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かき氷、食べてないけど…

2019年08月03日 | 雑記帳
 暑いのに「かき氷」はまだ食べてないと、ある週刊誌の写真特集を眺めながら思った。そこにはなんと一杯1500円なりの「大人のかき氷」が載っている。最近そうした値段に驚かなくなった。別に裕福だからでなく、結局食べないし、もし食べるとしたら、その「値段を食べる」感覚しかないと醒めているからだ。


 昔話をする。小さかった頃、近所のⅠ食堂のかき氷は一杯20円が相場だった。詳しくいうと「しらたき15円」「いちご、めろん20円」「ミルク、あずき30円」だった。少し経ってから「いちごミルク」「小豆ミルク」などが登場して40円になった気がする。I食堂はまだ電動ではなく、手動だったことも覚えている。


 中学生になった頃か。橋向の菓子屋の二階にパーラーが出来て、「フラッペ」が登場した。なんと生フルーツが添えられている。いくらだったか正確な記憶はないが、100円は超えていたと思う。しかし衝撃だったのはかき氷にソフトクリームが乗せられたときだ。その豪華さ、口にした愉悦、まだ感覚がかすかに残る。


 「日焼け顔見合ひてうまし氷水」(水原秋桜子)という句がある。教科書に取り上げられていて、解釈からミニ作文という実践を作り上げたことがある。ここに描かれている情景は、ごく普通の店の、ごくありふれたかき氷でなくては成立しないだろう。リゾート地の高級な一杯に「うまし」という感情は生まれない。


 いくら中身が違うとはいえ、15円のかき氷が100倍の値段となったから100倍美味しくなったとは誰も思わない。「うまし」は大方その時の状況が決めるものだ。「味」であれば今までより変わった時、一段階レベルアップしたとき感じる。何より食べる「場」が決定的に関わる。「うまし」はそういう心の有様を指す。