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「スタンダード」に寄り掛かるな

2017年11月03日 | 教育ノート
 違和感を抱いていたので、その言葉をけして自分からは言い出したことはなかった。考え方を否定するものではないが、それで覆われていく傾向を警戒していた。だからあえて「目の前の子を見て」「自分の好きなこと、得意なことを生かして」を強調してきたつもりだ。今、改めて振り返るとやはり少し怖い言葉だ。



 たまたまツイッターで紹介されていて、やはり本県教育界がその一端を担っていると考えている人もいたか、と思った。→授業・生活指導…「一律に」学校現場で広がるスタンダード。もちろん以前から私と同様なことを考えていた方も少なくないはずだ。こんな文章を書く人もいた→教育「スタンダード」の違和感


 経営には方針や目標が必要であることは言うまでもない。そのためのキーワード、スローガンは浸透のために有効になる。しかし下種の勘繰りと言われそうだが、上に立つ者が自らのアピールを強めるだけで、底が浅いという例は、枚挙に遑がない。むろんそこに悪意はないのだが、少し卑しい顔つきが覗いたりする。


 教職に就いた頃、傾倒していた数学者遠山啓の文章に「教師はペンキ屋ではない」という一節があった。(念のためペンキ屋という職業を愚弄しているわけではない)。子どもを一律に塗り込めるような教育に対する批判である。それはその後、様々な運動に学んだ自分にとって、手放してはならないと決めた警句だった。


 「〇校スタンダード」という言い方が機能している好例はあるだろう。しかし画一的な傾向に陥っている所はないのか。公教育である限り標準、基準は当然だが、スタンダードを幹とするなら、その根の部分は何なのか常に明確にし、何層もの働きかけによって太くするべきだ。けして寄り掛かるためのものではない。

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