSも有益にはなるが、使い方によって大きな罠になっている事実を俯瞰できなければならない。情報によって振りまわされた例を貴方は持っていないか。


 教える立場では「わかりやすさ」は大きな要素だが、それを強めることが対象者の能力や意欲を引き出すかは、また別問題だ。どんな時代になっても生き抜く力を育てたいのなら、わかりにくさに負けずに向かえる姿勢を習慣づけたい。自らに課すポイントとして「言葉へのこだわり」「よく観察すること」を挙げたい。

クイズにある古臭さを越えて

2020年07月11日 | 教育ノート
 読み聞かせにぜひ取り上げたいと思っていた一冊があった。『オレ、カエルやめるや』である。昨年11月に別サイトで紹介していた。その後チャンスがなく、今回2年生が相手だというので、満を持して持っていくことにした。もう一冊はネコが登場する話で、若干の余裕がありそうで、フリートークもいいかなと思う。



 カエルのクイズでもしてみるかと、書棚から『子どもにウケるたのしいクイズ』(坪内忠太 新構社)を取り出し、開いてみる。「アマガエルは雨がふるまえに鳴く。なぜわかるか」…これはちょっと説明が必要か。「ヒキガエルの寿命はどのくらいか」…うん、これは明快だ。①1年 ②10年 ③30年 さて、どれか。


 この本には③30年とある。そんなに…と思う。では今この周辺で目にしたり鳴き声を耳にしたりする種類は、田んぼにいるアマガエルだからそちらはどうだろうと検索してみる。これは5~7年だそうだ。さて、そのサイトでヒキガエル(ガマ)を調べると、なんと長くても10年と載っているではないか。おいおいっ。


 とたんにクイズ本の信ぴょう性が薄らぐ。TV番組では相変わらずクイズ番組が流れ続けているけれど、この類は詳細データを最新にしないと混乱が生ずる。バラエティとしては面白いのかもしれないが、教室という場では安易に使えないという気持ちが湧いてきた。そもそもクイズにある正解指向が古いかもしれない。


 ということで合間の話は「最近よく鳴くアマガエルってどのくらい生きると思う?」と軽く問いかけ、みんなと齢が同じの蛙もいるんだね、と読み始めた。内容は文句なく面白く盛り上がる。読み聞かせ後、一緒に聴いていた先生がこう話し始める。「今のお話で○○はなんという▲▲でしょうか、はいっ」…おいおいっ。

昭和の週番が、苦言を呈す

2020年07月09日 | 雑記帳
 5年前、隣県の温泉で還暦厄払いをした折、祝宴の進行を任せられた私が、仕込んだネタの一つに「週番」の腕章があった。セレモニーが終わり、確か乾杯の直後に指名した週番に「生活目標」(もちろん大人の宴会向け文言)を言わせたのだった。懐かしさで昇華されたその点を、恩師も笑いながら目を向けてくれた。


 今思えばくだらないように見えても、そうした「特別活動」がもたらした教育効果は結構高いだろう。小学校、中学校と違いはあるけれど、自主的自発的な場があること(実のところはそう仕向けられたのだけれど)は貴重だ。それが生活管理的な側面があったにしても、実際の社会へ向けてのステップと呼んでいい。


 それにしても、それにしてもだ。この記事を見た時は正直がっかりというか、何だかやるせない気持ちになった。

「3密」児童がパトロール 輪島・門前東小 昼休みに2人一組で
https://news.yahoo.co.jp/articles/8cfbc93c58ed6587f5d4cfda9a0a8aae1de442b8?fbclid=IwAR318fbIT40P-PmcW1-nySGcsVuwXtrZxVl-anX3Fv6bUEI6DCOp9rHsg58

 単純に評価できるものではない。しかし紹介した新聞社は「善行」として捉えているのは明らかだ。


 校長のコメントは「教員が注意するより効果があるように感じている」と結ばれている。ああそんなふうに考えた昭和の教師は、いっぱい居たなあ。同世代なら記憶があるだろう。「●●くんが、廊下を走っていました」「昨日の帰り、▲▲さんが店で買い食いをしていました」…確かに同じ相互監視か。でも牧歌的だ。


 今、この時代に全校61名の小学校で、いったい何を教え、何を育てようとしているのか。少なくとも私は実践したいリストには挙げない。根本的な発想が異なる。もしかしたら、子どもたちは嬉々として?取り組んでいるのかもしれない。そして「自粛警察」のように育つのか。それとも、物言わぬ人々になり果てるか。

新書三昧~半端さの効用

2020年07月08日 | 読書
 フルタイムで働いているわけではないし、仕事術とか集中法とかの類は以前ほど手を伸ばさなくなっている。しかし、この書名を見て思わず選んでしまったのは、やはり意外性だ。著者には『友だち幻想』という良書がありいい印象を持っていた。それにしてもこの「18分」という半端さは何か惹きつけられるなあ。

  『18分集中法』(菅野 仁  ちくま新書)



 著者が最初に語ることは「とりあえずの18分」ということだった。何かを続けたり、成し遂げたりするために大事なことは、「とにかく始める」という点はよく脳科学系の本に載っている。片付け等でもよく言われる。それを「とにかく始めて、とりあえず『18分』だけやってみる」という方法へ一歩進めて提言する。


 では何故「18分」か。15分という区切りは一般的によく意識する長さだ。著者は自らの経験や、モニターを依頼し、感想などを分析したうえで、次のような気持ちが起こりやすいとしている。「中途半端ゆえに、休みを挟んで、また頑張ろう」「15分経って疲れても、後3分だからもう少し頑張ろう」。はあっと思う。


 個人的見解と割り切ることもできる。しかし自分のように「いい加減でありながら几帳面に考えるタイプ」には、こうした変化球はとても魅力的に見える。1時間でこの区切りのいい所まで仕上げるぞ!といった発想とは逆に、「タスクはなるべく中途半端なところで区切る」ことが集中力を途切れさせないコツと語る。


 無数にある仕事術、読書術の類の中で、この発想のウリを端的にいうと文中にある「『腹八分目』という感覚」になるか。腹八分目だからもう少し頑張れる、腹八分目だから続けられる、健康になれる…ということかな。いや自分の齢だったら7分目、6分目が妥当か。コンディションを見つめる大事さに気づかされた。

新書三昧~老境が深い

2020年07月07日 | 読書
 詩人の三木卓が、先月読んだ雑誌に今の暮らしぶりの一端を綴っていた。その中で「新書」をよく読むと書いており、新書好きにはなんだか励みに思えた。新書には実に多様な分野があり、縦横に選択できるし、コンパクトな情報源となる。もちろん「新しさ」が一つの魅力だが、十分に古く老いた方からも学べる。



 『長生き地獄』(松原惇子 SB新書)。初めて読む人だが、女性の生き方論では有名らしい。しかしなんとまあ、暗い書名だ。前半は老人医療や施設等の酷い実態、後半は安楽死や死生観が取り上げられている。「おひとり様の老後」を語ってきた著者が、今自分が年老いていく現実を見つつ、生き着く先を探している。


 この新書は2017年刊で、その前年に脚本家橋田壽賀子が「私は安楽死で逝きたい」と雑誌に寄稿し反響を読んだ。著者は同意を示しながら、我が国の制度の今後の動きには期待せず、自前の「いい死に方」を提案している。さて、同じ橋田の文章を『百歳人生を生きるヒント』(五木寛之 日経PS)でも見かけた。


 五木と言えば、「人生論」の達人と言えるほどに、四半世紀前のベストセラー『生きるヒント』を初め多くの著を出している。この新書も2017年、五木が85歳の時に出版されている。多くはないが以前読んだ内容とも重なっている。一貫して「いい生き方」の提案であり、それが結局「いい死に方」の必須条件に思える。


 年代区切りによる薦めはよくある形だが、さすがに一流作家は巧みに心を揺さぶる。実体験に裏打ちされているからだ。60代は「あきらかに究める」として「六十歳でクルマの運転をやめました」と書く。こうした断念の覚悟、一方では「歳をとったら、人前に身をさらす趣味をもつ」という根性魂が、いちいち深い。

七夕の赤い短冊に

2020年07月05日 | 雑記帳
 「誰かに振り回されない日本に!」と赤い短冊に書いた。

 図書館のエントランスに小さな七夕飾りを置き、来館者にも願いを書いてもらおうという企画で、まずは職員からということで一枚手渡された。



 「コロナ退散」と書くのが旬かもしれないし、それはまさしく祈りに近いものだが、今の自分にぴたりと当てはまることはないか。しばし瞑想し、浮かんだままに書きつけた。

 「誰か」とは、具体的に何人かの顔が浮かんだりする。
 それは国の内外を問わず為政者であったり、その陰で暗躍する者であったりする。

 例えば、本県秋田でいえばイージス・アショアの件は、まさしく振り回された感しかない。その騒動?の構造は、歴史的な根深い問題に連なる。そういうことは本当に多くある。

 例えば、コロナは「誰か」には当てはまらないが、その対策に携わるなかに、もし利己的な誘導をしようとする存在がいれば、確実に当てはまるわけで目を凝らさなくてはいけない。

 もしこの短冊を見た人がいたら、誰を思い浮かべるのだろう…などと考えてみたとき、政治的思想がはっきりしている人を除けば、案外その時々のネットやマスコミ情報に左右されて決まるのかもしれない。
 そう思い込まされている現状を作りだしている「誰か」もいることになる。


 だから、「日本」とは書いたが実は「自分」という意味が強くあるという結論になる。

 頑なであれと言っているわけではない。

 何が目的ですか。どんなことをしたいのですか、自分に問いかけてみる…抽象的な思いをもう一度確かめ、徐々に具体的な点に降ろしていく。
 または、明確に細かく決めなくとも、やってみることで心にフィットすることだってあるかもしれない。

 と、こんなふうに思えることを良しとはするが、心の裏側では「思いきり振りまわされてみるか」と舌の出ている顔も見える。

 まあ、そもそも赤い短冊というのは「感謝」を表わす意味があるそうな。

 まずは、健康と家族に感謝だな。