すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

焼け跡という認識

2022年03月15日 | 雑記帳
 「ちくま」3月号の連載書評「世の中ラボ」で、東京五輪を検証した3冊を取り上げて、筆者はこんなふうに、そのコーナーを締めくくった。




 筆者自身も8年以上前の招致から反対の意志を示していたし、今「大罪」「失敗連鎖」と断ぜられたことに共感している。贔屓目に見ても「成功」などと口にはできないし、それは北京冬季五輪にも同様に強く感じた。取り上げられた一冊の中に「三度目の敗戦」と述べられた一節があり、そこを意識したフレーズだ。


 ただ、今「焼け跡」という語を使うと、どうしてもウクライナと重ねあわせることになる。映像とはいえリアルタイムで建造物や道路、公的施設などの破壊が進んでいる。現実としての焼け跡はこの瞬間にも広がっている。しかし、ここで「それと比べれば…」という思考は意味を成さない。何を失ったのか、である。


 引用された一節に、強行開催された五輪が残した負債は「可視化できるものから精神的なものまで、多岐にわたる」とある。可視化できることに、会場整備工事等により直接的な影響を被った点、また強力な推進によって疎外された多くの難問を突き付けられた方々の存在がある。そして、それ以上に精神面は大きい。


 あまりに頻発した人的な事前トラブル、そして巧妙に隠され続けたスポンサー問題、報道機関の多くが加担したので拡がらないという事実は、この国が本当の戦争に巻き込まれそうになった場合の不安が増大する。これはもはや在住地の如何を問わない。「焼け跡」という認識から、まず復興させるべきことを考えたい。


コメントを投稿