すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

内省が深い人

2009年03月07日 | 読書
 上下関係の一番洗練された形は作法だと思う。
 若い人は作法を覚えると同時に、なぜそういう形になったかって勉強するとすごく面白いとアドバイスしたい。

 誰の言葉だと想像するだろうか。

 「作法」については今また伝統文化ということも大きく打ち出された背景があり、様々な出版物がでているようだ。教育の場でも目立ってきて、先月読んだ野口芳宏先生の本のことを書いたばかりである。

 学校に「礼法室」があったことは記憶にあるが、その場所で何か習ったことなどなかったはずだ。高度成長期に学齢であった私たちの世代はやはりどこか欠落したままに育ってきた、そういう思いは自分が年齢を重ねるごとに強くなっている。
 そして折にふれ、しきりに「祖母はあの時こうしていた」とか、親戚の年配者の毅然とした姿が頭の中に浮かんできたりするものだ。
 そういう姿が残像としてもあるうちは、まだ可能性があるのではないかとも思うが、「安心・安定」する世の中に逆らってきた若い頃の心向きも厳然として残っているようであり、何か腰が据わっていない。

 ともあれ、仕事や自分の日常に自信を持っている(哲学のようなものだろうか)人は、他者とも安定した関係を築ける気がする。
 それは自ずと言動が作法に近づくことではないか。
 たぶん内省を繰りかえしながら進んでいるからだ。そういう人に作法は見えてくる。

 冒頭の言葉は週刊誌に載った、ビートたけしが語った言葉である。
 たけしは、内省が深いと思う

久しぶりに歌詞を読む

2009年03月05日 | 雑記帳
 少し日が経ってしまったが、今さらながら日本アカデミー賞で木村多江が最優秀主演女優賞に選ばれたのは、「おくりびと」独占を阻止した?意味でも大きいなあ、と思う。

 彼女のことは以前にも書いたのでさておき、先日朝のラジオで「なんか聴いたときがある曲だなあ」と耳に入ってきたのが、あの「ぐるりのこと。」の主題歌だった。
 映画を観たときはあまり印象に残らなかったのだが、今聞いてみると、なんだか細野晴臣の若い頃の歌声にちょっと似ている気もして、さらにオクターブ上げた高音の響きも泣かせるので…。通販で買ってみた。それから少しはまって、車では流しっぱなしになっている。

 Akeboshi『Roundabout』

 英詞が半分ぐらいあるのだが、それはそれとして(読めない私)、日本語の歌詞はなかなかだなあと思う。もちろん音に乗ったときのイメージなのだが、久しぶりに歌詞カード?で確かめたくなった曲が多い。
 少しだけ引用。

 深い森の中で 木が燃えていた
 僕はそれに触って 君を傷つけた
 遠い君の中で 木が燃えていた(Rusty lance)

 今、それぞれの想いをかかえ 歩いていく夜の
 足音が聞こえてくる
 肌の色や言葉じゃなく
 常識じゃなく宗教じゃなく
 歴史じゃなく 届け(Sounds)


杉渕学級参観記、その3

2009年03月04日 | 雑記帳
 深澤先生の飛び込みの授業について少しだけ触れてみたい。

 当然のことながら、杉渕学級の実態、レベルを見きわめながらの授業の組み立てをしていた。「私はどこの県から来たか」というクイズ的な問いや授業の難易度への期待を訊く導入は、もう一歩踏み込んで子どもたちを見取っている段階だろう。

 その後の展開は、拡散的思考に優れている子どもたちの特徴を存分に引き出したし、そして深澤氏から見て不十分だと考えられた点を強調していた。
 それは「自らの考えと他者の考えを比較し、共通点や相違点に敏感になること」とでも言えばいいだろうか。自分の意見を言いたい子に対し、何度もその理由を尋ね既に出ている意見とつなげていく姿に、それを感じた。
 しかしその徹底は、ある面で表現したい意欲を抑えることもあり、ステップとして担任がどうとらえているか微妙な問題だ。

 ただ言えるのは、そういう深澤氏のいわば「しつこい」指導にも十分対応していたのが、杉渕学級の子どもたちだという事実。
 協議会で深澤氏も言っていたが、発言の量的なこと、それに対する教師の指導の強さなど、やはりこの学級だから出来たことは多いはずである。

 さて、以下は蛇足。
 2月26日は東京の一番の寒さだったようだ。朝の雨は冷たかった…。2校時後半だったろうか、窓の外に白いものが降り出したころ、子どもたちの頭がざわざわと騒ぎだした。さすがに都会の学校だと思った。
 まあ、私たちの地方であっても初雪のときはあんな感じになるかもしれない。それにしても、休み時間に突入したら玄関口や窓で子どもたちがわいわいと騒いでいる姿が多く見られた。若干の興奮状態。
 また、それに対する校内放送の声がいかにも学校的?だなあ、と田舎の参観者は聞いていました。

「雪が降って、うれしいですね。(にこやかな声)
 でも、今日は内遊びの日です。(さとすような声)
 朝礼台の近くにいる人ははやく校内に入りなさい(きっぱりと)」

杉渕学級参観記、その2

2009年03月03日 | 雑記帳
 子どもたちが帰ったあとの協議会も充実していた。
 杉渕、深澤両氏の発言が実に刺激的だった。中でも印象的な一言がある。「目や耳を鍛える」といった話題になったときのことである。杉渕先生がこんなことを口にした。

 いつもやるんだけど、いつもやってはいけない

 「禅問答みたいだけど…」などという声も聞こえた気がする。
 しかし、この言葉は考えてみるに値すると思った。
 私なりの解釈をすれば、「継続的にやっていくが、連続的でない」ということだ。
 「連続的」という言い方は、予定調和とかパターン的に換えてもかまわないだろう。つまり、ずっと続けてやるが、様々なパターンで変化を持たせながら…ということではないか。

 これは口では容易いが生半可な知識や技能では徹底できない。またセンスも要求されるように思う。持ってうまれた資質もあろうが、長く子どもたちと接した経験によって、受け止め方や反応を予測できる場合もあるし、なかなか奥の深いことだと思う。

 どんな話題のときか失念したが、こんな言葉も飛び出した。

 勘のようなもの

 協議会では禁句にしたいと考えていた言葉なので、少々面食らった。その言葉で括ってしまえば、つまりは協議する必要性はぐっと薄くなるわけで、その中身についてあれこれ話し合うことこそ…。
 もちろんこの協議会はそこで留まってはいなかった。
 勘のようなものを作り出すために、二人が徹底していることが結構多く提示された。具体的な数字で語られたことや、日常の活動場面の目標的な姿を挙げられたと思う。
 その意味づけをしてみれば「勘のようなもの」はある程度持ち得るだろう。
 しかしまたそれを研ぎ澄ませていくためには、教師の「強い主観」が必要になってくるに違いない。

杉渕学級参観記、その1

2009年03月02日 | 雑記帳
 3年ぶりの杉渕学級参観。
 子どもが違い、勤務校が違っていても、そこにはさすがの「杉渕ワールド」が展開されていた。今回は、一日フルの参観だったので、様々な活動を十分に堪能できた気がする。
 取り立てて印象深いのは、指名なし発表と表現読みであった。

 指名なし発表をこのレベルまでにするためには、拡散的な思考習慣を身につけさせ、それを表現する場を積み重ねてこないと絶対に無理だなと感じた。
 これは指名なしという形だけにこだわっていてはなかなか実現しないものであろう。教材を小出しにしていく一読総合法的な手法であるが、そこに「書く」という過程がなくても次々と意見や想像、疑問が出されていく姿は圧巻であった。
 むろん、一人ひとりの発言の質には差があった。しかし、ポイントをとらえて教師が問いを投げかける、また発言のない者、集中に欠ける者にはある時点で発言を促すといった働きかけがあり、そこに杉渕先生の信念でもあろう「全員参加・レベル向上」の意志が強く見てとれた。

 表現読みは、いわば連続した個別指導を通しての全体指導という形であった。
 一人ひとりの音読に教師が直接かかわる場を見せることによって、他の箇所を読む子どもたちをも集中させていくということである。
 おそらく読む文章は日替わりだろうし、その息を抜けない緊張感を生み出すシステムは徹底している。
 上手にできない箇所を指摘しやり直しをかける「強い指導」が中心となっていた。その負荷の調節は担任にしかできないが、ずいぶんと耐えられる心も育っているようだ。
 野口芳宏先生から「音読を直すのは難しい」という言葉を聴いたことがある。説明しても実際にやり方を教えても、音読にあまり変化のない子がいた。その子への指導が長引いた場面には注目した。

 別の手立てはいくつか思いつくが、その徹底ぶりこそが、杉渕学級の真骨頂ではなかったか。
 伝わるのはエネルギーである。