すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

ミノゴナシ旅②

2016年05月21日 | 雑記帳
 雨に煙る台北空港…と予想していたが、まあまあの曇り空。ただし湿度は高いことがすぐ感覚としてわかる。そこはやはり亜熱帯なのだろう。当然ではあるが「漢字だらけ」の街である。そしておそらく初めて訪問した人が誰しも思うことだろう「バイクだらけ」の街。もう一つ挙げれば「黄色いタクシーだらけ」か。


 初日、二日目とバス移動が多く、交通観察すると、とにかくバイクには驚かされる。交差点には車の前方にバイク枠がしっかり示されているし、信号が変わった瞬間にスピードを出して突っ走る。二人乗りは普通、子どもを二人抱えた母親ドライバーもいた。どこの道を通っても路上に駐車バイクがずっと並んでいる。


 信号には上部に残り時間を示す秒が表示される。日本ではたまに工事区間で見ることがあるが、ほとんど普及していない。ガイドさんが話すところによると、この方式にしたら信号を守るようになったという。このあたりは国民性なのか。我が国も最近イライラしている人が多い?から、導入してよいかもしれないと思った。


 中国系旅行者のところ構わない大きな声は、国内の観光地でよく耳にする。では、台湾国内ではどうなのだろう。やはり多少耳にすることはあった。しかしそれほどではない。ただエレベーターの乗り降りなどの際に感じるのは、自己優先的な気配だ。気遣いの文化が日常化している国で暮している自分を知らされる。


 黄色いタクシーに一度だけ乗る機会があった。目的とする店の名前と場所はわかっていたので、メモを示したらそれでOK。漢字の強さである。またドライバーのマナーもよく対応が丁寧で「アリガト」という一言もあった。外国人に対してその国の言葉で謝意を伝えられると嬉しいものだ。これは異国で実感できる。

ミノゴナシ旅➀

2016年05月20日 | 雑記帳
 師と仰ぐ野口芳宏先生が著した教育新書のなかに『海外旅行で鍛える』がある。確か40代の頃に研修等で訪問したヨーロッパやソ連のことについて書かれてあった。旅の準備の時点から心構えを作り、訪問する国での見聞を人格形成に生かそうとする、いかにも野口先生らしい一冊で、憧れを感じたことを覚えている。


 現役中は残念ながらそうしたチャンスにも恵まれず、またプライベートでも行く機会をつくれなかった。少し腰が引けていたことを素直に認めよう。しかし、退職時に「未知」をキーワードとして出した自分でもあるので、ここはエイッ!と出かけてみるか、と思い立った。でも近くがいいなあとやはりミノゴナシである。


 台湾を選んだのもさしたる理由はない。近い、日本語も通じそう、中華は結構好き…という程度。まずはパスポート申請をしなければいけない。結構厳密な手続きだなと思う。旅行社で話を聞くと、あれれっこりゃ面倒だなと感じる。文句なく旅行好きを自称できるが、それは「国内限定」と決定的な評価がくだる。


 無難に、全日程フリータイムではなくツアーが組み込まれている内容にする。それはいいが、外貨両替はどの程度か、旅行保険はどうする、携帯は使える形にするか等々、決めることは多い。一つ一つ検討すると、様々な状況を考えなくてはいけない。そこで改めて幸せに感じたのは、多くの責任がない今の身分だ。


 ともあれ旅行当日、朝一番の飛行機で秋田から羽田経由で向かう形である。出国手続きなど言われるままに済ます。少し考えたのは時差のこと。1時間違うということで時計を遅らせようとした時、ふと「オレの人生、1時間無駄になったのかな」などと変な妄想にとらわれる。4日間雨の予報マークの出ている台北へ。

まさに試金石

2016年05月14日 | 読書
 Volume2


 A面 「結論はただひとつ 『そのうちに…』ということは人生では禁句なのだ。」 

 雑誌の付録としてビジネスマン向けの名言集にあった大前研一氏のことば。

 結構使っている「そのうちに…」。
 使っているときのことを考えると、全部ではないけれど、優先順位が高くない約束の時が多い気もしてくる。
 本当にやりたいのなら、本当に必要なら、そういう言葉遣いにはならないのだと思う。

 その頻度の高低によってレベルがわかる、試金石のような用語だ。




 B面 「イルカしら?あなたらしくあるために、誰かの評価がいるかしら」   

 素人の投稿名言集から見つけた。居酒屋においてあったガチャガチャの中にあるイルカのキーホルダーに、この言葉が書かれていた。

 物質面、精神面ともに「いるかしら」という問いは、今の自分のど真ん中をついてくる。
 そして気づくのは、いかに今までその問いをないがしろにしてきたか、ということだ。
 押し寄せる諸々を受け止めることも大事ではあるが、その前に「いるかしら」と一呼吸置くこと。

 これも、使えるかという意味ではまさに試金石だ。


キニナルキ・リニューアル

2016年05月13日 | 読書
 正寿先生の新著『子どもたちに伝えたいお話』の第五章は「名言・格言で心を育むお話」であった。

 私もそういった言葉には関心が強い。

 十数年前に始めたホームページでも「キニナルキ」と題した備忘録を始めたのも、そんなことがきっかけになっている。

 特に、著名人はもちろんだが、それだけでなくあまり世間的に知られていない方、、身近に接した人などの言葉にも惹かれる。
 
 また、素直な性格とは言えないため、ちょっとひねくれ気味、またはアウトロー的な言葉にも魅力を感じる。

 そこで、前にもタイトルとして使ったことはあるが、新カテゴリーとして「キニナルキ」を設定し、A面とB面という形で紹介してみたい。
 
 読書が中心だろうが、テレビやラジオそして生活の中からも拾えたら嬉しい。



 では、記念すべきVolume1


 A面「飛び立つ時は向かい風」

 SPC JAPANという美容院オーナーの団体の創設理事長横山義幸氏が、ある対談で、団体のサブスローガンとして紹介した言葉。

 追い風があればスピードは増すが、飛び立とうと角度をつけて踏み出せば、向かい風になるからこそ飛翔していく…確かにそうだなあ。
 人が何か今までと違うことをやろうとした時、また新しい場で出発する時、そこには常に向かい風が吹いている。
 
 当たり前のこととして受け止め、だからこそ浮かび上がれるのだ、という意識を持つように努めよう。



 B面「法の中で暴れているだけだろ」

 お笑い番組のコント、アンガールズ田中の一言。女の子を好きになっても具体的に変な行為に走らず、妄想で楽しんでいることを、こう言い放った。

 これには笑った。心に思うことは誰にも止められないというが、その行動化に制限を加える最大の要素は「法」である。
 法治国家の本質を表しているか。
 
 で思うことは、みんな!(って誰だ)もうちょっと、法の中で暴れてみてもよくないか。

価値を認識して伝えたい

2016年05月12日 | 読書
 『子どもたちに伝えたいお話』(佐藤正寿 明治図書)

 佐藤正寿先生が新刊のご著書を贈ってくださった。この一冊は、間違いなく今までの仕事の集大成の一つだと思う。ホームページを見続け、長年ブログを愛読してきた者なら、はっきりとわかる。ホームページに掲げた題であり、少し前までブログも同様のタイトルであった。曰く「地域のよさ・日本のよさを伝える


 5つの章は「日本(和)のよさ」「年中行事」「祝日」「記憶に残したい日」「名言・格言」という区分である。ネット上に公開された内容が基にはなっているものもあるが、どれも再構成され見開き2ページの体裁でコンパクトに収まっている。ずばり「使える」ことを最優先に意識した編集であり、意図が明確にわかる。


 前書きにも「教室に常備して、ちょっとした時間に活用していただければ…」とある。学級通信等での紹介も勧めている。そうあってほしいが、これだけまとまっているのだから、ぜひ固定的・継続的に使ってほしいと思う。つまり毎日教師が時間設定をして必ず読む…それが子どもの興味を底上げしていくはずだ。


 底上げされた興味・関心は、子どもの追究の芽を育てるし、そこから教科学習に結びつくことも十分あるのではないか。中味を読んでいくと、私などは冒頭から社会科的な「はてな」が思い浮かぶ。例えば、もともと入浴道具だった浴衣がどうして着物になったか?例えば、「正座」と女子の関係はどうなっているのか?



 そんな問いが生まれて、結構楽しく読んだ。さて「地域のよさ・日本のよさ」と一口に言うが、それは今かなり意図的に行わなければいけない。学校教育の中の指導事項であるとしても、本来家庭や地域の暮らしで培うべき精神が、かなり薄くなった現状がある。この本の価値を、まず教師が認識することが出発点だ。

隠居志望者の戯言

2016年05月11日 | 読書
 4月以来「憧れの隠居生活に入ることができて…」という軽口を常套句のように使っている。7割ぐらいは本当の気持ちで、そんなふうに過ごせたらいいけど現実は…ということか。落語に出てくる「ご隠居」は、もの知りではあるがどこか長屋の住人たちには小馬鹿にされる傾向もあり、自分もそうなっていったら怖い。


 書棚整理の途中、ある一冊が目に入った。『隠居学』(加藤秀俊 講談社文庫)である。そうかあ「学」と名づけると、こんな緩いことも高尚に見えるかもしれない、と姑息な思いつきをする。しかし、待てよ。この文庫を読んだときは…と我がブログを検索してみたら、2012年の6月にメモがあり、そこにはなっなんと…


 長くブログを続けていると、時々驚くような出会いもある。これもまさしくそう通り。加藤秀俊先生からコメント欄にご挨拶をいただいたのだ。『隠居学』を読むかなり前に『なんのための日本語』という新書を興味深く読んだ記憶もあり、我が国でも屈指の社会学者の方に目を留めていただいた偶然に感謝したものだ。


 あれから4年経ち、改めて「隠居入門」を志す者であれば、もう一度この文庫をめくっていこうと決めた。「まえがき」が実に面白い。加藤氏からぽんぽんと出てくる、様々な定義づけが実に明快、痛快。膝をたたくとはこのことかと思う。

★「隠居」の特典はその無責任性にある。

★シマリのない口から出まかせ阿呆陀羅経(あほだらきょう)


 落語においてもその無責任性が展開する噺はずいぶんある。知識が繰り出されるけれども、どうにも終着駅が見いだせないということか。しかし考えようによっては、連鎖していくことの方が大事かなと思う。紹介されていたダニエル・ベルの「知識人」の定義に思わず唸った。かくありたいと願うが、道遠しだろうな。

★ニューヨークでの「知識人」とは「どんな課題があたえられても二分間の準備で十五分のまとまったはなしができること」であった

まだ風穴を探している②

2016年05月10日 | 読書
 『学校でしなやかに生きるということ』(石川晋 フェミックス)

 内容として一番唸ったのは、Facebookにも公開したという学級通信だった。

 「大切なことは面倒くさい…集団的自衛権のこと」と題されたその中身にはしっかりした思想があり、主権者としての私達がけして忘れてはいけない姿勢が見える。

 ★結果として憲法が改正されてもされなくても、集団的自衛権の行使の幅が広がっても狭まっても構いません。面倒な手続きを丁寧に踏んだ結果なら、それでいいのです。面倒なことを省略してものごとを進めてしまおうとする態度が見え隠れすることに危機感を持っているのです。


 憲法の条文に対する賛否以上に大切なのは、その過程であり、問題への向き合いであることは、法治国家としての礎でもある。
 それは教育の場に直接当てはまることとも言えよう。

 つまり「話し合いによる解決」「手続きを踏んだ決定」を繰り返し経験し、構成員の意思が反映(もしくは配慮)された筋道をつくる力をつけることは、学びとして必須なのである。

 日常の教育活動に照らし合わせる前に、学校教育を取り巻く社会状況がそうなっているか、現場における職員会議、仕事の進め方はどうなのか、が大きく問われることは言うまでもない。

 限定された地域で働いた者としては、大局的に評価することは避けるが、少なくとも自分の周りでは「効率至上主義」「横並び文化」が横行してきたことは否めない。


 この著書の中で、私が最も重く受け止めた言葉は「自己検閲」だった。

 日に日に(見えない)制度化を強めていく学校という現場の中で、自分がキャリアを変えながら歩んできた道は、正直にいえば、自己検閲を拡大させていった歴史だ。
 危機感や反発する心は持っていたし、細やかな抵抗もいくつかはしてきたつもりだが、結局のところ強い流れに藁を差すような程度だったろう。
 時々思い出したようにその息苦しさを吐露してみたり、何か別の観点に置き換えてどこかに正当性を見出そうとしたりしたことも、苦く込み上げてくる。


 さて、著者の下地はずばり何だろうか…思い浮かぶことは「信頼」という二文字である。
 引用した学級通信に書かれた文章を、一番底で支えている感情はそれだと思う。

 その点については生徒に対しても、同僚に対しても一貫している。
 きっと初任の頃の酷い学級崩壊の場であっても現在であっても、職場にあってもネットワークを通じた交流であっても違いがないだろう。

 そしておそらく、それを貫く過程で失望したり、傍からみれば裏切られたりしたことも少なくないように思われる。
 失礼を承知で書けば、傷つきつつもそれらを消化してしまった強さこそ、しなやかさの源となり、したたかさの動力となり得ているのではないか。それはまた、自分自身に向けての信頼と言ってもいいかもしれない。

 だから、単純な「修業」論として以下の文章を読むことは難しいと思う。

 ★いまに至るまで話しつづけ、書きつづけ、読みつづけ、その結果として、起こる考え方や実践の変化を大切にして仕事をするということが、自分のルーティンになるまで繰り返してきた。


 若い方々に、今の自分と照らし合わせて読んでほしい一冊だと思った。

まだ風穴を探している

2016年05月09日 | 読書
 『学校でしなやかに生きるということ』(石川晋 フェミックス)

 現役を退き多くの教育書を処分したのに、ネットを見ていてこの著書の発刊を知りつい注文しようとしている自分にはっと気づき、なんとなく苦笑いしてしまった。
 でも読みたいんだよなと心を確かめて、ポチッとクリックしたのだった。

 この本に書かれているいくつかのことは、著者のブログ愛読者として知ってはいた。
 しかし、それがまた書籍となって在ることは意味が強くなっていると感じる。

 一昨年に研修会に招いたとき、ずいぶんとたくさん思いや考えを聴くことができた。
 それらを改めて反芻できた気がするし、共感、納得できる部分が今もって大きいことに、ここしばらく石川晋という実践者に注目し続けた自分の歩みを振り返させられたようにも感ずる。

 一昨年夏、こんなメモを残していた。

 「風穴を探す旅のような」

 まったく思いは変わらない。


 この著を読むには、まず「しなやかに生きる」というイメージをどのようにとらえるか、また意味づけをどのレベルで行えるかが問われる。

 私は、学校がダブルバインド(二重拘束)のような状態に置かれているということをよく職員に話していたが、それは著者の次のような認識と結びつく。

★「総論賛成。でも各論にはすべからく反対」を支える「制度化」してしまった「学校」という場所(しかも多くの人が制度化してしまっていることに無自覚なのだ)で、さて、どうやって生き残っていけるのか…。


 この本には、そのための「工夫」と「しなやかな抵抗」が著されている。
 しかし、それらを読み取ったとしても、現実に何かを働かせることのプラスにはならないだろう。

 支える下地(思想といってもいい)が養われていない限り、力になり得ないからだ。

 では、下地とは何か…。

 結局「風穴」を開けた感覚を持てないまま職を退いた今ではあるが、外からチョンチョンと突っつくことも有りかな、そんな気持ちで少し書き散らしてみる。(あすへ)

箱に詰め込んだ本の行方

2016年05月06日 | 雑記帳
 前回の書籍整理から約一ヶ月、第二弾は教育関係書以外の本に手をつけた。今回は大雑把に半数ほどに減らしたいと考えた。選考基準は、もう一度読み直す可能性があるかどうかだ。その判断も微妙に二つに分かれる。単純にもう一度読みたい気持ちが残っているか、あるいは必要になるかもしれないという思いだ。


 必要の可能性が残るのは「書」「写真」「短歌、俳句」などの系統、それから地元出版本などである。「書」など仕事上のこととは別に、素人の趣味として気まぐれになりながらも続けてきた。いずれもたいした実力を身に付けられなかったが、これからでもやりだしたらモノになるかも、と色気が残っているのだろうか。


 それにしても整理下手や健忘症?を、今回の大整理でも思い知らされた。まずは2冊購入している本が目立つ。単行本と文庫、新書という版型が違うだけでなく、まったく同じ体裁もあるのだ。さらに談志のDVDブックなど開けていない本があるのは、いったいどういうことだ。少し鑑賞に浸れる嬉しさもあるにはあるが…。


 今回ブックオフオンラインに送るのは7箱。まあ、簡単に処分するよりはリサイクルできるのならしてほしいし、ほんの少しは買い取ってもらえるだろう。その送った本が店頭に並び、自分がまた108円で買ってしまうのではないかと怖れをちょっと感じてしまったことも笑える。そんな事態が起こるのは幸せか否か。


 読んだ記憶がありまた読みたくなるなら、描かれている世界や文章に魅力があることだから文句はない。しかし読んだことを忘れ、また手にするというのであれば、結局のところ著者や題名などに惹かれて買ったが、中身の失念だから残念なことだろう。いや、何度も繰り返し出合うのは因縁のような気もしてきた。

『考える人』から考える③

2016年05月05日 | 読書
 『考える人』2016春号

 特集以外の記事は連載がほとんどで、最終回であったり、新連載であったり、確かに一つの区切りになる号である。

 糸井重里が「いまさらだけど、マンガっていいなあ」という連載を始めた。
 その発端が「ほぼ日」にも載っていて、そこが結局のところ今号を買ったきっかけとも言える。

 ここで糸井が語っているのは、『インターネット的』で強調したことのいい実例なのだと思う。

★「おれ、歌うよ」って言ったやつの歌がうまければ、聴く人が現れるっていうことを、この人たちはパッと証明しちゃった。(中略)表現する人とそれを受け止める人をつなげるのは、ものすごく簡単になった。

 もちろん、取り上げたマンガの「スゴイ表現」の持つ起爆力のようなポイントを、上手に取り上げながら文章を進めている。

 マンガという表現方法の隆興が意味することを考えるのは、この国の文化を考えるには適しているのだと思う。
 そんなに多く読んでいるわけではないが、ちょっと幅を広げて読んでみたい気にさせられた。


 「故郷」と題した是枝裕和のエッセイは、公開前の映画『海よりもまだ深く』の内容をきっかけにしながら、取材で訪れた石巻の風景がズームアップされた形で語られている。
 
 さすがに「風景」のもつ意味、「時間」がもつ重みのようなことを的確に描いている文章だと思った。


 一番面白かったのは、連載最終回という高野秀行の「謎のアジア納豆」だった。
 アジア各地の納豆を探る旅の終わりは「岩手県西和賀町」。
 幻とされる「雪納豆」について取材した文章はとても興味深かった。

 ただそれ以上に、冒険的なノンフィクションの作家である高野が、真冬のその町を最初に訪れた感慨「よくこんなところに人間が生活しているよな…」と書いたことが、心に響く。

 自分たちも似たような環境にいる。
 その表現がやや過剰なレトリックだとしても、やはり都会からみるとそうした位置づけにあることは現実なのだ。

 しかしだからこそ、逆に独特のものを作り出す要素があるのではないか、と気づいた。

 「雪納豆」、そしてもう一つ地元で作り続けられている「菓子箱納豆」の、製造の過程は、伝統的ではあるが神秘的なものではなく、かなり現代的な要素が見られる。
 これを、高野はこう表現した。

★昔の手作り納豆のよさと現代の科学技術を駆使した納豆のハイブリッド

 そして、その両者は「ベスト・オブ・納豆」だと言い切っている。
 
 豪雪地、過疎地にあったからこそ出来上がった背景があるとすれば、「ハイブリッド」という発想を持つことによって、いくらでも強みに変えられるという一つの好例であろう。


 これら以外にも、安藤忠雄の大阪の桜植えの話、尾道で若者がチョコレート工場を建てたことなどなど面白く読めた。
 あと、連載「牛でいきましょう」の宮沢章夫は、相変わらずの文体で、あまり進歩がないと思った(笑)。