すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

心を多めに使う当たり前

2019年04月23日 | 読書
 十年前いやもう少し前か、「あたりまえ」という言葉を学校関係者がよく口にしたことを思い出す。今まで当たり前であったことが当たり前でなくなったという感を持った教師が多かったのだろう。とすると「あたらしい」と形容することは一つ違う観点を加えることだなと勝手に解釈する。当たり前も更新されるのか。


2019読了39
 『[よりぬき] あたらしいあたりまえ BEST101』(松浦弥太郎 PHP)



 「当たり前」という語は、「当然」が「当前」と誤記されたことから生じたという説もある。しかし日本国語大辞典によると、「共同労働の収穫を分配するとき…」がまず挙がっていて、「一人当たりの配当」を意味している。それが当然の権利であるところから「道理」「当然」「ごく普通のこと」につながったとみている。


 そこから「あたらしいあたりまえ」を考えれば、更新していけば「当たり前」が増えていく、つまり一人一人が豊かになっていくという方向が見いだせるものだ。となると個別の当たり前ではなく、全体に貢献する意味での当たり前が求められている。『暮しの手帖』前編集長である著者はその観点はよくわかっている。


 記されている101の項目は特に斬新とは思わないが、淡々とした普通の心がけがさりげない表現によって柔らかな風のように伝わってくる。例えば「農夫になりたい」。自立の根本は食べること、その際の二通りの選択「狩人か農夫か」と訊かれたら、著者は農夫を選ぶと答える。「種を蒔いて待つ」ことを続けるという。


 人間関係から日々の暮らし方まで「大切なのは次の三つのうち、何を使うかです。体を使うか、頭を使うか、心を使うか。」…さりげない一節だけど、ちょっとドキッとした。それは自分の使い方のバランスが悪いからだ。今の時代、案外みんなそうかもしれない。だから、著者はこう提案する。「若干、心を多めに使う

コメントを投稿