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桜と絵本と豆乳と

無数の私をもつ強さ

2011年04月17日 | 読書
 先月、沢木耕太郎の90年代のエッセイ集を読んだときに、いい文章を書く人だなあと思った。
 今回の文庫本で一層その思いが強くなった。

 『「愛」という言葉を口にできなかった二人のために』(幻冬舎文庫)

 これは、いわゆる映画評論という分類になるのかもしれない。読み終わる頃に、『暮らしの手帖』誌での連載だったことがわかった。
 全部で32編、取り上げられた映画は33編であるが、ふだん洋画など見ない自分なので、実際に見た記憶があるのはその中のわずか二つの邦画、『父と暮らせば』『硫黄島からの手紙』のみだった。

 しかし、そういう読者にも読ませる圧倒的な筆力がある。解説の映画評論家も書いている。

 沢木氏の案内してくれる映画について、何も知らなくても、読み物として充分楽しんでその映画を実感できる。

 それは才能ということなのかもしれないが、国を問わずジャンルを問わず、映画に向き合える多様さを著者自身が身につけているからこそなのではないか。
 沢木耕太郎というと「旅」というイメージが一番に浮かぶほど、名前が知られているわけで、やはりそれは数多くの体験知に支えられていることは間違いないと思う。

 しかし、著者はこう書いている。
 
 私は確かに旅はしてきた。しかし、旅は私を賢くしてくれただろうか。とてもそうとは思えない。

 一つの旅を描いている映画を紹介しながら、内省する文章を書いている。「旅はただ無用な知識を与えるだけかもしれない」と考えを巡らしているのだ。

 しかしそれは、旅する者の姿勢如何と言っていいだろう。
 目的を持ち量をこなしている著者自身に当てはまることではないと思う。

 この文章の意味するところは、映画のなかにある場と人に向き合う最大の武器のように感じた。

 旅はただ日本と世界の大きさについてほんのわずかな感覚を与え、無数の私をさまざまな土地に置いてこさせた

 文章を書くにも、誰かを相手に話すにも、無数の私がいて時に応じて立ちあがってくるとしたら、これほど心強いものはない。

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