すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

「たのしい授業」をつくる発想

2015年01月21日 | 読書
 【2015読了】11冊目 ★★
 『子どもの学力 教師の学力』(板倉聖宣 仮説社)

 講演や雑誌原稿などを加筆修正してまとめた本である。
 著者の独特な視点からの学力論、授業論が展開されている。

 シンプルだけれども、いやシンプルゆえにと言うべきか、冒頭の「学力と意欲の関係について」という章は考えさせられる。
 次の二つの式を提示し、どちらが正しいか、成り立つか問いかける。

 <学校教育の成果>=<学力>+<意欲> …(1)
 <学校教育の成果>=<学力>×<意欲> …(2)


 筆者は「(2)式が正しいに決まっていると思う」と書く。
 私達現場教員は、正直なところどうだろうか。
 (2)の正統性を認めても、単純に割り切れない部分は抱えているだろう。
 むろん、筆者もこの二つの式だけで、学力と意欲の関係が決まるとは考えていない。三つ目の式が出てくる。

 <意欲>=α×<学力> …(3) 
 (αは<意欲/学力>係数)


 初めは学習意欲がなくとも学力がついてくるとやる気が出てくることは当然あるし、暗記など受験のための勉強によって意欲が高まる例もあることは否定できない、としている。

 しかし、それらは結局のところ、一部の人にだけ通用することで、いわば競争的、外発的な意欲付けには限界があるとしている。
 それは筆者が長い間追求しつづける「たのしい授業」への道を考えるうえで、ごく当然なのかもしれない。

 著者の子どもの頃のエピソードが実に「らしい」気がする。
 小学校高学年のあたりから強く確信してきたこととして挙げている下のことばが、著者の科学の芽ぶきに結びつくような気がした。

 ◇「学問というもの、学校で勉強する知識というものは、どうも人をバカにする能力を身につけるためのものだ」

 そして、中学では試験の前に試験勉強することを、「すごい悪い行為」だと強く思うようになる。この本質的な考えは、何か久しぶりに目にした気もする。

 ◇試験というものは、実力を試すものだと思っていました。だから「試験があるから、あわてて覚えて、はき出して、忘れる」というのは、これはそうとう悪い。…泥棒に匹敵する。カンニング以上に悪い

 この部分は講演記なので、観衆の沸いた様子も想像できる。
 いずれ、この言葉にある信念が科学へ向かう一つの芯になっているだろう。

 その著者が、最終章で書く「授業科学の基礎学力」についての持論は、非常に刺激的であった。

 著者の代名詞ともいうべき仮説実験授業をつくっていくうえでのエッセンスが、三つの「基礎学力」それは教師の学力という形で提示される。
 ポイントを示せば、以下のようになる。

 ◇子どもの気持ちが分かる

 ◇興味・関心を呼びおこす

 ◇何を教えるかを考える


 どれも至極ふつうのことのように思えるが、これらから仮説実験授業の授業書の発想(教材、問題、選択肢、お話、感想文等々)が生まれていることを考えたとき、自分の授業行為の整合性というものを考えざるを得なくなるだろう。

封じ込められなかった日々

2015年01月20日 | 雑記帳
 小学校の学級卒業文集を読んだら、その隣にあった中学の文集も読まねばなるまい。ということはないのだが、手が出るのは自然だろう。あれほど酷かった文章力は、中学3年でどれほど上達したものか。それから、その時代の風はどんなふうに流れたのか、興味が湧いてくる。学年の卒業文集「馬音川」を開いた。


 いやあ、残念というか当然と言おうか、平凡な伸びしか示していない。自分は「『勇気』について考える」と題したやたらと肩に力の入った文章を書いていた。学習雑誌の「読者の広場」欄の意見に触発されて愚にもつかぬ論を展開している。なあんだ、今と同じか…ぐっと寂しい気持ちになったが、それもまた人生だ(笑)。


 さて他の奴らはどんなことを書いているのか。同じ組のS子が「先生とわたしたち」と題して、教師の「ムジュン」について書いている。内容は、間食できない生徒、職員室で飲み食いしている教師という、実に些末なかつ切実な問題を取り上げ、「平等さがほしい」と当時の中学生らしく直球勝負で書き殴っていた。


 感心したのは、その直球を全て載せる学校文化があったこと。昨今の中学の文集には仮にあったとしても過程の問題として扱われ、予定調和的な結びになることは目に見える。思い出せば、弁論大会にもその文化があった。『自由と規律』という題で一学年上のKさんが束縛?された現状を訴えたとき、私は震えたものだ。


 今より封建的で威圧的な学校教育だった。しかし、生徒の声に対する寛容さもあったし、その表面化について躊躇がないことは「民主主義」への希求がその根本にあったから…という結論は早急か。声を出しても無駄、本音と建前の使い分け、周囲に対する影響への配慮、そんなふうに封じ込めてきたのではなかったか。


 それにしても文章の書き様をみると、あまりにも幼く、精神発達レベルが疑われる。Y夫も教師への反抗を書いたが、めちゃくちゃな文体だ。「先生はいつも、『生活態度が悪いから、成績が上がらない』とおっしゃいます。『そんなことがあるか。何かあれば生活態度、生活態度』と思ったもんだ」。なんだこれは、漫才か。


 文才があるような者もいた。女子に多いのは世の倣いか。男は自分がそうだったように概念的で形式的だ。幼馴染でもあるS子は、マラソン大会を振り返ってこんなふうに結んだ。「どれもみなたいしたことではないけれど、いつまでも覚えていて、時々フッと思いだすような、そんな大事な日だったような気がする」

雪は強い味方だった

2015年01月19日 | 読書
 我が文集から湧いてくる思い出。今は昔。「二階の窓から飛び降りられるか」、積もった雪面へ。六年生の度胸試しが続いた。今ならすぐに呼び出され、説教だ。まあ今時そんなことをする子はいないか。遊び道具、遊びの場に飢えていたような昔の子どもにとって、雪は強い強い味方だった。絶好のフィールドだった。


 「どふら」…雪を掘ってつくった「落とし穴」をそう呼んでいた。テレビ番組でやるドッキリのようなことを、平気で仕掛けて笑っていた。むろん自分もひっかかったときがある。それも今なら危険な遊びなのだろうなあ。落とし穴に引っかかって雪まみれになっても、「いじめ」とも「いじわる」とも思わなかった。


 ちなみに方言辞典『秋田のことば』には「どふら」という見出しはなかった。「どふり」と書かれてある。「『どふら』山形」とあるので、県南部としては考えられる訛である。解説が面白い。「落とし穴に落ちた様子を擬態語で言ったもの」ほおっ、そうだとしたら「ふり」より「ふら」の方が優しい感じがして素敵?だ。


 もう一つ、忘れられないのは「雪玉割り」。雪玉を徹底的に堅くして、それをぶつけ合って堅さを競うものである。水分を吸い取り!雪面を踏みつけて堅くしたものに擦りつけて大きくしていく。いかにも勝負という雰囲気があった。勝ち抜いた堅い雪玉があれば、取っておきたい気持ちになるほどの優越感に浸った。


 小学生の頃は、そりすべり、竹スキーが家の前の道路でやれる時代だった。想うと、自然の脅威や危険はあったけれど、人為的な危険がはるかに少なかったわけだ。便利なモノ、コトを求めたゆえに危険度が増している現実…わかってはいたが、それが生物としての人間を弱めていて、ナンダカナアと言いたくなる。

普通と中道と旅情と

2015年01月18日 | 読書
 【2015読了】9冊目 ★★
 『なっちゃんの家』(あんばいこう  女子パウロ会)

 交通事故によって重い障害をもった子を「語り部」に仕立てた形で書かれている。その子と母親,そして家族の歩んだ道,それは特殊であるようで特殊ではない。各地に似たような境遇の人もいるだろう。それゆえ,ほんの少しではあるが登場してきたA子さんの例は実に哀れだ。周囲の無理解が不幸を膨らませた例だ。主人公が背負ったものとの違いは何か。

 母親の言葉として最後に語られたことは深いなあ。障害を持った人たちと長く深く接した者でなければ感じ得ない感覚か。相手のわずかな表情の動きも自分の心に取り込めるということ,つまり「幸せって,見つけようとしなければ見えないものなのよ。そこらに転がってるもんじゃない」…普通と思われている暮らしを,普通に過ごしたところで見えてこない。


 【2015読了】10冊目 ★★
 『健康問答』(五木寛之・帯津良一  平凡社)

 五木寛之という大作家に対して「健康オタク」という形容は失礼なのだろうが,結構関連した本を出しているはずだ。「はじめに」で健康法は「これ一つ」ではいけないとする中で,「中道」について書いている文章がとても素敵だ。長いが引用する。

 ◇中道とは,右と左のちょうど中間ということではない。(略)どちらの要素も少しずつとり入れる,という折衷主義でもない。右へぶれ,左へぶれしながらも,最終の針路は一定である,といった進み方が中道だ。いうなればスイングする生き方,とでもいおうか。

 まさに我が人生などと言いたい気もするが,それではあまりに格好つけすぎている(問題は針路なのだ)。
 
 さて,この本は,健康に関する中道主義の本といっていいだろう。様々な治療法,健康法,民間療法に関して語らいながら,妄信的にならないように警告している。下に引用する「医者の結論」だけを読むと,ある面でどうにもいい加減な印象のように感じるかもしれない。しかし,いわゆる「養生」とは何かを突き詰めていくと,結果的にそうしかならないのである。

 ◇最終的に信頼できるのは,自分の直感(観)である。それを磨くのが大事である。

 帯津医師が,あとがきに書かれているなかに,その具体的な心がけがあると思った。「養生」といえば,やや安静的なイメージがつきまとうが,氏が提唱するのは「積極的で攻めの養生」なのだ。そしてこの一句にも惹かれる。「旅情こそ養生の核心」。ここではやや哲学的に広く解釈されているが,具体的な「旅」ということは大いなるヒントかもしれないと感じた。

「あすなろ」の時代の教育

2015年01月17日 | 雑記帳
 学校文集の巻頭言を書くための材料にしようと,自分が小学生の頃の文集を書棚の奥から引っ張り出してみた。「卒業記念文集 あすなろ」と題された古く粗末な冊子しか残っていない。それより下の学年で作った記憶もないし,まして全校文集など作る時代や環境ではなかったと思うので,これが唯一のものである。


 学年4学級だったが,学級単独で作られた。人数は35名。わずか50ページの中に,「思い出の記」「修学旅行」「将来の希望」「詩」「寄せ書き」と多い子は5編も載っている。その質は思わず赤面するほどだし,編集委員(自分もそうだった)によるガリ版製作であり,ちょっと無残な感じもするが,同時に愛着もわく。


 実は文集の題名を決めるときのことを今でも覚えている。学級会で話し合って決めるということで,いくつかの意見が出て候補が絞られた。自分の出した「雑草」というタイトルが,一番たくさんの支持を得たのだった。添えた絵の図柄も思い出せる。ところがそこに教師の強烈な一言が…「雑草なんて,貧乏くさい」


 いわば教師主導で「あすなろ」に決まったわけだが,生意気盛りを迎えていた自分は,その決め方にはずいぶんと腹を立てた。今でも心に残っていることがその証拠であろう。今改めて考えてみると,当時(昭43)で「雑草」のイメージは古臭くなりつつあり,やはり「あすなろ」の時代に入っていたのかもしれない。


 「思い出の記」は実に正直に当時の状況が書かれている。自分は,教師の勘違いによって廊下に立たされたことの腹立たしさを綴っている(同じことを書いた者数名)。ある女の子は2年生の時,授業中にトイレに行かせてくれと教師に頼んだら、おでこにマジックで×印をつけられたと書いている。もはや驚きである。


 私もその一員だったが,教科書をうまく読めずに屋外に出された数人の男子が,傘で遊んで壊してしまい,教師に怒られ数時間町を放浪?する話は,まるで小説のようだ。11月の雪が降る日だったと書いている。こわれた傘を直すために小学生が日中に校外をぶらぶら歩いているなんて,昭和の教育はなんて素敵なんだ。

かなり面白いかもしれない

2015年01月16日 | 読書
 三学期の読み聞かせは何にしようかと考えていて、ネット上で評判の『りんごかもしれない』 『ぼくのニセモノをつくるには』のヨシタケシンスケの絵本を注文した。ずいぶん売れているようで、奥付を見ると『りんご』は13年4月発刊で33刷、『ぼくの』は去年9月発刊でもう5刷である。確かにこりゃあ面白い。


 ぜひ紹介したいと思ったが、この体裁は読み聞かせはとても難しいなあ。パソコン取り込みで拡大提示がいいだろうなあ、と思いつつ、ちょっと時間がかかりそうだ。ひとまず来週月曜には無理のようだ。ある程度まとまった準備ができそうな時にすることにして…。初めて読むヨシタケ作品の感想をメモしておこう。


 『りんご』と『ぼくの』には、明確な共通点がある。つまり、拡散的思考を促す、多面的、複眼的と言い換えてもいいだろう。その繰り返しと突っ込みが醍醐味である。思考がだんだんと深くなってくる流れを作っていて、それでいてほんわかした緩いパターンも取り入れている。最後のオチも見事に考えられている。


 この二冊の対象物は、対比的か。「りんご」と「ぼく」。植物と動物なんていう比較もできるが、そこは本質ではない。自分以外の物質と自分そのもの。二つとも、内部と外部の双方向へ意識を働かせるが、「りんご」は外部が多いし、「ぼく」は内部が中心である。色調が赤と緑であることはすぐわかる。子は黄色い服だ。


 子どもによって、どの場面が好きかいろいろ分かれるだろうなあ。ユーモラスな絵だし、様々な箇所に手が挙がるだろう。実は深い言葉もたくさんあって、一つずつ引用しておこう。

 ◇ここに くるまで いろんな ばしょで いろんな ものを みてきたのかもしれない。(りんご)

 ◇木の おおきさとかは どうでもよくて じぶんの木を 気にいっているかどうかが いちばん だいじらしい。(ぼくは)

 絵本を紹介してから、付録?のシートに、それぞれの想像を描かせても、面白いかもしれない。

「知的」とは想像力と敬意

2015年01月15日 | 読書
 【2015読了】8冊目 ★★
 『知的な距離感』(前田知洋  かんき出版)

 著者はマジシャン。ただしマジックのことを書いている本ではない。ふと思い出したのはメイクのプロである岡野宏氏の著した『一流の顔』。そこで語られた独自の視点からの「顔」解釈は面白かった。この本の著者は人と人との距離感に関して、実にユニークな、それでいて納得できる見解を示している。副題は「プライベートエリア・・・魔法の効果」である。


 距離感について、上條晴夫先生から刺激をうけ何度かブログ(  )にも記したことがある。その学びを「プライベートエリア」という言葉を用いて解釈することもできるだろう。実に細分化された、多面的な分析がある。たとえば、個人のエリアは普通「前方に広く、横や後ろに狭い」という認識も新鮮だった。そうすれば、立ち方一つで印象は変わる。


 プレゼンなどの立ち位置についての記述も考えさせられた。「理想のプレゼン」の原則は、「出席者の右側(上手)から登場し、スクリーンが中央にあるなら、その左側(下手)に立ちます」とある。さっそく、始業式の挨拶時に「羊」のことを話すプレゼンをしたので意識してみた。左から右へという方向に聴衆の目が移っていくことが基本と覚えておくといい。


 距離感にわずらわされないのが電話やメールだが、そこでも距離感への気遣いは変わらないと著者は書く。相手が見えないゆえに「親しさ」を計れないこと、第三者が読む可能性も踏まえることが大切だ。敬称の付け方や「現実に会った場合と変わらないよう」な距離感覚の詰め方に配慮することだという。結局は相手への想像力と敬意と結論づけていいようだ。


 プライベートエリアの大きな働きの一つは「防衛」。「将来的に起こる可能性についての防御」という表現もある。それはコミュニケーションをとる際の態勢、説明する時の手の高さや手のひらの向き、視線、表情…全てに関わる。そこに「見えないガラス」があることを意識できるかどうか、内部と外部の違いに想いを馳せられるかが、「知的」の意味と言えよう。

タンマって言っただろ

2015年01月14日 | 雑記帳
 懐かしいなあ、使わなくなってから何十年経つのだろうと思った言葉があった。「たんま」。ちょっと待って、という意味である。遊びのときが中心だったが、友達同士であれば、いろいろな場で使われていたような気がする。ちなみに広辞苑では「(児童語)遊戯の中断。タイム」と記されている。他辞典に見出しはない。


 ちょっと変なことばである。検索してみると、語源についての諸説があってなかなか面白い。質問箱のベストアンサーが体操競技由来(使われる滑り止めの名称から)となっているが、それ以外の英語の「Time」の訛り、「待った」という言葉をひっくり返した隠語的な使用などの方が納得いくような気がするなあ。


 それにしても何ゆえ死語化してしまったか。思いつくままに書き出してみると、まず「子ども同士の遊びの変化」があるだろう。テレビゲームなどが代表的であり、相互のコミュニケーションがあまりない内容へ変わったからではないか。また、中断を簡単に許さない世相?さらに隠語的ものの広がりにくさがあるか。


 愛用の「類語辞典」を開くと、「たんま」は「遮る」という動詞の仲間である。小区分は「その他」であり、ここには四つある。「どっこい」「待った」「タイム」「たんま」である。「どっこい」はへえぇぇである。そういえば「おっと、どっこい~~」がある。そう考えると、調子のよい言葉遣いの衰退も目立ってきている。


 「たんま」は一つのルールだった気がする。そこまでいかなくともみんな共通理解していたことだった。「寛容」という言葉の意味を知らなくとも、多少は待ってやる世間がそこにあったことだろう。遊びは何度も繰り返され、一人勝ちなどはほんとに珍しいことだった。「たんま」ができる場がもっと大事にされていい。

日本の大問題だったか

2015年01月13日 | 雑記帳
 いつもの書店,店先にある週刊誌コーナー,いつも一瞥し特に手を伸ばすことはないのだが,今回ある一冊に目がとまり,買い求めてしまった。「AERA」(朝日新聞出版)。一年に1回ぐらい買う時があるかもしれない。今回は表紙買いである。絵,特別編集長,そしてなんともシンプルな特集名。これで雑誌が出来るか。

 その表紙です→http://publications.asahi.com/ecs/tool/cover_image/?image=16606.jpg

 「小山薫堂」自体がもはやブランドとなっているので,そのことは大朝日も十分意図しているのだろう。絵の方はどこかで見かけたタッチではあるが,このセンスはビビッとくるものがある。セルジュ・ブロックという方らしい。つくづく人間とは,緩やかに乱れている線や形に意味を見出すものだと思ったりする。


 冒頭のエッセイは,よしもとばななが「小さな声」と題して綴っている。この題名そのものが「やさしさ」へのキーワードになっていて,改めて考えさせられる出来事や考えが多く詰まっている文章だった。「『ゆずる』感じ」「そのままさ」「損は徳の貯金だと思う」「照れている感じ」…そこに父の声も重なっている。


 「やさしさは価値を生む」と題して,長短あるが40の記事が並ぶ。冒頭の「リレーショナルアート」の発想に驚いた。美術館への来場者は一輪のガーベラを持って帰ることができる。ただし,帰り道はルートを変え,途中で見知らぬ人にその花を渡すことが課せられる。求められるのは勇気?想像力?寛容さ?なのか。


 チンパンジー研究で著名な松沢教授に取材した話が興味深い。「ある性質を持ったものがより多く子孫を残すチャンスがあれば,その性質を持った個体が増える」…唐突だが,この国でヒトという個体が増えなくなった訳は,もしかしたらある性質が拡がらないからではと妄想する。それはもちろん「やさしさ」である。

たましいの場所で歌う声

2015年01月12日 | 読書
 【2015読了】7冊目 ★★
 『たましいの場所』(早川義夫 ちくま文庫)

 早川義夫のアルバムを1枚だけ持っている。タイトルは恥ずかしながら「恥ずかしい僕の人生」。時々,無性に聴きたくなるときがある。場面は限定される。一人で車を運転している時が多いが,バックグラウンドミュージックとは言えない。聴いていてホコッとしたり,ジーンときたりする類いのものではない。むしろ,暗く重く沈んでいく。その心地よさもある。


 この本も同様。遠目には,自分のダメ加減についてこれでもかと繰り返しているに過ぎないかもしれない。しかし著者自身が,こう書くように人間の底とはそんなものではない。「そこまで露出する必要はないじゃないかと思うかも知れないが,まだまだ,僕は本当のことは,ちっとも言っていない」。この本が必要でない人は多いだろうが,渇望する人は確かにいる。


 多くのページの端を折った。

 ◇あなたが一流で,私が三流なのではない。あなたの中に一流と三流があり,私の中に一流と三流があるのだ。

 ◇思想も芸術も猥褻も,それらは,すべて,本の中にあるのではなく,人の心の中や生活の中にあるだけだ。

 ◇ビートルズを知るためにビートルズを聴くのではない。自分を知るためにビートルズを聴くのだ。聴こえてくる音楽から自分を映し出すことが音楽なのだ。

 ◇神様は,自分のことを「私は神様です」とは,たぶんおっしゃらない。

 ◇音楽を手段としてではなく,音楽を目的としている人だけが,悲しみを表現できる。



 まだあるが,改めて引用して写すと,言いたいことはシンプルだなと感じる。最後には「本屋の店主」を長く続けた著者の,気にいった本の紹介コーナーのような章が置かれている。いくらか似たような本を読んでいることが嬉しいような,不思議なような…。そしてこの章の題名こそが,このような本の読者,つまり自分らの正体であることを見事に指摘される。

 ◇僕は僕を知りたくて本を読む