すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

スジを通すための深堀り

2010年02月13日 | 雑記帳
 録画しておいたNHKプロフェショナル仕事の流儀「サラリーマンは、スジを通せ」の回を観た。

 スジ屋という存在は何かの映画で見たことがあるが、鉄道のダイヤ作成というのは凄まじいものだなあと改めて思う。
 コンピュータももちろん使うのだろうが、定規とペンそれにソロバンが出てきたことにはおそれいる。

 混雑率や車両のメインテナンスなど複雑に絡む要素はあるといえ、データさえあれば机上で出来そうに思ってしまうが、このプロもやはり現場にこだわる。

 現実に目にして考えること、そして対象、つまり乗客の気持ちになって想像してみること、これらが仕事を進めるうえでの大きな要素であることは、どんな仕事でも一流の人が心がけることだ。

 今回はそれと同時に最後の収め方に唸らされた。
 自分の提案したダイヤ改正の案を引っ込める形で終わったわけだが、ここにサラリーマンとしてのスジが象徴されているということだ。

 単に上司の反対があったから引っ込めたわけではなく、そこでの話し合いを受け、提案した要素の「深堀り」を行い、自分自身が納得しなかったから取り下げた。
 「スジを通す」ということは自分の思いを貫くことではあるが、それをどの視点で行うか、たくさんのステップがあり、常に一段高い所で判断しようとする姿勢が求められるのだと感じた。

 そのために、深堀りは行われた。

そこで育ったはずの力

2010年02月12日 | 雑記帳
 先日、地元にある高校の教育推進会議に出席した。
 地元企業代表の方々も参加し、就職の現状なども話された。
 
 高卒者の県内就職者の激減が本県の深刻な問題であり、これは将来的に大きな影響を及ぼすことが目に見えている。こうした現状の中で企業がどんな人材を欲しがっているかは、ど真ん中を突く話題ではないが、今までこうした機会はめったになかった私にとっては非常に興味深かった。

 『部活動を続けてきた生徒は、やはりいい』

 『どれだけハングリーになれるか、そういう意識をもつべきである』

 こんな言葉は目新しいものではないが、現実に代表者・担当者が朴訥にしゃべると、説得力がある。

 つまりは、続けて頑張れる精神力・体力ということか。
 そこに創造性とか先取の意欲とかが語られないのは、少し残念な気もするが、それはさておき、結局それらの力を教室で育むことができないという脆弱さを指摘されているような気もする。

 ただ、だからといって小学校で部活動やスポ少活動に熱心にやることの意味が強調されるわけではないこと、発達段階などを考え合わせたときに現状のようなあり方が逆に働くのではないかという疑問など…あれこれ頭の中に思い浮かんだ。

 ちょうど心理学関係の文献を読んでいて、子どもたちが部活動などに関わる「児童後期」がどんな時期であるかをもう一度確認する必要があるなあと感じた。

 大人の管理下にない子どもたちだけの世界が必要な時期
 
 こういう認識を直接的に実現することは、現状ではけして簡単なことではない。

 しかしそこで育ったはずの力を、自分たちの経験からもっと語り合って思い出してみることは、子どもと向き合う時の一つの視点とは成り得るだろう

五感の喪失を細かく見る

2010年02月11日 | 読書
 2002年に読んだ『五感生活術』(山下柚実著 文藝春秋)は印象的な新書だった。

 当時、教師向けのメールマガジンに感想を書いた記憶がある。

 感想を読み返してみると、「五感」というテーマをどう教育活動に生かすかという視点だったのだなあ、ということがわかる。

 上述した新書のもとになっている『五感喪失』(山下柚実著 文藝春秋)という本をたまたま見つけ、読んでみた。
 1999年刊の単行本である。
 著者のノンフィクションライターとしての力量を感ずる好著であった。結果的には、人間の生というものを五感にスポットをあてて突き詰めたと言っていいかもしれない。

 テレビなどで見聞きしたことはあるが、ボディピアスに関する第二章は結構衝撃的である。
 「感覚の暴走」と名づけられた括りではあるが、痛みを伴う度を越した刺激でしか、生の実感を得ることしかできない若者の生態をどう見るか…。
 『蛇にピアス』という小説を読んだことはないが、2004年にそうした作品が賞に輝くのは、ある意味必然だったのかもしれないと思う。

 流行を取り入れて満足している者にとっては、一時期の経験でしかないだろう。しかしその行為を突き詰めて考え、感じてしまう者にとって、一体「生」とは何か、という根本の問いがつきまとっている。
 ああ受け入れ難い世界と思う。

 興味深かったのは、「コンピュータ世界が喪失する五感」と副題が名づけられた第十章の、「字体」のことであった。
 教科書に「ゴチック体」の文字が登場するようになったことを受けて、専門家への取材等を通し、それが単なる活字が置き換わったことでないと強調する。

 書き手の感覚を含みこみ、書き手の筆づかいや読み手自身の身体感覚を呼び起こす仕掛けを持った「文字/道具」が、身体の感覚とは無縁な「記号/単線」に置き換わった、ということだ。
 
 デジタルの中にもアナログ的な要素が入り込んでいることがある。
 その意味はいったいなんなのか、そういう要素が知らず知らずのうちに消滅していくことは何を衰退させていくか、もっと細かくみる必要がある。

偏愛に胸が打たれる時

2010年02月09日 | 読書
 もはやタレント教授と呼んでいいのだろうか。かの齋藤孝明治大教授が爆笑レッドカーペットの審査員?の席に座っていた。

 「この人と話したことあるよ」と言うと、娘が妙に羨ましがる。
 といっても、講演後のサイン会で三つほど質問をしてみて、実にフレンドリーに応えていただいたという記憶なのだが…。

 『くんずほぐれつ』(文春文庫)を再読した。
 著者の名が今のように世間に広まる前の若々しい文章だ。発刊された当時に読んでいて、このブログ内にも簡単な引用とメモを残していた。

 改めて読んで、やはり惹かれる箇所の多い著書だ。
 「そいつつずらす」「換骨奪胎」「闇の共有」「身振りの技化」…その後に書かれた多くの著書にも何度も登場する。
 しかし、あえて一つ選ぶとすれば、やはり再び「偏愛」という言葉になる。著者の本の中では、非常に使用頻度の高い言葉だ。
 「かたよった愛」という辞書的な意味とは少しニュアンスの違いを感じるが、とにかく自分自身の興味を突き詰めてみろ!という熱い意志を感じさせる。

 教師が多くのものを偏愛し、幅広い世界を持っているとき、魅力的な人間になる。
 
 なるほどと思う。
 私の知る魅力的な教師の多くは、確かに偏愛しているものを持っていると実感することがある。
 研究会やネットを通して知り合いになった方々の多彩な興味の示し方に驚かされることも少なくない。

 偏愛とは、学びを突き動かすエネルギーのようなものであることに気づく。とすれば、学校に充満させたい要素だなあとつくづく感じる。
 次の箇所も引用しておこう。

 私たちは、なによりも、対象に関わる先行者の関係様式、構えを学ぶのだ。子どもの偏愛に教師が胸打たれるときは、子どもが教師にとっての先行者になる。
 

大会や競争以前の言語力

2010年02月08日 | 雑記帳
 タイトルに「言語力」とあったので、何の気なしに録画しておいたNHKの番組を見た。

 情報としては、以前から言われていることが多かったので新鮮さは感じなかったし、ドイツの教育に関してもある程度は知識を持っていたので、驚くほどでもなかった。
 教職についてる者ならば大方そうではないか。

 しかし、一向に日本人の言語力は世界に追いついていないのか(それとも目指す方向が違ったままなのか)、こうした問題提起は続けられている。
 教育現場では扱っているのだが、成果は見えてこないというべきか。悩みはつきない。

 番組は言語力が様々な面から語られていたように思う。
 例えばサッカーの本田選手を対象とした場面からは「自己アピール」や「調整力」といった要素が大きく出ていると感じた。
 「わかりやすく伝える」ための芯として、「考えをまとめる」という段階が強調されていた構成だったが、やや尻切れトンボの印象だった。

 それはともかく言語力を支える要素は多岐にわたると改めて感じる。
 ただざっくりいうと言語技術と表現習慣という二面で考えてもいいかなという気持ちもある。

 そうした時、前者はともかく後者は国民性と言われるものや個々の性格とも大きく絡む。
  そうすれば日常生活そのものの見直しということも求められるだろう。

 「まず挨拶」と理解していても現実に習慣化されていない。そういう実態を前に、いくら外国語活動で楽しそうにコミュニケーションが図れたからといってそれがどんな力に結びつくというのか、そういうことをもっと現場で問いかけ、話し合ってみなければならない。

 結局、スポーツの国際大会や企業の競争を言語力で語る以前の問題がある。

看板役者の引退劇

2010年02月07日 | 雑記帳
 相撲っていうのは、つまり、芝居ですよね。歌舞伎みたいなものの一部分です。
 
 吉本隆明の言葉である。
 雑誌BRUTUSが吉本隆明の特集をしていて、これもまた糸井重里絡みで実に面白い仕上がりとなっている。

 冒頭の言葉を、今の朝青龍問題にあてはめてみたらどうなるだろう、なんていう思いがふと浮かんだ。

 残念ながらまだ大相撲を生で見た経験がないのだが、吉本の言う「芝居」というイメージがわからないでもない。様式美、形式美という点だけではなく、力士と力士の取組は「共演」という括り方ができるのだと思う。

 とすれば、今回の朝青龍の引退は、紛れもなく大俳優がいなくなることを意味する。その役回りは人によって見方が違ったけれど、「演技」に対する評価は様々であったけれど、確実に客を呼べる俳優を失ったことは確かである。

 もう一つ、違った視点として、朝青龍をめぐる一連の出来事もまた芝居のようであったとも言える。
 「○○劇」といった言い方があるように、著名な人物がいて、何か事件や騒動があり、一定の幕引きがあることはよく喩えられることである。
 しかし、相撲、横綱をめぐった一連の経緯は実に役回りも際立ち、脇役?陣も揃っていて見応えがあったように思う。
 それを作り出したのは、マスコミであることは疑いないが、私たち観客を意識してシナリオを強調していることも確かである。はまって観ている自分を俯瞰することは大切なことだ。

 さて、肝心の大相撲芝居の看板役者の引退は、本人自身の資質を抜きに語れば、あの親方の責任であることは明確ではないか。降格程度で収まることなのか、と思う。

達人に出会い、振る舞いを反省

2010年02月04日 | 読書
 『日本語は天才である』(柳瀬尚紀著 新潮文庫)を読む。

 著者は紛れもなく日本語の達人、名人といっていいのだと思う。
 翻訳家として有名であるそうだが、それ以上に本書のテーマ「天才である日本語」を縦横無尽に使いこなしているということが何よりの証明ではないか。

 この書で、たくさんの知らなかった言葉に出会った。
 例えば「利根」…読んだ記憶もなければまして使ったことがない。
 利口と同義ではあるが、根とあることで漢字の奥深さをさらに感じた。
 私などはさしずめ、対義語である「鈍根」だと思い知る。

 ただの博学、物知りだけでは名人とは呼ばない。
 言葉や文の裏側に寄せる眼差しが素晴らしい。少女から感想を引用して、その思いに心を巡らせる箇所も素敵だ。
 そして読書に関して、こんなに的確で印象的な文章を書いている。いつか子どもたちにも紹介したいと思った。

 そもそも本は背伸びをして読むものではないでしょうか。もちろん、本を読むとき、人はうつむく。そっくり返っては読めない。しかしうつむいて読みながら、気持ちは背伸びをする。精神は上を向く。

 第七章の中に「急に『ぶり』が気になって…」という文章がある。
 ここを読んで、そういえば自分もそのことが気になってブログに書き散らしたことがあったことを思い出した。「○年ぶり」「久しぶり」「暮らしぶり」などのぶりである。
 もちろん内容のレベルなど比べることはおこがましいが、なんとなくおなじ発想に立てたことが嬉しかった。

 私の解釈(妄想)は「ぶり←ふり←振り←一振り←一瞬の動きの完結」というきわめて単純なものであったが、「振る舞い・所作」という由来もあることを改めて確かめると、自己の振る舞いについて反省するばかりである。

問うを問うて問われたこと

2010年02月03日 | 雑記帳
 知り合いの書いた文書のある箇所をみてちょっと変じゃないかと言ったら、学習指導要領の総則の中からの引用だという。取り出してみたら、確かに1ページに、そのもとになった文章があった。

 思考力・判断力・表現力等を問う読解力や記述式問題、知識・技能を活用する問題に課題

 引用された前段の部分(赤字の部分)を見て、まず「問う」に違和感をもった。

 思考力・判断力・表現力等を問う

 日本語として間違いではないだろうが、「○○力を問う」は一般的な使われ方としては「質問する」という意味より「問題にする」という印象が強い。指導力を問う、統率力が問われる…といったような。ひょっとして文科省は問題視しているのか、いやこれは単純に、力があるかないか量るために問うという使い方に過ぎないな…では、どこがおかしいと感ずるのだ。

 思考力・判断力・表現力等を問う読解力
 
 この「力等」と「力」の重なりは少し変だろう。そのあとにある「問題」があれば許せるか。

 思考力・判断力・表現力等を問う△△問題
 
 これならわかる。しかしあてはめてみると

 思考力・判断力・表現力等を問う読解力問題
 
 これはあるのかな。「読解問題」ならわかるが、ここも少し変だろう。
 一つあとを利用して

 思考力・判断力・表現力等を問う記述式問題
 
 これなら、ばっちりとわかる。
 しかし「や」でつないでいるなら、「読解力問題」「記述式問題」と並列になるはずだ。

 いや待て、もしかしたら、文末の「課題」に対応させているのか。

 読解力に課題 記述式問題に課題 活用する問題に課題 

 「力」と「問題」を同列にするわけがないだろうし、やはりここは「読解力」と「記述式」が並ばなければならないだろう。
 記述式とは問題形式であるので、選択式、短答式などが出てくるはずである。
 読解力はずいぶんと幅広い解釈なので、それと並べる用語は難しいなあ、と考えていたら、そもそもこれは「PISA調査」がもとになっていることに、改めて気づく。

 そうすれば、やはり少しわかりにくいが

 読解力に課題、記述式問題に課題、活用する問題に課題
 
 やはり、こういうふうに読み取るべきなのだろう。

 つまり、読解力に対応するのは、数学的リテラシーや科学といった領域。
 記述式問題は選択式問題と、活用する問題は知識を問う問題という関係になっているはずだ。
 ならぱカッコで括ってもらえるとわかりやすいのだが、ぶつぶつ。

 結局、PISA調査の内容がわかってなければ文章解釈ができない、細かい所だけ見てはいけないという教訓になりました。
 木を見て森を見ずという典型か、それほど大げさじゃなく、読解力不足ということですか。

進展はこう遣え、と気づく

2010年02月02日 | 雑記帳
 『ちくま』の2月号巻頭随筆に、作家のなだいなだが「少子化対策ってなんだ」という文章を書いている。

 「少子化社会対策基本法」の前文の一部を引用しているが、その法律の文章中にどうもひっかかる箇所がある。

 わが国の急速な少子化の進展は、~~
 少子化の進展に歯止めをかけることが~~

 この「進展」という言葉である。
 少子化への対処にかかわる文章では「事態の克服」「状況に配慮」といった表現が用いられていることを考えてみても、少し違和感を覚える。

 進展とは、このパソコン辞書では「(時とともに)進行・展開」とあり、その意味では正確な使い方なのかもしれない。
 しかし「展」は「発展」のイメージとしての「のびる、ひろがる」が強く、何か肯定的な印象を持ってしまうのは自分だけだろうか。

 いや、少子化は肯定的に受けとめるべきだという考えもあるかもしれない。
 随筆中にも書かれているが、「富国強兵のための、あからさまな国策」として出産増が叫ばれていた時代に比べれば、比較できないほど個人の尊厳が守られていることは確かなのだ。
 そういう意味で少子化はある意味で目指した姿、当然の帰結であり、「発展」なのかもしれない。

 にも関わらずこの国は、少子化を問題視し「我等に残された時間は、極めて少ない」と法律に書かざるを得ない状況に陥っている。
 つまり、政策の失敗。
 そしてそれを認めたくない心理が「進展」という、どちらにもとれる言葉になった…というのはかなり偏見ですね。

 少子化は、部分的な施策や一時的な救済などで解決できないことは目に見えている。社会全体の手当が必要だ…
 と、そんなふうに考えると「進行」や「拡大」よりも、もっと波及しているイメージの「進展」が遣われているのは、やはり妥当なのかなあ…とも思う。

 しかししかし、肝心なのは「『少子化の進展』への対処」よりも「『少子化社会の進展』の方策」であることだと、書いていて気づく。

勝手にNHK番組モニター

2010年02月01日 | 雑記帳
 昨年末にBRレコーダーを買ったこともあり、ちょっと気になる番組などを録画し休日などにまとめて観ていて、ふと気づいたのはNHKの健闘ぶり?だ。

 大河ドラマはほとんど見ているが、今回の『龍馬伝』は今までのものとは違う。
 話題にもなっているがそのカメラワークがなかなかである。埃っぽい画像や低アングル、長まわしなど、従来の大河にはないつくりをしている。個人的にキャストがどうかと思う点があるが、まあまあ今後に期待を持たせるつくり方だと思う。

 カメラワーク、演出といえば、1月17日に放送した阪神淡路大震災の特別ドラマ「その街の子ども」は、かなり斬新だった。

 サイトはこちらに。

 子ども時代に震災を体験し十数年後に再び神戸の地に立つ二人の会話、行動を追っていく、どこかドキュメント風に仕立てられたような展開だったし、その台詞の「普通感」があまりにも伝わってきて見入ってしまった。

 こんなドラマはまず民放ではやらないだろうな、またドラマの途中でコマーシャルを流すスポンサーも困ってしまうんではないだろうか、などと考えてしまった。

 そういう点からもう一つ。
 今回初めて観たのだが、『今夜も生でさだまさし』という番組。1月31日の午前0時からの放送である。
 なんのことはない、秋田からの中継ということでチャンネルを合わせたのだが、これがまた、いわばテレビ版の深夜放送(ラジオ・ディスクジョッキー型の)という形。徹底してアナログにこだわっていて、背景やフリップなど全て手書きにしているところが泣かせる。

 はがき投書を、さだが軽快に読みあげていくわけだが、結構好き勝手に言えるのは、深夜枠だからということでなく、NHKの懐の深さか?いやいや危機感のあらわれ?
 さだが、バックのホワイトボードに「受信料を払いましょう」と書くのが定番となっているそうな。

 優良納入者なので、NHKもっと頑張れ!と言いたい。

 あっそうそう、それから再放送だろうけど「ワンダー×ワンダー」のアンデスにある塩原は、本当に凄かったなあ。