すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

罪は明るく祓いませう

2017年07月21日 | 読書
 『罪と罰』という世界に名高い大作があるからか、なんとなく「罪」の対語は「罰」のように思いがちだ。しかし少し考えると違うことがわかる。「罪」の対義語は「功」、「罰」は「賞」がふさわしい。「功罪」「賞罰」という熟語もあるし、妥当なところだろう。あるコラムで「罪」の対比として面白い解釈に出会った。



Volume65
 「よくよく考えてみれば、自分の意志でこれをした、と言い切れる行為は案外少ない。しかし、現代人はあらゆる行為には意志と責任がつきまとうと思っている。」


 安田登という能楽師の方の文章である。ふだんの生活で「思わず」抱く感情や、「思わず」してしまったことなど、結構多いのではないだろうか。全て意識のなせることだと思い込んでいると、例えば子どもの悪戯などを問い詰める場合にも余裕が持てない気がする。行為や思いが自然に発現することだってあるだろう。


 「罪に関してもそうだった」と安田氏は書く。ごくふつうの人が過って起こした、つまり「過ち」であると。もちろん意識的に悪事を働くことはあるが、その時点でどれだけの必然性があったか、一律に判断できない。犯罪擁護論ということでなく、そういう見方も、人間として持ちたい寛容の心構えの一つだと思う。


 そこで過ちである「罰」について、正しい対比として「祓え」を挙げている。神社でのお祓いのイメージが強いが、そればかりではない。疲れや倦怠が澱のように溜ると「罪」(過ち)を犯しやすい。だから祓う。「祝詞」にある方法として「買い物などの消費も祓えだし、旅も祓えだ」という。元気づけられる見識だ。

教えに反して夏バテ対策

2017年07月20日 | 雑記帳
 日野原重明先生の訃報に接して、いろいろ思うことを書き散らしたが、健康面の振り返りとすれば「一日1300キロカロリーに抑えよ」というのは、なかなか守れそうにない。
 
 今月にはいってからの暑さ対策の基本は、やはり食べること。
 カロリーなど気にせずに、なんか「辛さ」を求めて疾走(笑)した感じだ。

 ちなみにこんなネット記事もある。
  ↓
 辛い料理、なぜ夏バテに効く メカニズムと注意点



 隣市にある「業務スーパー」のレトルトカレー(大辛・中辛)はなかなかなので、食べたいと思ったときにすぐ出せる。


 (ひき肉でキーマ風にして左右二味にしたカレー。中央の温玉で元気が出そう)

 
 時々、無性に食べたくなる冷麺。具材はいろいろあろうが…


 (スタミナバージョンという感じのトッピング。辛味は必須)

 
 飲み疲れでへたっている日にもカレーがいい。

 「胃」に良さそうに思えるが、実は刺激で誤魔化されているのだと知りつつ…


 (カレーうどん。前日の野菜カレーに豆乳など投入して、少しまろやかに)

 
 辛味にダマされないことが大切。

 しっかり夏を乗り切るためには、やはりバランスか。


楽譜通りの見事な終章

2017年07月19日 | 読書
 この人はいつまでも死なないんじゃないかと思わされる方が、自分にもいた。
 けれど、残念なことにこの春の満開の桜に見送られて逝ってしまった。

 昨日亡くなられた日野原重明先生もテレビやその著書でしか存知ないが、なんとなくそんなことを思ったりしたことがあった。

 『ほぼ日』でずいぶん前にインタビューに応じている。
 改めて読み返してみて、しみじみ味わうべき言葉に再び出会った。



 ◆日野原重明さんに聞く「これでも教育の話」より

Volume62
 「ほんとうに、死ねば多くの実が結ぶからね。ひとりの人間は、まずは一つの麦だけど、このまま麦であるだけなのか、それとも死んだあとに実を結ぶように成長するか、そういうことがこのテーマだったなあ、と偶然に驚きました。」

 よど号ハイジャック事件の人質になったことが大きな転機と語った。
 その時、犯人に渡された本『カラマーゾフの兄弟』の冒頭、聖書の一節を読みながら、そんなことを思ったのだという。


Volume63
 「『こんなもの食べたら、胃潰瘍になって出血します。やわらかいおかゆじゃないと、ダメだよ』すべて、「ドント・ドゥ」の話でしょう?でもほんとは、よーく噛んだら、クチの中でベタベタになるわけでして、それも同じじゃないかと思うんです。だから、『おかゆじゃなきゃダメ』じゃなくて、『ベタベタにすれば食べられる』ということを伝えるべきだと思うんです。」

 「ドント」から「レッツ」の教育へ、を強調している。
 禁止の教育から、共励の教育へといった方向は、ずっと薦められてきてはいるが、どの程度実現しているものか。
 そう考えると、心の底から発想を切り替える学習や努力が不足なのではないかという気がしてくる。


Volume64
 「人生の99%が悲劇でも、最後、別れる時に、生まれてきてよかったねえとか、意味があったよというか。“終わりよければすべてよし”というシェイクスピアの言葉です。で、年をとるというのは終わりだからね。だから僕は終わりに向かってのクレシェンドが、人生なんだと言ってるんです。」

 インタビューの最後にこう締め括られた。
 達観した心境と呼んでもいいかもしれない。
 しかし、デクレッシェンドで次第に弱めていくのではなく、クレッシェンドで強めていくという、構成する精神力のなんたる強靭さ。

 楽譜通りの見事な終章なのだと思う。

海洋国の気配

2017年07月18日 | 雑記帳
 「海」という漢字のつくり「毎」は、「晦(くらい)」や「悔(くいる)」に使われている。この字は『字源』に「多くの髪飾りをつけた女の姿で、頭上が鬱陶しいような状態をいう」と記されている。それに続けて「『うみ』の意味に用いる」とされる。つまり、「海」に対して明るいイメージの様子は想定していないのだ。


 一方『大漢和辞典』を調べると、「海」の解字としてずばり「暗い色のうみのこと」と載っている。解説によれば、北方の中国人が知っていたのは、玄海・渤海などの暗い色をした海であり、それがもとになる。文明の進んだ中華の国にとっては、海の広大さが「知られざる暗黒の世界」と思え、そう表現されたのか。


 
 「うみ」と読むことの出来るもう一つの漢字「洋」は、逆にイメージが明るい。なんと言っても「美」につながる「羊」が音。「ひろい、あふれる、さかん」という意味を持つし、「海洋」と使った場合は大きな海を指すことになる。「太平洋」「大西洋」等と「日本海」「瀬戸内海」等の違いを、勉強したことを思い出す。


 「海洋国日本の繁栄を願う」趣旨の祝日制定であるが、他と同様に一部の祝事に留まるのは仕方ないか。さて「海の日」自体がかなり季語として浸透しており多くの句があったことは少し驚きだった。そして、なんとなく日本の現状も見えて寂しくなる気配を感じる句が多い。これも「海洋国」の宿命か。三句紹介。


 海の日の国旗疎らに漁夫の町(千田一路)

 日の丸を捨てず使はず海の日よ(於久喜代子)

 海の日や海を埋めゆくブルドーザー(会田仁子)

「ひとりで戦う者」の価値

2017年07月17日 | 読書
 「ひとりで戦った経験は?」と訊かれたら、20代から30代にかけてのいくつかの事が思い出される。しかしどれも「若気の至り」という言葉で済まされそうな、しかも単発的な印象に留まってしまう。ただ、その時抱えていた問題意識は、まだどこかで燻っている気もする。「目的は何だ」といつも繰り返していた。



2017読了76
 『自民党ひとり良識派』(村上誠一郎  講談社現代新書)

 政局に興味はないが、政治の行方には気を配っているつもりだ。著者についてはよく知らない。しかし堂々と名づけたこの書名に惹かれ、手に取ってみた。表題も凄いが、自分を「ミスター自民党」と言い切り、単独で現執行部に対している。ちょうど一年前の発刊、偶然だが文藝春秋誌が今月号で取り上げていた。


 「自民党の劣化」についてこのベテラン議員は、その歴史を踏まえながら語っている。恥ずかしながら(笑)私は自民党と同じ年齢である。人間の身体と重ね合わすのは無理があるけれど、60年も過ぎる相当前から劣化は始まり、硬直するのは当然なのかもしれない。ただ政治は人間と違って滅びを待つことは許されない。


 著者が望む「自由闊達な党内議論」が無くなっている風景は、おそらく他の政党や企業、機関などにも見られる傾向だ。危機意識を持ち、風通しのいい場づくりに手をつけたところだけが、活性化し成長している…確かだろう。リーダーシップの重要性という道理は、「ひとり」で戦う者にとってキツイ現実でもある。


 眼がどこを向いているか、そしてその眼は曇っていないか…リーダーとはその点に自省的でなければいけない。人事配置も工夫の一つ。よって「ひとりで戦う者」をどう扱うか、これはかなり面白い判断基準で今後が楽しみだ。さて、この本にあった選挙制度の面白い意見は「一人2票制」。個人的にかなり気に入った。

ツワモノの言葉遣い

2017年07月16日 | 読書
 「男は度胸、女は愛敬」…なんと広辞苑には「男女それぞれに必要とされる特性を対句的に言ったことば」と記されている。
 昔の映画じゃないんだから、「以前は」などと付けた方が良いのではないかと思わずツッコミたくなる。

 めったに「度胸」と使わなくなった最近、ある雑誌で久しぶりに目にしたのは…。



Volume61
 「度胸とは、“まずやってみよう”“人とは違うことをしてみよう”という好奇心です」

 手元の電子辞書には国語辞書として「精選版日本国語大辞典」と「広辞苑」、それに「明鏡国語辞典」が入っている。
 その三つとも「度胸」の意味として「物事に動じない心」といった表現を使っている。自分もそんな解釈をしていた。
 大辞典に記されているように「どんな事態にぶつかっても」という、どちらかと言えば対応する印象が強いと受け取っていた。

 この言葉は、家具小売り最大手ニトリ会長似鳥昭雄が語ったことである。
 「度胸=好奇心」とは強引な気もするが、こうした創業者精神あふれる人物にとっては納得できることかもしれない。

 「好奇心」とは調べるまでもなく「珍しい物事への興味」「物好きな心」を指しているだろう。
 それを即実行、実践レベルに落とし込んでいる精神を持つからこそ、起業があり躍進に結びつくのか。


 ちなみに「新明解国語辞典」には、「度胸」はこんな意味が記されている。

 「失敗や他から受ける非難を恐れずに、こうしようと思ったことをためらわずに実行する決断力

 「度胸=決断力」の方が、一般人にはしっくり入る。
 「力」がなくちゃ進んでいかないからだ。

 
 そう考えると、いや、だからこそトップに君臨するお歴々には、自らの行動力の強さを意識せずに、度胸を好奇心という心の持ち方と解釈しているツワモノがいるんだろうと思う。

 言葉を自分なりに解釈し表現できるのは、強さの証明でもある。

浴衣の君の夏来る

2017年07月14日 | 雑記帳
 浴衣と言えば、「♪浴衣の君はすすきのかんざし♪」とかの名曲が思い出される。(ところで、すすきをかんざしにするのは難しいだろ)。私も含めよく聴いた世代は、どの程度浴衣に親しんでいるのだろうか。旅館に泊まったときぐらいだろうか。日常的に着こなしてもおかしくない齢だが、そんな暮らしは想像できない。


(これは今年の県展で特賞をとった藍染。呉服店に飾ってあった作品を撮らせてもらいました)

 今日は大相撲の特集で浴衣姿の力士が映されていた。力士は昔から自分の名を入れた浴衣を作り、周囲に配ったりしたのだそうだ。様々な柄が楽しかった。なるほど力士には浴衣がよく似合う。というより普段着としてインプットされている。太った男性が来ていれば、なんとなく相撲取りと思ってしまうのが普通だ。


 「ゆかた」という語は「湯帷子(ゆかたびら)」の下略と知られている。力士が着ると、まさに入浴前後というイメージがぴったりだ。しかし女性の浴衣姿となれば、もはやファッションとしての意識が強いだろう。この頃は都会でのややケバイようなデザインも見かけるが、色調の抑えが本質ではないとかと勝手に思う。


 となると、我が地元の西馬音内盆踊りの衣装と結びつく。幼い頃は子ども用の浴衣で列に加わったものだ。また娘たちを連れ出した頃も懐かしい。今は早い時間帯に観に行かないが、端縫いや藍染衣装とはまた違う良さがある。盆踊りまであとひと月少し、熱い夏が続く。もうすぐ囃子練習の音が聞こえてくるだろう。

時は罠を仕掛ける

2017年07月13日 | 読書
 このアンソロジーに付けられた素敵な書名…「時の罠」。時の経過によって明らかにされる出来事の意味や真実といったイメージが湧く。人気作家四者それぞれの持ち味を生かした個性的な短編が並んでいる。「罠」の意味は「紐を輪状にしたもの」。もしかしたら「時の流れは残酷」などと、同様に使えるかもしれない。



2017読了75
 『時の罠』(辻村深月、他  文春文庫)

 「タイムカプセルの八年」(辻村深月)は、小学校で一時期流行った?卒業時のタイムカプセルを巡る出来事をモチーフに、主人公(父親)の心の変貌がごく自然に描かれている。埋められなかったカプセルの顛末には笑えない現実も感じるが、登場人物の個性や抱えている問題がよく象徴されていると思った。佳品だ。


 「トシ&シュン」(万城目学)は、この作家らしくやはり特徴的な文体と奇抜な発想になっている。某TV番組「世にも奇妙な物語」を彷彿させるような展開とオチでもある。小説の中で神社、鳥居、願い事などはよく取り上げられる気もするが、「入れ子構造」とも言えるこうした作品に合っているなあと改めて思った。


 「下津山縁起」(米澤穂信)は、西暦870年の文献記述に始まり、2873年の判決文に終わる、あまりにもスケール感の大きい物語。最初はなんのことやらと思う事柄が列記されるが、それが「大質量知性仮説」という言葉が出てくる頃から、ダイナミックな展開へ。様々な仕掛けがされている風変わりな逸品だ。


 「長井優介へ」(湊かなえ)にもタイムカプセルが登場する。湊作品には、ある事情を持った主人公の時系列ミステリーが多く、設定は手慣れていた。主人公のある一言がとても興味深く、それを引用しておく。「社会人になるということは(略)皆で一緒にということを重視する、小学校でのあり方に近いのではないか

TV観てナンダアァと呟く

2017年07月12日 | 雑記帳
 人気バラエティ「ケンミンショー」で、山形県民熱愛と称して「納豆」が取り上げられたことにナンダアァと呟く。納豆の発祥地である秋田を差し置いてと思う県民感情そのままだが、実際、山形が消費量のトップなわけでもなく、バラエティ豊かとも言えない。思うに出演県民のキャラクターか。あき竹城、渡辺えり。



 具体的には言い難いが、アナウンサーのタレント化が目に余るほどでナンダアァと呟くことが多い。かなり以前から民放FTVで始まったが徐々に広がり、今ではNHK地方局まで連日そんなコーナーがある。結局ヤラセが横行することになる。「LIFE!」の『NHKなんで』というキメ台詞が悲しく笑える状況だ。


 大相撲名古屋場所が開幕。初日の大関、横綱陣の不甲斐ないなさにナンダアァと呟く。若手有望株が活躍するのは面白いが、それは上位陣の強さを前提として成り立つ。白鵬以外に「壁」になる者が見当たらない状況はやはりさみしい。横綱Kにも期待は出来ない状態だし、一人二人突き出て場所を面白くしてほしい。


 某熟年夫婦の家庭内騒動(詳しい内容は興味がないので???)が連日ワイドショーなどで取り上げられている。こんなの誰が面白がるのかとナンダアァと呟く。これだけ騒がれていても、夫君はNHKにはレギュラーに出ているし、元気な老後を送るCMに頻繁に登場する。若手のゴシップとは差がずいぶんある。

本選び失敗も一興

2017年07月11日 | 読書
 書名や著者が気になって、軽く手に取ってしまうことがある。この頃は新書が多いなあ。
 当然ながら、読み始めて正直「つまらない」と思ったり、なかなか文章が頭に入ってこなかったりする本があるわけで、今回は偶然か2冊続いてしまった。
 まあ、記録として残しておくということで。


2017読了73
 『ぼくは眠れない』(椎名誠  新潮新書)

 不眠症(と言ってもさほど重症ではないようだ)の著者が、自らの経験や「眠り」についての蘊蓄を書いている。『新潮45』での連載がまとめられた一冊である。はっきり言えば「筆に任せて」例の口調で、だらだらと書き散らしている感がある。人気作家とはこんなものでも…と、いい意味悪い意味の両面で感じる。

 前半は不眠症のきっかけになったストーカーまがいの女性の話は面白かったが、睡眠に関する様々な文献などの紹介が入り込んだら、とたんに退屈になった。著者自身も間延びしていることを感じつつ書いているような印象だ。もちろん「不眠症患者」の自分だからこそ手にした。寝床で読むと眠くなったのが救いか。



2017読了74
 『小説の読み方』(平野啓一郎  PHP新書)

 著者の小説は難しくて読めないが、「分人」の考えを打ち出した彼には興味があるので、こんな新書もいいかなと思い手に取ってみた。しかし冒頭の「小説を『四つの質問』から考えてみる」から、もはやあまり頭に入ってこなくなった。ちなみに四つとは、①メカニズム②発達③機能④進化、そんな読み方をしていない。

 綿矢りさ『蹴りたい背中』、伊坂幸太郎『ゴールデンスランバー』など既読の小説も取り上げられているが、その分析を目にしても面白みが深くなるわけではない。唯一納得したのは、「小説」を文字通りに「小さく説く」と解釈したこと。「情報の海を泳ぎ回る」ような時間を過ごすよりは、一冊に浸る価値を優先したい。