すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

身の丈で、足元を見つめ

2008年02月03日 | 読書
 『歌謡曲の時代 歌もよう人もよう』(阿久悠著 新潮文庫)に、次のような文章がある。

 あるがままにとか身の丈に合ったとかが、情報化社会の中でいちばん困難なことであろう。

 若者に人気のある女性歌手が暴言を吐いたと、陳謝し、しばらくの間謹慎すると今日のメディアは伝える。そういう類の話が連日のようにある。まるで情報が「正義」のように振舞って、個人を追いつめていくようだ。
 発言をめぐる様々な騒動を見ても、どの程度のラインがセーフで、それにどんな表情、ニュアンスが加わるときに加点減点があるのか、なかなか見えにくくなってきている。

 阿久悠は書いている。

 昭和と平成の間に歌の違いがあるとするなら、昭和が世間を語ったのに、平成では自分だけ語っているということである。

 見えていた世間が姿を消していることと重なる。「所詮、世間とはこんなものだ」という共通認識は、良くも悪くも一定の線を私たちに示していたように思う。しかし「私」だけが持てはやされ、結局それと対峙している社会とか世界だけがとてつもなく大きいものになり、その間がスカスカになっている。
 従って、寄りかかる、振り回される。

 そのあげく、自分さえも見えなくなってきているのではないか。
 自分のあるがままも、身の丈も。

 阿久悠は「ピンポンパン体操」から「北の宿から」「五番街のマリー」まで、実に世間を描ききった作詞家だと思う。世間にいる(いそうな)人が立ち上がってくる歌だ。
 あの河島英五が書いたとばかり思っていた名曲「時代おくれ」が阿久の作品であったことに少し驚いたが、また象徴的だと思う。

 その創作の意図は、こんなふうに記されている。

 スタスタと大股で歩いた歩幅の真中あたりに、跨いで通ってはいけない大切なものがある