すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

暴走老人、一歩手前

2010年01月19日 | 読書
 『暴走老人!』(藤原智美著 文春文庫)が面白かった。

 何気なくしていると思っていたことの背景をあぶり出してみせる…この作家の真骨頂が発揮されていると感じた著書だ。

 いくつもそうした事柄があったが、特にああそうかと思わされたのは次の箇所である。

 「待つ」から「待たされる」へシフト
 
 日常は「待つこと」で占められているが、便利さによってどんどんそれが短縮されているにもかかわらず、待つストレスは減っていない。むしろ「待たされる」ことに過敏になっている現状があるということだ。
 この現実はとても重い。
 それらは例えば、こんなふうな姿となって現れる。

 スムーズな流れが支障をきたすとき、多くの客がラインを動かす立場をとり、ラインそのものと化して、不ぞろいの部品を排斥するような情動を覚え、行動する。しかも、無意識のうちに。 

 チェーンのコーヒー店しかり、ファーストフード店しかり、コンビニやスーパーのレジでの支払いしかり。『マクドナルド化する社会』(J・リッツア著)を引用しながら、従業員だけでなく客自体がラインの一部になっている現状とそこにある心理を、見事に描き出している。

 そこから導きだされる「透明なルール」という概念は、納得だった。
 必要以上の丁寧さ、過剰なまでの配慮などが新しい行動規範になってきている今、それらに同調できない、いや圧迫されつつある年齢層が、上手に感情をコントロールできるのか、それが個人の生とどうかかわるのか…老いに片足を突っ込み始めている自分にとっても、もはや現実なのである。

そんな自分とパラレルで

2010年01月18日 | 雑記帳
 BS2で『MASTER TAPE ~荒井由実「ひこうき雲」の秘密を探る~』という番組をやっていた。
 音楽モノを久々に興味深く視聴した。

 音楽の技術にどうのこうのは言えないが、当時あれほど聴き込んだアルバムがどんなふうに作られ、どんな思いを抱かれたものか、曲に懐かしさを覚えながら、「職人」のような方々の会話を聞いた。

 一年という長い期間をかけて出来上がったデビューアルバム「ひこうき雲」で、一番多く時間を割かれたのはボーカルであり、納得の声に届くまで徹底的に追求したというプロデューサーの信念が強く印象に残る。
 売れる売れないは結果論だろうが、当時のミュージィックシーンは、こうした人たちの熱によって盛り上がっていたことは間違いない。

 出演者のリクエストに応えて、テイク別の録音をかけるという場面が多かった。
 特に「きっと言える」のガットギターとボーカルだけがすごく素敵で、思わず聴き入ってしまった。今、こんなアレンジで発売されたら絶対買うだろうと思わせられた。

 憧れのミュージシャンたちもそれなりに齢を重ねて、今それぞれの音楽を作り上げているのだと思う。「ひこうき雲」を作った当時の自分をどんな感じでとらえているのか、ちょっと思いを馳せた。
 ユーミンが番組の最後に「他人事のよう」「別人格」と言いながら、「いつも横にいる」「パラレルで」と言っていたことに、何か重みを感ずる。

 自分にもそういう時期があるのかもしれない、と、ふと思う。
 しかし「ひこうき雲」を聴いて心に浮かぶのは、6畳の狭いアパート、季節は冬。布団にくるまりながら、ぼんやりと天井を見ている時間だったりするので、その時期のそんな自分とパラレルだったら、それはそれで少し悲しい。

あるべき学力を語ろう

2010年01月17日 | 雑記帳
 「学力向上」をテーマとした先日の講演をどう受け止めるべきか、いろいろと考えてみたいことがあった。
 その一つは「学力」という言葉である。

 講師は「基礎学力」と「受験学力」という二つの言葉を挙げてその違いを手始めに語り、本県教育の現状と課題と進めていった。多様なデータを用いた展開はそれなりに説得力のあるものだったとは思う。
 しかし、肝心の「学力」について踏み込んで考えなければ、結局は思考停止のまま点数稼ぎの教育?に勤しんでいくだけではないのか、そういう疑問が頭について離れなかった。

 「基礎学力」とは何か。
 全国学力調査に表れた結果をみて評価していいことなのか。
 様々な所管のトップは繰り返し言っている。
 「それは学力の一部にしか過ぎない」と。
 まさしくその通り。従って「基礎学力」と「受験学力」という二つの立て方は、様々な疑問が生ずるものである。
 今回の講演で語られた基礎学力(と称されたデータ)とは、点数として表れた数値以外の何物でもない。それを典型として語ることに、違和感を感ずる。

 「学力」といったときに、思い浮かぶ一冊の本がある。

 『新学力観と基礎学力』(安彦忠彦著 明治図書)

 90年代後半、いわゆる新学力観についての論がまだ様々に交わされていた時期である。
 まだ細々とサークルを続けていた頃である。その本をもとにしながら少し勉強しようと思った。演習のような形で話し合ったことがある。
 提示した問いは次の三つ。

・学力って何ですか?ずばり一言で書きなさい。
・例文A、Bの学力の使い方について説明しなさい。
・「基礎学力」とは何のことだと考えていますか。短く書きなさい。

 最後の設問を取り上げて本の内容をみると、安彦氏は少なくても三つの分類があるとしている。(安彦氏の立場は①)
①人間として必要な基礎学力(読み書き算)
②学問研究の基礎としての基礎学力(上位の学力に対する下位)
③国民として必要な基礎学力(義務教育の内容すべて)
 
 私たちはふだん「基礎学力とは何か」などと語りあうことはないが、「必要な指導」を考えるときに意識するべき事項だと思う。
 特に初等教育の現場において、①②③に見られる相互関係をどうとらえてカリキュラムを作っていくのか、結構シビアな問題でもある。
 「基礎学力が大切だ」という考えは、何を重点として指導していくかと直結している。

 講演の中での「基礎学力」という使われ方は、③の一部と言ってもいいのだろうが、現状を見ているとかなり「受験的学力(調べることを前提としているという意味で)」という要素が大きくなっていることは否めないだろう。
 それは、受験のための基礎という位置づけが広がることを意味してはいないか。

 そういったなし崩しを防ぐためにいくつか大切なことがある。
 そして、その中で最も肝心なのは、教師自身の「学力観」の問いかけではないだろうか。「理念学力」を求める姿と言っていいかもしれない。

 あるべき学力を子どもの姿で語るにふさわしいのは、やはり私たち現場にいる者でありたい。

じゃあ、読もう。という余裕

2010年01月15日 | 雑記帳
 始業式の挨拶で「国民読書年」のことについて少し話した。

 学校にポスターが届けられたのでそれを使ったが、実にシンプル。「じゃあ、読もう。」と中央に大きく書かれているだけのもので、ロゴマークや主催団体などは、端っこに小さくあるだけだ。

 デザインについて好みはあるだろうが、個人的にはなかなかではないかと感じた。
 「じゃあ、読もう。」は、いろいろな場面に使える、すぐれたコピーだと思った。

 ちょっと時間があまったから、じゃあ、読もう。
 決めた時刻になったから、じゃあ、読もう。
 この人に興味がわいたから、じゃあ、読もう。
 表紙の絵がとてもすてきだから、じゃあ、読もう。
 あの人が面白いと言ったから、じゃあ、読もう。
 ・・・・・つまり、いつでも、どこでも、圧倒的に読む量を増やしていこう、機会をどんどん増やしていこう、ということである。

 読書が一つの課題ともなっている本校児童でもあるので、とりあえずは、「先生に言われたから、じゃあ、読もう。」とスタートする子がいても構わないだろう。
 しかし、その時に親も教師も本を手にする姿を見せておいてほしいものだ。
 そういう心がけ、というより、そんな余裕を持ってほしいと思う。

 ところが自分自身は、実は余裕のない読み方をしていて、緩いノルマを課しながら、面白い小説探しやら、再読挑戦やら、遅読挑戦やら、まさに乱読状態であるが、それでも楽しく充実している時が多いので…

 じゃあ、読もう。

逸らさないから鍛えられる

2010年01月14日 | 読書
 再読、『悪人正機』(吉本隆明、糸井重里著 新潮文庫) 

 この本は2004年に読んでいる。残念ながら感想等は残していない。一覧におススメというチェックはしているが、結構その時も難儀して読んだだろうなあと思う。

 糸井が発した?「○○ってなんだ?」という問いに、吉本が答えている形の内容である。○○は「生きる」から始まり、「友だち」「仕事」・・・・「戦争」「教育」・・・と多岐にわたり、最後は当時退院後だったこともあって、入院記のような内容で締められる。

 吉本独特の語り口調(以前CDで聞き込んだから、まさにそんな声で語られた感じである)についていくには、やはりある程度の知識が必要だ。
 ただ、様々な体験をもとにしているだけに具体的な重みを持って進められており、所々でぐんっと考えさせられるようなことが多い。
 例えば「ネット社会」の項である。

 人間のいちばん重要な精神の問題ってのは、情報科学の発達で届くようなことではないということですね。
 
 これはぐんっと重みがある。ここでは、感覚と精神を対照的な形で述べていて、感覚の発達が精神の発達に即つながるものではないことを言い切っている。特に「心の動き」を「内蔵の動き」と記している箇所はずいぶんと考えさせられる。
 今、遅読に挑戦している?『唯脳論』との比較も面白そうだ、と秘かに思う。

 では、精神の問題というのはどうとらえていけばいいのか。
 いくつかの他の項でも出てきている気がするが、思い浮かんだのは最後の方で、ある友人について語っている箇所である。
 取り柄のない怠け者の友人が、大きな会社の社長になったという。それはどうしてなのか。吉本はよくよく考えて、こんなふうに理屈づけた。

 要するに、そいつは「逸らさない」んだよなぁ、と思いました。
 
 この点について、周囲の魅力的な人物を想像してみたとき、思い当たる節が確かにある。その話題が不得手であったり自分の意にそぐわなかったりしたとしても、確かに逸らさない人がいる。
 それはやはり心の動きが強い、筋があるといったものなのではないか。精神はそういう場で鍛えられるのかもしれない、と予想してみる。

好きな言葉を訊ねられ

2010年01月13日 | 雑記帳
 PTAの文集に載せるというので、いくつかのことを書いて提出することになった。
 その中に「好きな言葉」という項目があった。
 よくありがちなテーマであるが、ここしばらくそんなことを訊かれたことはない。少なくてもここ十年以上はその質問には出会っていないと思う。

 いやあ、いっぱいあるなあ。活字中毒的なところもあるし、そもそも気の利いたフレーズそのものが好きで、ホームページを作ったぐらいだから。そのページは前のサイトから引き継いでいるわけだし。

 「好きな言葉」と言われれば若干ニュアンスが違うかもしれないが、「キニナルキB面」などは、なかなかのものではないか。
 その中でしいて挙げられるとすれば、こんなのはどうだろう。

  「本当の大人なら、幸せの100ぐらいラクに言えるぜ!!」

 「詩のボクシング大会」に参加したある高校の先生が放った言葉だ。インパクトが強くてエネルギーがある。
 いや、でもPTA文集には少し不向きか。

 敬愛する野口芳宏先生の言葉なら、もういくつもいくつも書き込んでいるし、身体に沁み込ませているフレーズがある。その中から一つ決めろというのは無理があるかもしれない。
 しいて挙げるなら、
 
 「人間にとって一番大事なのは、変わることだ」 

 だろうか。
 しかし、少し堅い気がして…そんなことをつらつら思いながら数十分。冬休み最後の日が暮れていく。外は風雪。

 突如頭にひらめいたのは、何かの番組で見て不思議と記憶に残り、愚娘と一緒に親子読書感想文か何かを書いたときに使ったフレーズだった。
やはり、このあたりが自分のレベルか。

 雨が降ったら傘をさせ 傘がなければ濡れて行け
 
(どうやら灰谷健次郎の詩がもとになっている言葉らしい)

ネットという巨大居酒屋

2010年01月12日 | 読書
 ネットは暇つぶしの場であり、人々が自由に雑談をする場所である。放課後の教室や居酒屋のような場所である。
 
  『ウェブはバカと暇人のもの』(中川淳一郎著 光文社新書)

 この本を読んで、実に言い得ているなあと感ずる箇所である。

 とてつもなく巨大な居酒屋に、様々な人々が行き交っている。
 大きなテーブルがあり、カップル・家族向けあり、もちろんカウンター席もあるし、奥まったところに個室も用意されている。
 カウンターあたりにはいくつもの掲示があり、ひっきりなしにお薦めメニュー、各種コマーシャルが流されている。

 広いロビーを歩き回り、宣伝をしている人が多数。関心を示さない真面目な人もいるし、すぐ飛びついてしまう人もいる。関心の高い対象は、いくつかのパターンがあるし、それは現実生活でも同じことだ。
 騒がしい室内だけれど、自分たちの会話に夢中なグループにはそんなに邪魔にもならないのだが、トイレに行こうと思ったりして席を立つと、それぞれの席の様子が結構見えてきたりする。
 
 怪しい会話をしている、難しくて交わされている言葉がわからない、くだらなく笑ってばかりいるグループもいる。中には店内をひたすら歩き回って文句をつけている奴がいる。そのつけ方が面白いと一気に人が集まり罵倒する場もあり…。
 そして多くの客の顔は見えない。

 と、まあそんなイメージが浮かんでくる。

 「ネットは人の生活を大きく変えた」とよく言われるけれど、では実際何がどの程度変わったのか、自分に問うてみると意外と根本のところは変わっていなくて、この書名であれば、バカは依然としてバカのままで、暇の使い方だけが変わったというべきか。

 便利さを感ずることは多い。しかし何かに代替できることも確かだし、結局便利になった手間を何に振り向けているか、ということに尽きてしまうのではないか。その分丸々をひっきりなしに掲示されるメニューを見て、あれこれ考え込んだり注文したりするのでは、まさに暇人そのものだ。

 ネットの可能性を知りつくしながらも、その限界や暗部ともいうべき事例について、今まで知り得なかったことも含めて提示されており、なかなか勉強になった一冊だった。
 「マスゴミ」「集合愚」などという造語の見事さにも感心してしまう。

 ネットの力を十分生かして…などというレベルには向かおうとはせずに、ネットがあるのでこんなに重宝してますけどネ、という程度が自分には妥当だと感じさせられた。
 居酒屋でもあまり他の席に目を移さず、落ち着いてじっくりやりましょうや、ということだ。

せめて肉声、直筆にきちんと向き合う

2010年01月11日 | 読書
 『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(小山鉄郎著 新潮文庫)からもう一つ。

 漢字についていくつか自分でも実践してきたが、よりどころは藤堂明保編集の辞典、それをもとにしたテキストだった。
 その時点ではあまり考えなかった奥深さを今感じている。

 たとえば「目をめぐる漢字」と題された項である。
 「相」は当然「木」と「目」からなる会意文字であり、「木を目で見る形」から来ている。
 「相」が向き合うという意を持つことを考えると、ここにはやはり木と人との関係性が出てくることだろう。

 「目」で見ることは、見る対象に対して精神的な交渉が含意されているという点では「相」の字はまさにそうです。樹木の盛んな生命力が、それを見る者の生命力を助けて盛んにするという字です。
 
 実際にそういう場面を正しく想像はできないが、何かロマンを感ずる風景だなあ。
 ヒトが自然と共にあったからこそ、そういう営みを感じ取ることができそういう言葉や字が生まれ…人間としての文化が出来上がったわけだが、結果そういう自然の力を信ずることも少なくなっている、などと大げさなことまで考えたくなる。

 唐突だが、言葉や文字はもっと土まみれになり、汗臭くなっていいような思いが浮かぶ。
 しかし、このネット上の文字表現そのものが、もっとも離れた場所にいるということを考えると全く笑うしかないか。

 せめて肉声、直筆、それらにきちんと向き合うこと、こんな決意しかできない。

表現や伝達は、言と語で

2010年01月10日 | 読書
 『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』(小山鉄郎著 新潮文庫)を読んだ。
 『常用字解』は手元においてあるので、いくらかの予備知識は持っているが、ある程度まとまった形を読むのもまた楽しい。

 漢字のでき方以外にも興味深いなあと感じた箇所がいくつかあるが、ここはへえっふむふむとなった。「言」の項である。

 一般に「言語」といいますが、この「言」は攻撃的な言語であり、一方「語」の方は防御的な言語であったようです。軍事的な戦いの際には、実際の戦闘の前に口合戦が行われました。
 
 部族内の慣わしや祈り、部族同士の諍い、戦い…そうしたとてつもない長い歴史の中で生み出され、磨かれてきた漢字の宇宙がまた広がるなあと感ずる。

 それにしても、攻撃的な「言」と防御的な「語」という比較は面白い。
 白川漢字学では「言」自体が神に誓う言葉とされているので、戦いの前に自分たちの主張や信念を堂々と述べるという姿になるのだろうか。
 対して「語」には意味として「話しあう」があるように、「攻撃」を受けとめながら、はねかえしたり正当性を説いたりするのだろうか。

 言葉を遣うことの原型のひとつがそこにあるような気がする。

 今の世の中だって、どんな表現にもどんな伝達にも言があり語があるはずだと考えると、ちょっぴり背筋を伸ばしてみたくなる。

一国民の覚悟

2010年01月09日 | 読書
 1月号だから昨年に発刊されたものだろう。雑誌『新潮45』を手にとった。

 背表紙にあった「新春特別対談 養老孟司VS内田樹」に惹かれたのだが、表紙を見ると「333号記念特大号」と赤字で打たれていた。
 その下には「日本の行く末」と大きく書かれ、「佐伯啓思」という名前がある。
 京都大学の教授という肩書きがあり、巻頭を飾るぐらいなのでずいぶん著名なのだと思うが、そちらに疎い自分は初めて目にする。

 民主党へ政権交代があり、その期待や失望、支援や批判、様々な文章を雑誌等で目にしてきたが(実際、じっくりと読み込んだわけではないが)、どうもすっきりしないというか、取りあえず見ましょうという程度で、構えがあまり動くことはなかった。
 
 今回はまあ正月でもあり、少しまともにそうした巻頭論文も読んでみようかと、そんな思いでページをめくった。
 勉強になるなあと素直に思った。例えばこんな件。

 民主主義は「国民」のための政治とされるが、歴史的にいえば、民主政治が「国民の政治」を唱える場合には、常に、「国民の敵」を作り、何かを排除したことに注意しなければならない。
 
 「敵」をどこに設定するかは、その時代背景に大きく左右されるわけだが、今回の政権は「官僚」をターゲットとして始まった。
 しかしそれが本当に「敵」と言えるのか、という根本的な問題を抱えているのが現状であり、おそらく今のような図式は早晩崩れるだろう(もはや崩れているか)。

 そもそもここで使われる「国民」という言葉も疑われる。

 「国民のための政治」などといっても、「国民」というまとまったものはどこにもない 

 結局は「多種多様な集団」に対してどう動くか、利益配分・利益誘導がどう実施なされるか、ということになるわけである。
 自分はどの集団に属しているのか、職種上、世代上、地域上…その点をしっかり弁えて見ることは、いつの時代でも必要なことだが、政権交代という節目であればなおさらである。
 それは生活の安定や状況の改善を願うと同時に、より大きな視野で世の中の流れを追うこととも絡むだろう。

 報道に見られる政治ドタバタへの関心の有無はともかく、目まぐるしい社会変化の中で、物的富に頼った価値観の見直しが求められていることは、もはや言い古されている。しかし、一向に揺るがない現状も一方では見える。自分もまたしかりである。

 不安定で過剰な競争があるグローバルな世界に取り込まれているという事実、それを危機として受けとめていない、目を背けている姿の表れといえないか。
 肩を叩かれ振り向いたときには、しっかり捕まえられているのだという覚悟はできているのか。