すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

甲子園の「秋」は深まる

2019年08月19日 | 雑記帳
 8月18日は「高校野球記念日」であるそうだ。今年が101回大会なので、1919年のこの日に第一回が開かれたことを記念している。俄かファンなので、もはや県勢が早々に敗退した今年は片目でしか見ていない。実は、日記をみると去年の8/18は金足農vs近江であった。そう、あの歓喜のツーランスクイズである。


 それだけでも記念日と言ってもいい。と、県民根性丸出しだな。ヒネクレ者の見方は、有名校の応援席で懸命に声を枯らすユニフォーム姿の選手の背景を想像したりする。野球留学だろうか…気持ちをうまく切り替えられたのか、親御さんたちはその姿をどう見ているのか…きっと、無数のドラマがあるのだと思う。


 甲子園といえば作詞家阿久悠が思い出される。あるスポーツ紙に「甲子園の詩」という連載を持っていた。大会期間中全ての試合をテレビ観戦し一日で最も印象に残った試合を詩にして載せていた。阿久の長男が語るには、試合中はトイレにも行かず集中していたという。その阿久が「最高試合」と名づけた一戦がある。


 野球ファンでなくとも知っている「星稜vs箕島」。それは阿久の連載が始まった1979年大会、今から40年前の三回戦だった。延長18回に簑島が劇的なサヨナラ勝ちを収めた。激闘を絵に描いた試合だ。考えてみると選手だけでなく、関係者やファンの心の中には「自分だけの最高試合」があるんだなと今さら思う。


 その意味で去年はよかったなあ…さて、今年は予選大会から一人の豪速球投手をめぐり、改めて考えさせられたことが多い。どこか「金」に収斂されていく現状か。やはり40年前とは違う。阿久の「最高試合」はこう結ばれた。「君らの熱戦の翌日から/甲子園の季節は秋になった」。深読みすれば、秋はかなり深まった。

乱暴で屈託なく自由な…

2019年08月18日 | 読書
 小説や物語にも種類があるわけだけど、これは何かなと考える。ファンタジー?学園小説?えっ、純文学?この作家は数多く読んでいないが、いつもわからない。しかも新書版だし…。それでいていつも棘のように刺さった感覚を残していく。たぶんそれは、あとがきにある「乱暴さや屈託のなさや自由さ」かと想う。


2019読了80
『ぼくたちはこの国をこんなふうに愛することに決めた』
 (高橋源一郎  集英社新書)


 テーマとなる「くに」(「国」と表記しないことも重要な鍵だ)からふと連想したのは、あの「IS」だった。報道では初め「イスラム国」と言っていたのに「IS」と解読が必要な呼称にしたのは訳があったのだろうか。そんなことが浮かぶほど、今さら「国」とは一体何を指すのか、考えさせられる。土地、言語、人種、政府…。


 「こっき」をつくるところからして象徴的だ。そもそも読者は知識として「国旗」を把握しているのか。「『国旗』には、三種類あるみたいなんだ」という一言に自分も含め驚く人は少なくないだろう。さらに主人公たちは、図形でなければいけないか、一つでなければいけないか、とあれこれ思考し始める。痛快だ。


 都会から離れた場所にある全寮制の小・中学校。この学校では「クラス」でなく「プロジェクト」に入る形になる。やりたいことを選ぶ、なにかを「つくる」ことが主になっている。プロジェクトに入らなくともいい。しばらく自分の好きな事に没頭してそれから加わるもよし。現実へのアンチテーゼとして登場する。


 「ランちゃん」の母はまるで伊坂幸太郎作品に出てくる人物のように格好がいい。「名前のないくに(仮)」をつくったことをネット告知し、リアクションしてきたアイちゃん。そしてその「くに」と国交を結ぼうとしてきた某国の女性。図書館の奥に潜む謎の人物…登場してくるモデルの正体に驚き、納得する小説だった。

不純物から「いのち」を視る

2019年08月16日 | 読書
 数年前から歌がヒットし、次々と人気ドラマに出演した彼、そう言えばそれ以前には開頭出術が必要な病気をしたことを、冒頭の文章で思い出した。外見が滲みだす普通感が印象深く受け止められるのは、見つめる眼差しに虚飾を感じさせないからだ。だからその音楽に、詞に共感できる。それにしても巧いタイトルだ。

2019読了79
 『いのちの車窓から』(星野 源  KADOKAWA)


 雑誌『ダ・ヴィンチ』の連載の単行本化。雑誌はごく稀にしか購読しないので内容は読んだ記憶はなかった。ただ、以前読んだ文庫本はなんとなく肌にしっくりと馴染んだ気がした。その訳がわかった。書下ろしである『文章』に松尾スズキ、宮沢章夫の二人のエッセイへの憧れが書いてあった。ああそうかと思った。


 けして自分を飾らない、それでいて妄想や想像の世界へ迷いなく進んでいく感覚が好きなのだなと納得した。そして星野は「あとがき」でとても印象に残る一節を書きつけている。これは情報という名の洪水に晒されている今、書き言葉に限らず何かを表現しようと考えている者にとって、ずしりと重い一言だと思う。

 「作家のキャリアに関係なく、文章力を自分の欲望の発散に使うのではなく、エゴやナルシズムを削ぎ落とすために使っている人。それが、僕の思う『文章のうまい人』です。」



 著者が書くように「表現や伝えたいという想いには不純物が付きまといます」。承認欲求を普通に持つ凡人であっても、それは気づく。不純物の存在を認め、その処理を日常的にする(仕方はいろいろあろうが、自分の場合は俯瞰構造を三層程度持つことかな)ことを身につけねばと思う。できれば意識しないくらいに。

二十歳の君よ「本」を手に

2019年08月15日 | 雑記帳
 「成人式特別号」として、こんな文章を表に載せて「図書館だより」を式のしおりに同封させてもらった。
 裏面には利用案内に加えて、講演会講師である秋田ブラウブリッツの岩瀬代表のおすすめ本の紹介も入れてみた。


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 社会人として働いている方も、学生として将来を見つめている方も、今日というハレの日を迎えきっと心を新たにしていることでしょう。

 そんな人生の節目に、ぜひ一度町の図書館へ足を運んでみませんか。

 あなたの持っている知識や技が一挙に増えるということはありませんが、書架の中の背表紙にふと何かを感じ立ち止まったとき、今どこに居るのか、そこから何につながるのか、どれほどの深さや広さに包まれているのかという「あなたの位置やサイズ」がぼんやりとつかめるかもしれません。

 その感覚はあなたの明日の支えになります。
 テレビほど饒舌でなく、スマホほど親切でなく、ゲームほど刺激的ではないにしても、「本」はずっとあなたの傍に寄り添うように居続けることができるからです。

 そんな一冊との出逢いを求め、さあ、図書館へ…。


 但し、盆踊り期間中は事情により臨時休館です(泣)。利用案内は裏面でご確認ください。平日は19時まで開いています。

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耐暑でした、立秋の頃

2019年08月14日 | 雑記帳
 8月7日(水)今日も暑い一日。少し気乗りのしない仕事があり、手をつけられずにいたがようやく書き出す。毎日1ページずつといったノルマを課すしかないか。しばらくぶりにそんな思考をする。夕方より高校野球。せめて一つ勝って星稜戦と願ったが…でもよく健闘した。あの一年生キャッチャーは来年が楽しみ。


 8月8日(木)朝4時から蝉がうるさく鳴いていた。今日は立秋だが、暑さが遠のくのはまだまだ先か。勤務を午前で終え、岩手の照井先生と昼食を摂りながら懇談した。午後から野口先生の講座、その後懇親会。懐かしい方々と話す。熱く楽しい一日だった。10時半を過ぎた帰り道、自宅近くではまだ蝉の声が元気だ。


 8月9日(金)朝風呂に入ってから体重計に乗り、驚く。この数字、数十年ぶりと言ってもいいだろう。あまり食べずに飲んでばかりいたからか。この頃酒の弱さに齢をひしひしと感じる。お気に入りのBS『美の壺』では「ビール」が取り上げられていたが、これは録画して明日へ。久しぶりにノンアルで過ごした。


 8月10日(土)午前中に出勤して、継続中の仕事を一つこなして、その後、来週子どもたち(司書講座を受けている子)に渡す「名刺」を完成させる。帰宅後、木曜に野口先生と話したことを反芻しながらブログへ書き込む。人の思考や性格は変わりにくいけれど、生物としては日々変わっているということも想い浮かぶ。


 8月11日(日)朝、家人の軽乗用車の調子をみる。と言ってもハンドル操作を繰り返す単純なこと。これもダマシダマシだ。たまに広げる『秋田の湯沢・雄勝弁あれこれ』を読んでいたら、「ぎゃ」という接尾助詞(「~ですか」という丁寧語をつくる)にハマる。この語は言い方一つでニュアンスの落差が激しくなる。


 8月12日(月)振替休日なので図書館は開館日。朝市が開かれるので、駐車スペースが足りず自転車で出勤する。書架を回っていたら一人の小学生に尋ねられる。都会から家族に連れられて帰省中の子だ。昼過ぎに退勤し自転車で走ると熱風状態。今日は娘の誕生日であったことから、反省すべき昔が思い浮かんでくる。


 8月13日(火)見知らぬ方からだが、久しぶりにブログにコメントをいただいた。なんとなく嬉しい。下の孫の入浴手伝いをした後、実家に行き墓参りへ向かう。その後一献。実家にも兄の孫二人が居り、計四人で賑やかな旧盆となった。亡き母も自分の孫が全て親となり喜んでいるだろう。今夏、最高気温が記録された日。

コンピテンスと微笑み

2019年08月13日 | 読書
 きのう「三十年後、祖父として罪滅ぼしをします。」とは書いたものの…。
 このアバウトな性格は重々承知しており、またこまめに体が動くタイプでもないと自覚しており…
 ではどんなことを、と考えて頭に浮かんだのが、ひと月前ほど糸井重里が『今日のダーリン』に書いていた文章だ。


Volume.173
 最近知って、しみじみいいなぁと思ったのは、コンピテンス(competence)という概念です。硬い日本語訳だと「環境と効果的に相互交渉する能力」ということになるらしいのですが、ぼくなりに意訳すると「いろんなモノゴトと親しむ能力」という感じかなぁ。もっと別の、歌みたいな言い方をすれば、「わたしが世界に笑いかけ、世界はわたしに笑いかける」ということになるかもしれません。


 これが「自己肯定感」と強く関わることは間違いない。
 自己肯定感を養うことは、学校に勤めていた頃に、散々言われてきたことでもある。その通りとは思いつつ、どうもこれは小学校あたりでは手遅れではないかと感じていたことも確かである。
 もっとそれ以前、乳児・幼児の時期に「じぶんがいてよろこんでもらえる」という感覚を肌で感じている必要があるだろう。

 
 コンピテンスという概念を持つと、赤ん坊の動きや表情からその心を察するときの一つの基準ができるような気がする。

 「あやす」という行為を、語の定義以上に意味深く考えたい。
 つまり、単にその場をしのぐ機嫌取りだけではなく、世の中とどう関わりを持てば幸せに結びつくのか。

 それを、動作で、言葉で、表情で近くから支えてやるよ、という感覚だ。
 あなたがいてうれしいよと思う心を、表現することだ。

 それは、微笑みかけることで実現する。
 それだけを忘れないと決めて、できることに手を差し伸べればいい。

平成元年8月12日の頃

2019年08月12日 | 雑記帳
 令和でなく平成である。その日は次女が産まれた日だ。娘はつい最近無事に出産し母親になった。今どきの夫婦らしく「立ち合い出産」だった。で、三十年前の自分は、というと病院にも行けなかった(行かなかった?)記憶がある。なんとも情のない、だらしない父親であったことか…いったい何をしてたのかと想う。


 三十年前というと1989年。その頃の学級通信の合本があるはずと、書棚を見てみた。まるで、探すのを待っていたように、その号だけが見当たらない。合本を始めたのはその数年前で、他の年度は全部揃っているのに、なぜかその年度の中間部分(7~10月頃)だけが欠けている。不思議だ。五年生を受け持っていた。


 通信の題名は『タッチⅢ』。「Ⅲ」とは、つまり三年目の持ちあがりである。これが「」まで続く厳しさを知る人は、さほど多くないはずだ。特に辛い年だったかもしれない。かの初任者研修が始まり指導担当になった。学級担任なのに、だ。初任者の学級に入り授業をした。受持ち学級の授業代替は、若い講師に任せられた。


 初任採用者と大学を出たばかりの講師、二人の面倒をみることになったわけである。担任している男児たちが女性講師の言うことをきかず…なんてこともあった。その年度の合本2冊を広げて読んでみる。しかし自分で言うのもなんだが、腹一杯になるほど、実践記録や保護者・家庭へのアピールであふれていた。


 教育技術の法則化運動(TOSS)に学んでから数年経ち、少し幅を拡げた時期にあたる。たぶんネットワーク運動に加わった年だ。学級通信をずっと経営の核としてきたが、「自学」を本格的に取り上げたのもこの年度だったのだ。国語科の教材開発に加え、他教科や領域等の追試、子供たちとのパーティ実践なども目立つ。


 春休み!に学級PTAレクリエーションまでやっているではないか。よくもまあ、今だと全然想像できない。保護者との付き合いも多かった。それでいて自宅では能無しで過ごすという…申し訳ない気持ちが今頃湧いてくる。我が子の出産時に病院へも駆けつけていないのだから…三十年後、祖父として罪滅ぼしをします。

「調べ学習」ネタ開発気分

2019年08月11日 | 雑記帳
 子ども司書養成講座で、俳句や絵本を扱ったアニマシオンの講座は楽しくやれた。実はもう一つ講座を担当しており、それは「調べ学習」だ。昨年度は県を通じて専門講師を手配していただき、実施したようである。今年は計画段階で「自分がやるよ」と軽く引き受けたものの、教員時代に手慣れていたわけではない。


 6月中旬に、昨年実施した内容をある小学校で行うという話を聞き、参観させてもらった。某出版社百科事典の販促の一環だろうと思われた。グループの数だけ事典が準備されているので、一括指導には向いている。自前では出来ないなと思いつつ、事典の使い方などは国語辞典にも通ずるし、結構面白いと感じた。


 講座を組み立てていく段階になって、どう切り出すか考えた。そもそも、もはや事典や図鑑などを使って調べる時代じゃないという認識がある。しかし「だからこそ」という思いもある。そこで「なんのために、図書館の資料で調べ方を学ぶと思うか」と発することにした。たどり着くまでが大切という発想である。


 授業のように活発な問答はできなかったが、「山登り」に喩えて説明した。ヘリコプターで一気に頂上へ着く者と、一歩一歩様々な景色を見ながらたどりつく者との違い。そして、身に付くことの違いである。5年生以上の子たちなので、理解してくれたようである。「調」の「周」とはぐるりと回ることで、関係深い。


 実際の活動は、得意技(笑)の国語辞典クイズから始め、事典(書物)の部分の名称、使い方、種類など。それから調べるテーマについて事典で探し始める。問題はまとめ方でレポート型は時間的に無理。そこでクイズ形式で表現することにした。これが思いのほか集中してくれ嬉しい。久しぶりに教材開発した気分だ。

不可視の部分が響きだす

2019年08月10日 | 教育ノート
 木曜、一年ぶりに野口芳宏先生の講座を拝聴した。読了した『教育と授業』があったので、本当に久しぶりにサインをいただくことにした。先生に書いていただいた言葉は「異に学ぶ」。宇佐美寛先生との共著にふさわしいと言える一言なのだが、この著で結びに先生が記された、ある意味で意外な一文が思い出された。


 それは「人はそう簡単には『変わらないものだ』ということに気づき~」の箇所である。ふだんから先生が口になさる「教育も指導も授業も、その本質は向上的変容の保障にある」わけで、学ぶ意義はそこに集約されると言っていい。しかしまた、それは困難な営みであることを今回の往復討論は示したことにもなる。


 では「学ぶ価値」とは何だろう。先生は「随分考え、吟味し、ゆさぶられたその過程には大きな価値があった」と書かれた。それは「不可視の部分での変化」となる。これは噛みしめたい。主催者が講座に付けたキャッチフレーズは「明日の授業が楽しみになる」だった。参加者はこの意図をどうくみ取ったのだろうか。


 「明日の授業が楽しみになる」ためには、何が必要だろうか。指導や生徒理解等の技術もそうかもしれないが、もっと根本のところで言えば、教室が「教師」にとって「学びの場」になっているかどうかだ(青臭い話で、そんな輩は給料返納しろっと叱責を受けそうではあるが…)。その姿勢は、子どもにかなり伝わる。


 もちろん単純な話ではない。意識的、計画的な積み重ねは必須だろうし、周到な準備とは裏腹に途方に暮れる経験も必要だろう。可視的なそれらが心の中の不可視の部分を作りあげていく。そういった実感に支えられていく。一流の方々に学ぶ時、そうした部分が響きだす。その音に耳を澄ましてみる時間は貴重だ

龍虎、相まみえて

2019年08月09日 | 読書
 発売日直前に注文しようとアマゾンを開いたら、次のような紹介があった。「緻密な論理を積み上げ天駆ける龍と、初等教育という迷い多き竹藪を自在に歩む虎が、ここに初めて一冊の本の中で相まみえます」横山社長が書いたのだろうか。しびれる惹句である。これが読まずにいられようか、という思いにさせられた。


2019読了78
『教育と授業  宇佐美寛・野口芳宏往復討論』(さくら社)



 この討論は、宇佐美先生が著書で述べている「前おきはやめよう」について、野口先生が「前おきも必要である」と題して批判することからスタートした。野口先生はその意義や効用を具体的に明らかにする。それに対して宇佐美先生は、「前おき」の概念を問題とする。この時点で十分に考えさせられることが多い。


 宇佐美先生は次の「予測」を書く。「両著者は、結論を求めるのではなく、読者が今後、思考・探究するのに参考になるヒント・示唆を具体例とともに書くという道を歩む」。まさにその通り。話題は「読み書き」「自己教育」「学習者・教材」「発問」「英語教育」と、次々に橋を架けながら道が作られるイメージで進む。


 物語教材『海の命』をめぐってかわされる応酬は読みごたえがある。長年野口先生から学んできた者にとっては、先生の考えは納得のいくものばかりである。宇佐美先生の指摘、批判に対して揺らがずに持論を展開し、具体例で応える姿勢には、そこで積み重ねられてきた理論と実践の頑強さがひしひし伝わってくる。


 読了してから、つけられた上記キャッチフレーズの見事さを改めて思う。「天翔ける龍と竹藪を自在に歩む虎」…ここには視点だけではなく、主戦場の違いによる攻撃の特性的なイメージも表現されている。双方が存在は意識していても、眼前の対象ではないので軽視する部分もある。ただ、相まみえている迫力は一品だ。