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仮想の相手に時候の挨拶

2022年07月29日 | 雑記帳
 先週、町内の小学校の三年生が来館した。勤務日ではなく様子は観られなかったが、今日それぞれの感想を記し綴じられたものが届けられた。ざっと目を通してみると、内容はともかく見学した当日の午後にいわゆる「手紙文」の学習として取り上げたらしく、二十数名全員が冒頭に以下のような形で書き出していた。

 あじさいがきれいにさくきせつになりました。
 今日は見学させてくれてありがとうございました。


 「あじさいがきれいにさく」の箇所は、それぞれに考えた(らしい)文章になっている。「ひまわりがきれいにさく」「ふうりんの音がきれいに鳴る」や「夏やさいがおいしい」もあれば「プールに入りたくなる」「かきごおりが食べたい」といった素直な心情にあった語を使った文もあった。時候の挨拶を書く活動だろう。



 手紙・はがきを書く学習はもちろん今でも残っているはずだ。ただ、改めてこうした活動に接すると、この学習は伝統文化的な内容になってしまったなあと思う。文字を使って伝える活動はなくなりはしないが、時候の挨拶をする機会が自分でさえも縁遠くなっていることに気づいてしまう。何年遠ざかっているのか。


 仮に思い立って書くとすれば、もはや一般的な書き出しつまり定型的な内容では意味をなさない。届ける対象は、例えばかつて親密だったが次第に疎遠になった友や、遠い昔お世話になり偶然の伝手で縁を再開させようとした方と想定した時、冒頭に記す時候の挨拶は、極めて個人的な、相手と結ぶ一節でなくては…。


 Sさんへ
 五十年前、〇〇公園のステージに一緒に立った夏もこんなふうに熱かったことを思い出します。お元気ですか。


 Hさんへ
 鮮やかな黄色がまぶしい向日葵。この夏も御宅の庭先で凛とした姿を見せてくれている頃かと思います。ご壮健でいらっしゃいますか。

 と、仮想の相手に時候の挨拶を練り、懐かしむひと時を過ごす。