貞松・浜田バレエ団(本部・神戸市)が、クラシックの中のクラシックといっていいでしょう、チャイコフスキー作曲の「白鳥の湖」を尼崎のアルカイックホールで上演しました(9月22日)。
薄幸の王女オデットと王子ジークフリートの悲しい愛の物語です。
哀れな悲恋も最後は美しい救いのシーンで終わるのですが、今回の公演ではとくに悲劇の側面がくっきりと浮き彫りにされ、それだけ舞台も深くなって、おとなの心にも大きく響く作品になりました。
貞松・浜田バレエの「白鳥の湖」が、もちろん少年少女たちの夢を広げる美しさをいっそう高めながらのことですが、さらに成人の心も打つ精神的な舞台にまで“成熟”を遂げたといえるでしょう。
「白鳥の湖」はマリウス・プティパ(フランス生まれ)とレフ・イワノフ(ロシア生まれ)が1889年にロシア帝室バレエ団のために振り付けた、いわば“公式の形”を基本に置いて、今日もいろんなバレエ団で上演が続いていますが、おのおののシーンではそれぞれのバレエ団のコレオグラファー(振付家)が新しい工夫をこらして、これがバレエ団独自のおもむきを深めます。
貞松・浜田バレエ団の「白鳥の湖」では団長夫人の浜田蓉子さん(代表)と子息の貞松正一郎さんが振り付けを担当していますが、今回はとくにフィナーレに劇的な変更が加えられました。
オデットとジークフリートは無念にも悪魔ロットバルトの呪いを解く方法をなくしてしまって、最後にはふたりして湖に身を投げて命を断ってしまうのですが、これまではおそらくその残酷なラストの印象をできるだけやわらげたいという思いが振り付けにも働いていたのでしょう、入水したふたりが作り物の白鳥の舟に乗って幸福そうに渡っていくところで幕になっていたのです。
ふたりの死のインパクトがいわば計画的に弱められ、それだけおとぎ話で終わる感じがおしまいのところで強くなっていたのです。
それを今回は作り物を使うのをやめ、ふたりが湖に消えたところで舞台の流れをスパッと切って、ああ、恋人たちはとうとうこの世を去ったんだ、という思いを観客みんなにはっきり印象づけました。
そして一拍か二拍の間を置いて、ふたりが仲良く身を寄せ合っているシルエットをホリゾント(舞台奥)の中空に浮き上がらせて、向こうの国で結ばれ合う恋人たちを強く暗示したのです。
すばらしい効果といっていいでしょう。
一瞬のことですが、観客はそこで大きな感情の落差を経験したのです。
鋭い心の痛みと、しかしそれを乗り越える大きな救いの気もちです。
生の意味、死の意味、そしてその先の再生のビジョンをしっかりと受け止めることになったのでした。
しかもこれはラストの一シーンの成功だけに終わるものではありません。
それまでの出来事のいっさいが強靭な一本の糸で一気に関連づけられて、まさしく幕が下りる直前に作品全体がもう一度見事に立ち上がってきたのです。
さてオデットを務めた瀬島五月さんのすばらしい踊りについては、このブログの姉妹編の「批評紙Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」に詳しく書いていますので、ここでは舞台を分厚くするもうひとつの要素となった川村康二さんのロットバルトに触れておきたいと思います。
強調すべきは、川村さんのロットバルトが、ただ不気味なだけの、単純な悪魔ではなかったということです。
どこか寂しさの漂う、孤独な、むしろ物思いにふけりがちな、しかし巨大な魔力を自在に扱う不思議な悪魔ができあがりました。
チャイコフスキーが最初に「白鳥の湖」を作曲したとき、悪魔ロットバルトにはあまり重要な位置づけはなされていなかったといわれます。
しかし今日、この作品の奥行きないし射程距離は、むしろロットバルトの存在感がどのようにかたちづくられているかによって、決定的に左右されます。
この大魔王は時代とともにますます深く読み込まれ、成長し、どんどん巨大な影をおびてきたといえるでしょう。
川村さんの悲しげな、まるで裸形の神経のように鋭い心のロットバルトは、悪魔とオデットとの関係にも、単に悪意とその犠牲者という図式を超えて、もっと心理的に微妙で複雑なつながりを感じさせることにもなりました。
舞台全体にある種の哲学的陰影を映し出すことにさえなったのです。
「白鳥の湖」という作品の底知れなさをわたしたちにあらためて思い知らせたともいえるでしょう。
☆
なおオデット評については「Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」の「運命と対決するオデット」をお訪ねください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
薄幸の王女オデットと王子ジークフリートの悲しい愛の物語です。
哀れな悲恋も最後は美しい救いのシーンで終わるのですが、今回の公演ではとくに悲劇の側面がくっきりと浮き彫りにされ、それだけ舞台も深くなって、おとなの心にも大きく響く作品になりました。
貞松・浜田バレエの「白鳥の湖」が、もちろん少年少女たちの夢を広げる美しさをいっそう高めながらのことですが、さらに成人の心も打つ精神的な舞台にまで“成熟”を遂げたといえるでしょう。
「白鳥の湖」はマリウス・プティパ(フランス生まれ)とレフ・イワノフ(ロシア生まれ)が1889年にロシア帝室バレエ団のために振り付けた、いわば“公式の形”を基本に置いて、今日もいろんなバレエ団で上演が続いていますが、おのおののシーンではそれぞれのバレエ団のコレオグラファー(振付家)が新しい工夫をこらして、これがバレエ団独自のおもむきを深めます。
貞松・浜田バレエ団の「白鳥の湖」では団長夫人の浜田蓉子さん(代表)と子息の貞松正一郎さんが振り付けを担当していますが、今回はとくにフィナーレに劇的な変更が加えられました。
オデットとジークフリートは無念にも悪魔ロットバルトの呪いを解く方法をなくしてしまって、最後にはふたりして湖に身を投げて命を断ってしまうのですが、これまではおそらくその残酷なラストの印象をできるだけやわらげたいという思いが振り付けにも働いていたのでしょう、入水したふたりが作り物の白鳥の舟に乗って幸福そうに渡っていくところで幕になっていたのです。
ふたりの死のインパクトがいわば計画的に弱められ、それだけおとぎ話で終わる感じがおしまいのところで強くなっていたのです。
それを今回は作り物を使うのをやめ、ふたりが湖に消えたところで舞台の流れをスパッと切って、ああ、恋人たちはとうとうこの世を去ったんだ、という思いを観客みんなにはっきり印象づけました。
そして一拍か二拍の間を置いて、ふたりが仲良く身を寄せ合っているシルエットをホリゾント(舞台奥)の中空に浮き上がらせて、向こうの国で結ばれ合う恋人たちを強く暗示したのです。
すばらしい効果といっていいでしょう。
一瞬のことですが、観客はそこで大きな感情の落差を経験したのです。
鋭い心の痛みと、しかしそれを乗り越える大きな救いの気もちです。
生の意味、死の意味、そしてその先の再生のビジョンをしっかりと受け止めることになったのでした。
しかもこれはラストの一シーンの成功だけに終わるものではありません。
それまでの出来事のいっさいが強靭な一本の糸で一気に関連づけられて、まさしく幕が下りる直前に作品全体がもう一度見事に立ち上がってきたのです。
さてオデットを務めた瀬島五月さんのすばらしい踊りについては、このブログの姉妹編の「批評紙Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」に詳しく書いていますので、ここでは舞台を分厚くするもうひとつの要素となった川村康二さんのロットバルトに触れておきたいと思います。
強調すべきは、川村さんのロットバルトが、ただ不気味なだけの、単純な悪魔ではなかったということです。
どこか寂しさの漂う、孤独な、むしろ物思いにふけりがちな、しかし巨大な魔力を自在に扱う不思議な悪魔ができあがりました。
チャイコフスキーが最初に「白鳥の湖」を作曲したとき、悪魔ロットバルトにはあまり重要な位置づけはなされていなかったといわれます。
しかし今日、この作品の奥行きないし射程距離は、むしろロットバルトの存在感がどのようにかたちづくられているかによって、決定的に左右されます。
この大魔王は時代とともにますます深く読み込まれ、成長し、どんどん巨大な影をおびてきたといえるでしょう。
川村さんの悲しげな、まるで裸形の神経のように鋭い心のロットバルトは、悪魔とオデットとの関係にも、単に悪意とその犠牲者という図式を超えて、もっと心理的に微妙で複雑なつながりを感じさせることにもなりました。
舞台全体にある種の哲学的陰影を映し出すことにさえなったのです。
「白鳥の湖」という作品の底知れなさをわたしたちにあらためて思い知らせたともいえるでしょう。
☆
なおオデット評については「Splitterecho(シュプリッターエコー)Web版」の「運命と対決するオデット」をお訪ねください。Web版はhttp://www16.ocn.ne.jp/~kobecat/
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