すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

加州のピンクスリップ

2010年04月18日 | 雑記帳
 色気のあるような話ではない。

 ピンクスリップとは「解雇通知」のこと。

 NHKBSで放映されたドキュメンタリーで、カリフォルニア州での教師大量解雇が取り上げられていた。↓
 http://pid.nhk.or.jp/pid04/ProgramIntro/Show.do?pkey=001-20100410-11-28566

 さすがに?アメリカという部分と、どんな国であっても地域であっても通用する普遍的な部分とがあった気がして、目が話せなかった。

 教育のためを謳っても増税が簡単に実現するわけでなく、裕福な家の子供たちは私立学校へ集中していく。
 公立の学校は職員を減らされ、一学級の人数は増え、設備や教材にかける予算も削られ、職員間の疑心暗鬼、子供たちの荒れは増すばかりだ。
 我が子をどんな形でフォローできるか、と真剣に悩む親もいたが、多くはそこまでの余裕がある家庭ではないだろうことも予測できる。

 シュワルツネッガーの悩みははたして重いのだろうか。
 公立校へ企業からの支援を求めているという。果てしなく経済至上主義の沼へずぶずぶとはまっていくようだ。

 年度初めのある会議で「意図的な人材育成」という言葉を耳にして少し考えてしまったが、そう言えるのは基盤が安定しているからこそであり、読み書き計算というレベルで揺らいでいるところはまだまだたくさんある、と当たり前のことを思い起こさせられた。

憧れの解散宣言

2010年04月17日 | 雑記帳
 今週で、新年度に関わる会議等は一段落である。
 まだ事務処理するものは結構残っているが、本務に集中できる時間は格段に多くなるはずだ。

 様々な外部の会に出て、毎度同じような事柄を毎度同じようなメンバーで続けていくことに少し疑問やら疲労やらを覚えているのは私だけではないだろう。

 毎年「何か一つは新しいことを」と思い、それなりに提案めいたことを言ったりするのだが、実現は半分もいっているだろうか。
 そういう外部のものは流れに任せればいいと達観している方もいて、時には羨ましくも思うのだが、これも自分の性なのだから、仕方のないことだろう。

 ある組織の事前準備で、少し前話題になった「ホームレス中学生」の父親のように、「解散!」と思いきって言えたらどんなにすっきりするだろうと笑いながら話したことがあった。

 冗談ではあるが、一面では各々の心の中にあることかもしれない。しかしよくよく考えてみると、そういう心構えは傲慢さにつながるのかもしれない。

 解散したら、何が出来るというのか。
 解散した一人一人が、各々の場で組織に関わらない分だけ大きな力を発揮できるというのか。
 何かもっと建設的な新しい組織を作れるとでもいうのか。
 それだけのエネルギーがあるならば、組織改革など容易いことではないかとも思うのである。

 「いろいろなしがらみが…」という言い訳は、やはり自分自身の意欲の低さの裏返しに過ぎない。
 やっぱりこの会では駄目だ、と断言できるほどのことは、何一つやっていないと気づく。
 そして、この会で得られたことは結構多かったなあと振り返ってみて、しみじみ思うのである。

 そんなふうにして、今年も頑張らねばと心を奮い立たせてみる。

 と書いてみましたが、何やらどこぞの政党のような気もしてきました。きわめて日本的な心象なのでしょうね。

雑談は雑には語れない

2010年04月16日 | 読書
 少し以前に発売されたビジネス誌をみていたら「雑談力」という特集があった。
 何でも「力」をつければそれなりに感ずるものだが、ビジネスの世界では雑談が好印象につながることは多いだろうし、一つの強力な武器と言えるかもしれない。

 教育現場であれば、対象は同僚だったり子どもだったりするわけだが、その点を意識している人は少ないだろう。
 けれども現実に雑談の上手な人は、周囲に認められ、子どもにも信頼を得ているのではないか、という気がする。

 子どもに対して語る場合は、教室でのいわゆる脱線話、また休み時間におけるさりげない会話ということになるだろう。
 同僚とは実際そんなに雑談できる時間的余裕のあるところなどそうはないだろう。しかし皆無とは言えないはずだ。量的にはわずかでも毎日のように仕事以外の言葉は交わしていると思う。

 自分自身けして「雑談力」のある方ではない。他人の語りを見て時々こりゃたまらんと思うことが、きっと自分にも当てはまるように感じているからだろう。
 それはどんなことか。

 まず一つは自慢話である。
 次に、すぐに自分の話に持っていくタイプである。
 そして相手の反応など気にせず話し続ける方も大変困る。 

 となると、その正反対が雑談力が高いことにつながる。
 つまり、失敗話であり、他の人の話を聞くタイプであり、聞く人の反応に合わせて話をする、ということなのかと思う。

 その雑誌には、「雑談の理想形」として、三つのことが記されていた。

 「私」の気持ちや情報をオープンに話す
 一人ひとりに合わせて話す
 相手が話したいことを話させる


 こうなると、雑談とはけして雑には語れないしろもので、何だか緊張してしまう。
 楽しくなければ意味ないじゃん!と言って括ってしまいたいが、そこで考えねばならない相手意識の高さが、雑談の上手さを決めていくのではないかと思う。
 おしゃべりと言い換えてもいいが、それにも質があるということは誰でも知っている。

 ブログの中でも雑談に関係することが書いたときがあった。
 改めて読み直してみて、上條晴夫先生の「雑談のネタ化」という発想は納得がいった。
 ↓
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/4b99240304fc847babb0cde9d7d80221

ジョークは声にのせて

2010年04月15日 | 読書
 アメリカ映画などを観ていると、腹を抱えたり身体を叩き合ったりして笑い合うシーンがよく出てくる。ジョークということなのだろうが、その意味がよくつかめずポカンとしてしまったことも結構あったなあ。

 日本の映画やドラマには、めったに見られない場面でもある。そもそも実生活でそういった事はめったに起こらないだろう。
 ジョークには文化的背景の共有が必要な場合も多い。日本人にそれがないとは言わないが、それが日常会話の中に出てくる頻度はきわめて少ないということか。

 「日本一のジョーク通を自称する」天馬龍行という人が書いた『毎日笑って半年笑える ジョーク世界一』(アカデミー出版)という本を読んだ。
 190日分のジョークが載せられているのだが、「うまい!」「なるほど」はあっても、残念ながら声を出して笑うまでにはいかなかった。

 太ったヤンキーがよくするように「ワッハッハッ、どうだい、兄弟。傑作じゃねえか、おい、ワッハッハッハ…」と肩を叩く相手もいない(もっとも風呂場で一人読んでいるわけだから)ことが訳ではないだろう。

 実感としてぴんとこないからだろうか。
 弁護士ネタ、恋愛ネタ、夫婦ネタ、ロシアなどの外国ネタ…バラエティに富んでいて、意味はわかるのだが、笑えるまでいかないのはどうしてだろうか。設定や落ちも理解できるが、笑いを呼び起こす表情を感じとることができないのかもしれない。
 
 活字による伝え方の不利なところもあろう。これが音声であればもう少しクスリとなるのは多かったと思う。

 ジョークは読むものではない。声にのせてみることで、瞬間的に笑いをつかみとっていく性質を持つような気がする。

 それにしても、この本には考えさせられる?表現がいっぱいだ。

 特に「141日目 青春」は、お見事だと思った。

 青春時代とは、両親も人生の現実を知るべきだと子どもたちが思い始める時のことを言う。 

 ワッハッハッ どうだい兄弟!

「教育は人なり」の否定と強調

2010年04月14日 | 雑記帳
 昨日の協議会で、冒頭の教育長挨拶に、
「『教育は人なり』という言葉は、私たちが身内で使う言葉だ」
という内容があった。

 確かに。

 人によって左右されるような教育のあり方は、行政を担う方々にとっては排除されるべきものだろう。
 保護者にとってもかなり怖い言葉である。

 年度初め、学級のシステムづくりのことを自分も繰り返して言ってきたつもりである。一定のラインを確保して教育活動が営まれることこそ肝心だと考えているからだ。
 しかしまた、教師の個性も大事にすべきという点もずいぶんと強調してきた。

 今改めて「教育は人なり」という言葉をもとに、その点を振り返ると

 「教育は人なり」を否定するシステムをつくりあげる
 「教育は人なり」の意識を持ち続ける教師でありつづける

 この二つが併行して行われることが望ましいのではないか、と考えられる。

 学級担任制である小学校の現場では、いくらりっぱなシステムがあってもそれを運用する教師には強さや柔軟さが求められる。
 また教師の個性とどうしても合わないシステムには無理が生ずることもあろう。その意味では何をどうシステム化させていくかが、「教師の人」を表していくことなのかもしれない。

 ちなみに、文科省にもこんなコラムがありました。
 http://www.mext.go.jp/magazine/backnumber/maeka/010.htm

届かない離せない

2010年04月12日 | 雑記帳
 先週末、友人らと小宴をもったときに、電子書籍の話題が出た。
 iPad欲しいなあ、Kindleでもいいか、などと思ってはみるが、実際まだ手が届かない。

 増えすぎる本のこともあるので、確かにデータ化されてすぐ読みだせるのだったら便利だろうなあ…これは以前、かの脳科学者茂木健一郎がテレビで紹介したのを見て強く思った。レベルの圧倒的な差は言うまでもないことだが…。

 さて、先日届いた教育科学「国語教育」5月号の野口芳宏先生の連載は、「国語人は読書好きであれ」と題されたものだった。
 そこには画面活字と紙面活字の違いについて述べられている部分がある。

 スクロールして読む画面活字であるが、「ここは!」と思うところはプリントアウトしたくなること(まさしく私もそうだ)を踏まえ、紙面活字の方がなんとなく…という内容なのだが、次の一言には得心がいった。

 動かない物に向き合って、動くのは読み手の方の心である。
 
 もちろん電子書籍であっても、使用者の操作なしに動くことはないのだが、それはやはり動的であることは否めない。動的であること自体が特徴であり、それらがつながり広がりを求めているのである。

 閉じられた本を開く、ページをめくるのは動作だが、やはり紙の本は静的である。静的であるからこそ、読み手が自分の中に取り込みやすい(様々なパターンや時間に対応するという意味で)のではないか。

 双方を使いこなすのが理想である。アナログ思考と言われても、紙書物はまだまだ手離せないと思う。

「しあわせのへや」にする思考

2010年04月10日 | 雑記帳
 新年度、まだ手をつけられないでいることの一つに空き教室の活用がある。

 もっとも、三学期すでにその問題について提示していたので、いくつかのプランは出てきている。あとは具体的な動きを待つだけである。

 グループで協議したときに出た話題として、学級にいる気にかかる子どものクールダウンの部屋として残したい(実際、そういうように使っていた)という声が出たそうである。
 なるほどと思いながらも、ちょっと違和感を持った。

 北海道の石川晋さんのブログを見ていて、そのことを思い出した。
 「しあわせのへや

 とくに「一人きりになりたい人のためのイス」が秀逸。中学生だったらこれはウケルだろうな、と思う。
 小学生にそのまま使えるかどうかは検討を要するが、いずれそうした空間、スペースの必要性は今欠かせないのだと思う。

 ただ、基本的に教室空間はみんなが集う場所であり、特定の子どもが使うためだけにあるものではない。
 そうした基本線を崩さず、活用の手を考えるべきだ。
 そして、その中に特定の子や特定の場合に使えるスペースがあってもいい。いや、そうあるべきということではないか。

 原則は何か、問題は何か、折り合わせるためにどんな工夫が必要か…いくつかのことをもっと細かく思考してみようと思わされた。

わかりきっている問題

2010年04月08日 | 雑記帳
 入学式。

 (本校ブログはこちら

 いつの年であっても、緊張している一年生の姿は可愛らしく、少し緩んだりする瞬間に見せる表情がたまらない。

 もう4回目となる入学式での挨拶、今回は自分のイメージするモノを結局見つけられず、輪(リング)と目標を書いた言葉を使うことになった。
 「やさしく」「かしこく」「げんきよく」という教育目標の中にあることばを、一つ一つ取り出して演台の前に貼りだした。

 こういうときに肝心のことばではなく、違うところに目をつける子どもが必ずいるものである。
 今回も、左方にいる一人の男の子の声が耳に入ってきた。
 
 「あれ、どうしてくっつくのかな」

 小さいたれ幕型の用紙のうらに、糊のついているテープを貼り、手早く簡単にできるよう準備していた。

 式後にあった二年生の歓迎発表で、鍵盤ハーモニカの演奏があったが、音楽を聴き入るのでなく

 「オルガンに似ている」
とつぶやく子もいた。

 今まで学校という場で過ごしてきて、何も珍しい風景ではないが、改めて子どもの目のつけ所は違うものだと感じる。

 教師側の意図とはかけ離れた子をどうするか、これこそまさに教育観、指導観が問われることだ。

 単純にこちらに引きつければいいという問題でないことはわかりきっている。

数と質で足元を見直す

2010年04月07日 | 雑記帳
 怒涛のように、という形容は大げさだが、仕事量的にはかなり負担を感じたここ数日だった。校外の仕事の割合が圧倒的というのも悲しいが…。

 それはさておき、ようやく少しの休息時間を見つけることができた今日の午後、手元にある教育雑誌を開くと、冒頭に文科省の副大臣の文章があった。
 何度なく取り上げられるが、全国学力テストのことについて、こんなふうに切り出している。

 全国学力テスト(全国学力・学習状況調査)の成果の一つは、調査をやらなければおそらく誰も気づかなかった、秋田県が全国1位だということがわかったということです。
 
 確かに事前にそれを予想できた人はいなかったろう。
 本県内部でもそうだったはずだ。それを副大臣が「成果」と呼ぶとすれば、何かしらのアクションを意識しているのだと思う。
 その文章のなかには本県の結果の良さについて次の理由が書かれている。

 その一つは、教員の質と数です。
 二つ目は、三世代同居率が一番高いこと。
 三つ目は、地域の方が頻繁に学校に来ていること。
 
 細かい分析をもとにした理由づけなのだろうし、それにイチャモンをつけるだけの根拠もないが、内部にいる人間としてはぴんとこないことも確かだ。

 ただ、肝心の一つ目だけを考えれば、確かに「教員の数」についてそうした施策を続けてきた経緯はわかる。
 その先頭にたった前教育長が語るには、中でも生活サポート的な職員の配置事業が有効だったのではないかということだ。これは実際あまり注目されていないが、現場にいる者にとっては肯ける。
 ある意味の多様性を受けとめるには、数が決定的だということだ。

 「質」についてはかなり微妙なものだが、実感的ないい例がつい最近あった。
 家庭の都合で本校に三学期の期間だけ転入してきた姉妹がいたが、この子らや親が、以前いた都市部の同規模の学校(といってもやや田園地帯であるそうだ)との比較を語った。

 それは一言でいえば「厳しさ」であった。
 学習、生活いろいろな面での制約が多いということだそうだ。
 本校だけが特別ということは考えられないし、それらは私たちが持つ一つの質ととらえていいのかもしれない。
 何より、その制約を子も親も肯定的にとらえていただいたことが印象に残った。

 点数がどうのこうのというより、厳しさ、制約のある場は初等教育としては自然だろうという思いは強くなった。
 それらを質と呼ぶために必要なことは、小手先に陥らないための私たち自身の語り合いであり、指導の吟味だ。

何を値踏みされるのか

2010年04月04日 | 雑記帳
 野中信行先生が、今日のブログにこう書かれていた。

 1週間は、値踏みの時間である。
 子どもが先生を値踏みする時間。
 値踏みされていることを自覚して、取り組まねばならない。

 「値踏み」とは、「見積もって値段をつけること(明鏡国語辞典)」の意であるが、「評価」と言い換えることもできるだろう。

 「踏む」には、見当をつける、推測するという意がある。しかしさらに調べていくと、広辞苑に「貝、泥鰌などを足で踏み当てて捕る」という意味があって、そう考えると子どもたちが、どんな手?で(足で?)探ろうとするものか、ちょっと興味がわくような景色として想像できる。

 それはさておき、「値」とは何かを考える。

 当然、人格や教師としての力量、それらを指すだろう。
 今さらながら面白いのは、この漢字が「人」と「直」で出来ていることだ。
 そもそも「値」とは「人が、何かにまともにあう、ねうちにまともあたる」という意味からできているらしい。

 そう考えると、子どもたちへの接し方について確かに技術的なことは必須なのだが、まともにあたられても揺るがないだけの内面の大きさに思いが及ぶ。
 そうした確固としたものを備えているだろうか、そう自問してみることも時には大事だ(悩みつつ進むという意味で)。

 今、読んでいる『東井義雄 一日一言』(到知出版社)の中にこんな一節があった。これが値の違いではないだろうか、と思う。

 「喜ぶ」と「ほめる」は似ているようですが、別のものです。「喜ぶ」は全身全霊のもので、「ほめる」は口先の問題です。