すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

完走した気分で365日

2014年08月21日 | 雑記帳
 1年間ノンストップで書けるものかどうか試そうと思ったのはいつだったのか。とにかく,2013年8月21日,クドカンの文庫本の感想を書いてから365日。昨日がひとまずのゴールである。完走することができた。もちろん,二,三度書き溜めてアップしたことがある。そのくらいは大目にみながら,自分を褒めよう。


 もともとは読書記録からスタートしたのだったが,毎日一冊読了することも出来ず,結局身辺雑記が増えてきた。ただ努めて日記とは違うスタイルを心がけた(と言いながら実はアナログ日記はサボりが多い)。「書きたいことがあるから書く」のだろうが,続けるという目標の前でその意識はちょっと断片化する。


 そんな曖昧な中身でアップしていても,訪問していただける人が連日100~200おり,ある日1000を越えた時にはびっくりした。「継続は力なり」とは言うが,何の「力」なのか。「継続は継続する力をぎりぎり維持できた」という程度だろう。じゃあ次のステップへと思うが,今は大きく舵をきるときではない。


 そんなことで,しばらくは今までのように読書記録を中心に続けてみようと思う。ただ頻度は少し下がるか。来週からは勤務校のブログにも手をつけることにした。これも4校目でありマンネリ傾向もあるので,何かしら独自の工夫をしたい。継続を優先課題とし,多様なパターンを試すことも一つの目標にしよう。


 同じく昨日,ここ3年ほどの記録集約が完成。印刷屋さんに製本だけを依頼し,仕上がった。「すぷりんぐ第7集」…わずかな冊数だが知り合いに送付している。今回は正直,前の2集よりも手抜きしているなあと自分で感じている。まあ,そういう無様なことも曝しておく。それがそもそもの心がけであったから。

私の作文教育の現在

2014年08月20日 | 読書
 「2014読了」83冊目 ★★★★

 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)

 ゆっくり読むシリーズ5回目。一応,ここでピリオドを打つ。
 結局私ごときに本質を読みきれるものではない。
 というか,改めて自分に根気がないことがわかった。
 それだけでも収穫か。

 第6章に,そんな性向をあざ笑うかのような表現がある。

 P128
 問題は(前記の千葉大学の場合のように,)「問題だ」と思うから「問題」として生じるのである。問題が有るとは思わず,のんびり過ごしていれば,問題は無いことになる。問題とは観念的なものである。



 「問題だ」と思ったから,拙いなりに「作文」を綴ってきた。
 しかし肝心なのは,その持続なのある。「気づき」を掘り下げて進むことが「作文」である。
 次の文章に示されている。

 P179
 作文とは,「考えたことを書く」ことだと思っているのではないだろうか。それは迷信である。正しくは,「書くことによって考える」のである。



 堪え性のない者は,途中で問題をつかみ損ねて,このように無様にリタイアしてしまう。

 それはさておき,つまり,「書き方」は「考え方」であると言ってよい。
 この場合の「書き方」とは多くの段階に当てはまることである。
 「場」「頻度」「文体」「構成」…そして筆記具や用紙まで及ぶのかもしれない。

 パソコン使用も含めた自分の「書く」行動を振り返り,頻繁に出てくる文章表現の悪い癖を反省しながら,そこに表出される考えだけはしっかり頭に留めておきたい。
 それぐらいが自分に出来ることだろう。



 もう一点,著者だけでなく,引用された池田久美子氏もずばり斬った「予想」という語の誤用について書いておきたい。

 教室では,過去の話を予想させることがはびこっていると指摘がある。
 歴史の授業しかり,ある出来事のやりとりしかり,そう言われれば頷ける。
 (ただし理科の実験や観察の場合の予想は,正当と言えるだろう)

 著者はこう書く。

 「予」とは「あらかじめ」なのである。過去のことを予め考えることはできない。


 「想像」とか「想定」ならばいいという。
 それがなぜ「予想」だったかと言えば,きっとこれは「過去の出来事」を対象とするのではなく,まだその場に提示していない「教師の答」に対するものではなかろうか。

 授業の形にも歴史があり,教師が知識伝達者,価値伝達者として役目を果たしていた時代の名残りなのではないか。
 「予想」という「教室方言」「教室語」が生まれてくる背景は確かにあり,一定の成果はあったことは認めよう。

 そして今,それを乗り越えたところに,教育の一つの変化が生まれている気がする。

 そんなことを「作文」してみた。

漂っている自分こそ本当

2014年08月19日 | 読書
 「2014読了」82冊目 ★★

 『人生20年説』(森 毅 イースト・プレス)


 2年ほど前に読んだ齋藤孝氏の『最強の人生時間術』という新書に,ヒンドゥー教の「四住期」という教えが書かれてあった。
 そうした処世術も大切だと感じるようになったのは,いかにも齢をとった証拠か。

 その印象を思い起こしつつ,あっ久しぶりだなと森毅氏の著書を手にとったら,そこには相変わらずの森ワールドが広がっていた。
 といっても,この本は90年代前半の発刊である。

 伊藤雄之助似(笑)の風貌に実にマッチしている緩い語り口なのだが,その実ずばりと本質を突く警句があって,どきりとさせられる。

 子育ての不安を感じる母親に「先生の子育てはいかがでしたか」と訊かれて,即座にこう答えたと書かれてある。

 「そんなもん,失敗に決まっているやろ。子育ては原理的に失敗するもんや」


 痛快である。続けてこう書いてある。

 しかし,子育てに失敗も成功もない。うまくいった子育ては,うまくいったこと自体が失敗みたいなものだ。

 
 親や大人のイメージがつくりあげる成功・失敗の概念が揺さぶられる。


 この文章にも深く頷く。

 理想の集団とは,いつでも気楽に仲間から外れることができて,また気楽に仲間にもどることができる集団だと思う。


 確かに,ノリのいい集団,目的に向かってまっしぐらという集団の多くは好感をもってみられる。自分もそういう意識を少なからず持っていることは確かだ。

 しかし同時に,いつも「チーム〇〇」が強調される社会全体の流れに危い空気を感じたりする。
 個性重視や一人一人の違いと言いながら,その幅が狭くなっている。
 外れた者に対する視線が冷たくなっている気がする。

 窮屈な構造をつくり上げている自分の方をもうちょっとほぐしてやる必要を本当に感じている。


 読書記録として,こんな俗なことばかり綴っている自分でもやはり続けていると,いくらか考えているのかなと思う時がある。
 それは,やはりしゃべり続けてきたからなんだと,下の文章を読み思った。
 先日読んだ『縦に書け!』とは,正反対のようだが,これもまた真実だろう。

 ぼくは子どもの頃から,自分の考えをしっかり持ちなさいとか,自分の考えをはっきり表現して人に伝えなさい,とか言われるのがものすごくいやだった。考えなんて,しゃべっているうちに出てくるもので,はじめからあるものではない。


 この本が書かれた当時には「自分探し」などという言葉はなかったはずだ。
 しかし,その頃から「本当の自分を知りたい,わかってほしい」といった傾向が強くなっていたようだ。
 あとがきが,次のような言葉で締められていて,思わず唸ってしまった。

 多くの人たちのネットワークにただよっている「自分」こそが「本当」ではないか。それ以外の,閉じた「自分」というのは幻想ではないか。

この頃見たこと,聞いたこと

2014年08月18日 | 雑記帳
 読了リストに絵本などは入れていないが,今回は新品購入でしかも2回も読んだから入れておきたい。読了80冊目★★★『ねずみ女房』(ルーマー・ゴッデン 福音館書店)。外国童話には全く縁がない自分が,何ゆえに惹かれたのか。外の世界を知らない女房殿に我を重ねたか。それとも駄目な夫ネズミの方なのか。


 先日新聞に掲載されたカヌーイスト野田知佑氏の「もっと川へ!~泳げない人ばかりの日本」という文章は,実にドスンときた。川で泳ぐどころか近づくこともままならなくなったこの国の異常さに,手をこまねいているだけの無力さを感じる。川の問題は,人間が自然から遠ざかっていく現実の象徴的な姿だと思う。


 BSのインタビュー番組で,アートディレクター佐藤可士和の回を見た。佐藤と言えば,私の永遠の課題である「整理」。企業のブランディングのために,徹底的に整理をして絞り込んでいく仕事だ。しかし意外と自身のスケジュールには無頓着であり,結局自分の姿は他人がよく見ているという大事なことがわかる。


 久々に落語のCDを買う。その中に大好きな喬太郎の話が一席。「擬宝珠」というネタである。例によって?37分中22分以上がマクラであり,ファンは十分楽しめる。改めて気づくのは喬太郎落語の視覚化。顔や身体そのものの動きはもちろんだが,音声変化によって表情を見せつける技。これは突出していると感じた。

脳や口,黙れ!という本

2014年08月17日 | 読書
 「2014読了」81冊目 ★★★

 『縦に書け!』(石川九揚 祥伝社)

 9年ぶりの再読となる。簡単なメモをこのブログに残してあった。
 
 読んだのは発刊後すぐの単行本だった。現在は新書で出ている。

 表紙裏に書かれてある出版社からの内容紹介の違いが面白い。

 私の持っている本には「警世の書」とある。
 新書には「憂国の書」とあるようだ。
 警世から憂国へ,ある意味この9年の歴史を物語っているのだろうか。


 第一章 言葉が力を失った社会

 第二章 「日本」とは「日本語」のことである

 第三章 「縦書き」こそが精神を救う


 この章の流れが骨格である。
 内容表現が重複しているような部分が気になったが,おそらくそここそが強調点なのだ。
 実に説得力のある本だと改めて思った。

 その感想をこうしてパソコンのキーボードで叩いている自分を俯瞰しながら,大事と思う箇所を二つだけ書き留めておきたい。

 「はなす」と「かく」

 人間は手である



 前者について,言うまでもなく「話す」と「書く」こと。
 その語源をたどれば,「はなす」は「離す」「放す」に通ずる。
 そして「書く」表現が通じているのは,「掻く」「欠く」であり,「描く」である。
 この違いに目をつけると,文字表現の根本とは何かを改めて考えさせられる。

 後者に関しては,「書き手」「話し手」だけでなく「働き手」そして野球守備の呼称など,人間を「手」で表していることを,学校の教室でも教わってきている。
 その意味するところは何か,もう一度深く考えざるを得ない。

 「手」を使ってどれほど意味のあることができるか,これこそが人間の本質である。
 脳や,まして口などに支配されて,動かしている手など,いかほどのものか。

 そう思っていると,次第にキーボードをたたく音も大きくなってくる。
 これでいいのだろうか。

新成人の横顔を見ながら

2014年08月16日 | 雑記帳
 昨日は三年ぶりにわが町の成人式へ。新成人が小学生の頃はもうすでに学級担任ではなかったが,名簿を見たら,そういえばと思う子がちらほら。複式解消で3年生の国語を受け持った時のわずか三名の子たちとの授業,楽しかった。面影があったので近づいて握手を求めたら,三人とも眩しい笑顔を見せてくれた。


 要項に「誓いのことば」という代表者が宣言する文面が印刷されていた。三つの点が挙げられている。もちろん主催者,行政側からの提案という形なのだろう。これは共通のものか,市町村独自なのか,ちょっと興味が湧いた。ちなみに本町は「人類平和への貢献」「選挙権の行使」そして「道徳高揚への努力」。


 記念講演は根岸均氏。本県の前教育長である。「『魚』か『つりざお』か…一人ひとりがリーダーになろう」と題されて話された。何度か講演を聴いているが,切り口として地元密着型の視点やデータの示し方にいつも教えられる。今回の,数人で並んで歩く時の自分の位置取りから始めたリーダー論も興味深かった。


 「リーダーの役目」として一番に挙げられた「『説得』する力」には得心がいった。有能なリーダーとは,氏の仰るように「いかに,さわやかに人を説得するか」を心得ている人だ。「さわやかに」という条件は絶対ではない。しかし複雑な人間関係のなかで,重要度が高くなっている。技術と人間性のミックスか。


 後半にお願いという形で,「地域理解」を重点としながら「目標設定」「運」そして「結婚」について触れられた。困難さを前提に「結婚適齢期は定まっていないけれど,出産適齢期は生物学的にある」という話をされた。あまり語られてこなかったゆえに,顕在化してきた問題点であることを改めて痛感させられた。

人格を続ける,重ねる

2014年08月15日 | 読書
 「2014読了」79冊目 ★★

 『プリズム』(百田尚樹 幻冬舎文庫)

 この小説にはいわゆる「多重人格者」が登場する。読んでいて,一体「人格」とは何かと考える。「性格」と違いを辞書で調べてみると,結局は「持続性」の問題なのかと思う。性格は「ある程度持続的な」であり,人格は「統一的・持続的」とある。人格の方が上位概念と簡単に片づけていいものか,少し迷う。


 昔はよく「二重人格」ということが悪口に使われていたような気がする。今もそうだろうか。もっと軽い言い方では「表裏がある」。しかしよく考えると大方の人間はそうだろうと思う。表裏がないように,人格は一面的に,ということが強要されるとすれば,息苦しい世の中だ。多重性は誰しも潜在的に抱えている。


 もちろん通常レベルとはかけ離れた「解離性同一性障害」。想像すると,実に怖い世界である。そういう相手に翻弄される女主人公の心の揺れが見事に表現されている。解説を書いている精神科医が作者の説明の上手さを称えている。曰く「説明の上手い人は偏差値の高い人ではなく,人間の心に精通した人である


 もし映像化するならば,この多重人格者の役は誰ができるのだろう,とドラマ好きとしてちょっと興味が湧く。かつてNHKで,多重人格者役を大竹しのぶがやったことがある。見事だった。30代ぐらいでこの演技をこなせる男優がいるのだろうか。5役ほど求められるのだ。候補は松ケン,瑛太,おおぅ堺もいい。

教師に内省を迫る本

2014年08月14日 | 読書
 「2014読了」78冊目 ★★

 『教室からの声を聞け』(多賀一郎,石川晋 黎明書房)


 1日に開催した石川さんを招いた研修会に,この本を何冊かお持ちくださっていた。
 著者価格(笑)ということもあり,あっという間に事務局周辺で売り切れた。

 夏季休暇初日に,小一時間で読了する。
 読み終えて,本当はそんなふうに簡単に読める内容ではないだろうな…と少しおかしな感情にとらわれた。

 著者の二人は,生まれも育ちも,年齢も校種も違う。そして北海道と関西という勤務してきた場所も大きく異なる。
 その二人が「教室からの声」つまり,子どもの声に真摯に耳を向けてきた自らの教職生活を照らし合わせていると言っていいだろう。

 お互いに惹かれ合うものがあったからのめぐり合いであり,それを縁にしての対談と共著であるので,当然,共通された考えがあちこちに出てくる。

 一言で表せば,教師に「内省」を迫る本と評することができる。
 少なくとも,私には,ああと思わされる言葉がいくつもあった。


 教育は結果ではない,経過なのだと教えて頂いた(多賀)


 子どもたち一人ひとりの人生の物語に思いをはせる余裕もなく,学校の理屈の代弁者として,一様な物語を強要してきたのではなかったか(石川)


 学校が理想を語らず,効率や処世だけを語るようになったら,教育は死にます(多賀)
 

 教室というものが,本来「理想の」などという言葉と最も遠く,最も遠いからこそ,豊かであるということに思い至る(石川)



 おそらく,二人は「問い」を常に発し,それを周囲に,そして自分に向けながら実践を積み重ねられてきた。
 その問いがぶれなかったのは,きっと下地にある価値観が一貫していたからのように感じる。

 その辺りの分析をすることは浅学な自分には荷が重い。
 ただ一つだけ要素として共通なのは「本」「読むこと」であることは明確だ。

 「本で語る」という言葉が使われている。
 つまり「本」を通して自分を表現していることの強靭さ,これは揺るがないだろう。

 石川さんが,先の講座で「読み聞かせ」の折に語ったことを反芻してみよう。

比較は作文のエンジン

2014年08月13日 | 読書
 『私の作文教育』(宇佐美寛 さくら社)をゆっくり読むシリーズ。パート4である。

 今回のありがたい教えはここである。

 P124
 とにかく、他の具体例をぶつけて比較することによって、考えるべき問題が見えてくる。これで作文が出来る。



 「第4章 疑問・批判」では、出口論争に関する吉田章宏氏の文章を詳細に分析、批判し、その流れを「第5章 比較」で展開させていく。
 「衝撃的な論理をできるだけ手短に言」い、それに向けられる苦情や非難に対して答えていくことが「理論」になるという。

 文言も含めてある事物に疑問がわくということは、対照的な思考や存在が意識されていることである。
 ごく単純にいえば、「やる」と「やらない」か。
 もし「やる」に対して疑問がわかないとすれば、「やらない」が意識されていないからだろう。

 しかし、作文とは「比較」の産物であり、常に対象物への対立・差異を浮かべる思考が求められているのである。

 そして、著者はこう言う。

 P117
 <比較>は、特に意識して訓練するといい。


 この著では一つの例として「男女混合名簿」が提示されていた。
 教育の現場に突きつけられている主張は結構いい訓練の対象になるようだ。

 今ばっと思いつくものを挙げると…

 ・道徳の教科化
 ・開かれた学校
 ・ICT化推進、情報管理
 ・愛国心 などなど

 どれも大きい問題であり、政治抜きには考えられない現実がある。

 ただ、まずは自分の頭で比較対象を持ちながら、細かに考えてみることが大切だ。
 どんな流れになっても、その部分を鍛えていないと、結局は非力な営みにしかならない。

 作文の必要性は実はそこにあるような気がする。

文章作法に,目を閉じて

2014年08月12日 | 読書
 「2014読了」77冊目 ★★★★

 『縦横無尽の文章レッスン』(村田喜代子 朝日文庫)

 久しぶりの四つ星本だ。面白かった。

 芥川賞作家である著者が,大学での文章講座をもとにテキストにした文章や自分の分析,学生の作品などを紹介しつつ,エッセイ風に出来事も織り込んでいる。

 テキストの最初が,小学生の作文であることが自分を惹きつけたといってもいいだろう。
 取り上げた著者の意図と考察はこうだ。

 書くべきことと書かないことを選択し,大胆かつ細心に書く。一見難しそうだが,ここで参考に出した子どもたちの文章はそれをクリアしているのだ。どうやってこの子たちはたいして悩んだ形跡もなく,するりとクリアしたのだろう。


 その結論として「生き生きと動いている心を持つ」という小学生における作文指導の肝の一つを挙げていることは,当然ではあるように見えて,大学生に対して突きつけたことはずいぶんと重い。

 解説の池内紀氏は,その点について言及している。

 小学二,三年のころが,もっとも日本語に敏感な時期であって「成長」するにつれ人間は世間知と引き換えに,驚くほど早々と言葉の知恵を失っていく。

 この見方の深度にはたどりつけなくとも,疑いもなく「成長」を世間と同調させない感性を,教師としては持ちたいものだ。


 テキスト選択のバラエティが面白く,次々に読ませられる。
 『2000年間で最大の発明は何か』というアンケートの回答集,大関松三郎の詩のいくつか,鷲田清一や竹内敏晴の身体論など…視点を変えながらも一貫していることに,観察力があることは確かだ。


 講座の後期第五週にある小見出しが,一つのまとめであるし,やはり文章作法(さくほう)の最重要事項であろう。

 対象物をじっくり見てみよう
 しかるのち,目を閉じる
 物事の本質はそれからでないと見えてこない


 しかしこの作法を,今の時流の中で実現させようとすると,いくつもいくつも見直すことが必要になる。

 結局,何を手離したらいいか。そこまでして良い文章を書きたいか。「良い文章」とは何なのか…そうやって本質に迫っていけるだけの気力,体力…

 とたんに自信がなくなっていく。


 それはともかく,第六週で紹介された『ねずみの女房』という童話があまりに面白くて,すぐに注文してしまいました。