すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

母性で女性は分たれる

2015年07月08日 | 読書
 【2015読了】61冊目 ★★★
 『母性』(湊かなえ 新潮文庫)

 単行本が出版されたとき、作者の言葉がキャッチコピーとして使われていた。「これが書けたら、作家を辞めてもいい。その思いを込めて書きあげました。」当時、湊かなえの文庫(告白やら少女やら)にはまり始めていた時期なので印象深い。ようやくの文庫出版、作者が込めた思いとはいかほどか…。読み終えて、他作品と比べて飛びぬけた感はなかった気がする。


 ただ、語り手を複数にするお得意の形式とはいえ、主たる「母」と「娘」の持つ感情の食い違い、そして女性特有?のどろどろ感はいつもより強かったかな、という気がする。これまでも多くは女性の語り手だったが、ここまでの切実さが繰り返し出てくるのはなかったかもしれない。対比されられているのは、言うまでもなく「母」と「娘」。女性の区分だ。


 そう考えると「母性」を「母の手記」と「娘の回想」という形で語らせるのはなるほどだし、「もう一人」の登場がその対照性をうまく束ねている。そこの辺りの仕掛けが上手だ。それにしても解説にもあったが「母」という語の多様な意味、比喩としての波及性に比べ、「父」の単純さである。登場する男たちも、皆ある意味単純であり、どうにも共感してしまう。


 仕掛けといえば、話のクライマックスシーンで、娘の名前が叫ばれ、その固有名詞の登場が初めてであることも、そこで気づかされる。その象徴性は案外単純なものだろう。自分とは○○である、というテーゼを立てようとするとき、そこに「名前」と入れることは実に簡単で、実に奥深い。他と自分を分かつものは「名」でしかない。ゆえに「命名」というか。


 全体を貫く印象的な台詞として「愛能う限り」がある。どういう意味か、わからなかった。本を読み終えてから辞書を開くと「能う限り(あたうかぎり)」は「できる限り」と載っている。「愛能う限り」…言葉として綺麗で語感もいい。しかし、その響きに酔ってしまいそうな印象がある。物語の台詞としては秀逸だが、現実では酔ったり溺れたりする語は警戒する。