先日、TV で、給食費を払わない親など学校教育関連の話題について、先生方とタレントが集まって、「やんややんや」やっていました(司会はたしか爆笑問題だったような)。その中で、「物語の内容を変えてしまう学芸会」(って感じのタイトル:うろ覚え)というビデオがあって、幼稚園(保育園)児らによる「桃太郎」の劇が流されていました。そして、その中でおじいさん(先生がやっている)が桃を切った場面で、中から「桃太郎」が何人も出てくる(たぶん演じた組の園児全員でしょう)という、トンデモなシーンを目の当たりにしました。
おいおい、ちょっと待てよ。たしかに、自分の子供が主人公ってのは、嬉しいでしょうけど、それじゃー、物語が進まない。そりゃー、息子(娘)の晴れ舞台を楽しみたいって気持ちは分かりますが、それを不公平なしで平等にって考えは、その時点でおかしい。親バカは仕方ないけど、そりゃー子供をペットかなんかと思ってないか?
よく考えてみなよ。世の中には、不条理というものが存在し、常にそれは付きまとうモノ。幼稚園児でも、その不条理というものを感じることが出来るはず。少なくとも自分の記憶を辿れば、幼稚園時代に、不条理を感じたことは何度もあった。
その不条理というのは、トラウマにもなる可能性はあるけど、時にはその劣等感がバネになる場合だってよくある。というか、そーゆー経験は、もうこの時期から始まっている。それを大人が、甘やかして、現実と離れて無いことにしようという考えが歪んでいる。
「学芸会」「運動会」は、花形イベントではあるが、それは毎年あることだ。年少、年中、年長。さらに小学1~6年まで、中学はさすがに多くの親はでしゃばらないだろうから除外しても、9年間あるわけで、その中で、いい役が一回あればいいじゃないか。
そのときの優劣が、必ずしも後の優劣ではない。特に幼稚園のときなんて、生まれた時期によっても成長度が違っているのだから仕方ない面だってある。逆転はいつでも起りうるし、子供だって、去年の屈辱を晴らすべく努力する可能性だってある。また、逆にその全てがダメだったとしても、それが自分には向いていないのだと諦めも付く。
「3年前はペンギンでした。」
とんねるずがまだ売れ初めのころ、新春かくし芸大会でやったのが、ペンギンの着ぐるみを着せられ、台詞もほとんどないチョイ役でした。そして、見事ブレイクした後に言った有名な言葉です。
「ペンギン」の屈辱が、その後のバネになったかどうかは微妙ではありますが、「ペンギン」があったからこそ、そう語れるのです。成長の過程を得ることがいかに必要であるか示していると思います。
幼稚園でみんなと同じ「桃太郎」の主役になっても、それでは、成長することはできません。最初から主役をしたら、それ以上はもう無いし、後は堕ちるか保つしかありません。それを、自分の意思ではなく、別の意思で最初に決められてしまうのです。そんな不幸はありませんよ。
「なんで、あの子が桃太郎で、私が鬼Cなのさ」
その屈辱と不条理は一生心に刻まれ、「いつか桃太郎になってやる」を違った形で目指すことが出来るのです。それこそが一番大切なんじゃないでしょうかね。
おいおい、ちょっと待てよ。たしかに、自分の子供が主人公ってのは、嬉しいでしょうけど、それじゃー、物語が進まない。そりゃー、息子(娘)の晴れ舞台を楽しみたいって気持ちは分かりますが、それを不公平なしで平等にって考えは、その時点でおかしい。親バカは仕方ないけど、そりゃー子供をペットかなんかと思ってないか?
よく考えてみなよ。世の中には、不条理というものが存在し、常にそれは付きまとうモノ。幼稚園児でも、その不条理というものを感じることが出来るはず。少なくとも自分の記憶を辿れば、幼稚園時代に、不条理を感じたことは何度もあった。
その不条理というのは、トラウマにもなる可能性はあるけど、時にはその劣等感がバネになる場合だってよくある。というか、そーゆー経験は、もうこの時期から始まっている。それを大人が、甘やかして、現実と離れて無いことにしようという考えが歪んでいる。
「学芸会」「運動会」は、花形イベントではあるが、それは毎年あることだ。年少、年中、年長。さらに小学1~6年まで、中学はさすがに多くの親はでしゃばらないだろうから除外しても、9年間あるわけで、その中で、いい役が一回あればいいじゃないか。
そのときの優劣が、必ずしも後の優劣ではない。特に幼稚園のときなんて、生まれた時期によっても成長度が違っているのだから仕方ない面だってある。逆転はいつでも起りうるし、子供だって、去年の屈辱を晴らすべく努力する可能性だってある。また、逆にその全てがダメだったとしても、それが自分には向いていないのだと諦めも付く。
「3年前はペンギンでした。」
とんねるずがまだ売れ初めのころ、新春かくし芸大会でやったのが、ペンギンの着ぐるみを着せられ、台詞もほとんどないチョイ役でした。そして、見事ブレイクした後に言った有名な言葉です。
「ペンギン」の屈辱が、その後のバネになったかどうかは微妙ではありますが、「ペンギン」があったからこそ、そう語れるのです。成長の過程を得ることがいかに必要であるか示していると思います。
幼稚園でみんなと同じ「桃太郎」の主役になっても、それでは、成長することはできません。最初から主役をしたら、それ以上はもう無いし、後は堕ちるか保つしかありません。それを、自分の意思ではなく、別の意思で最初に決められてしまうのです。そんな不幸はありませんよ。
「なんで、あの子が桃太郎で、私が鬼Cなのさ」
その屈辱と不条理は一生心に刻まれ、「いつか桃太郎になってやる」を違った形で目指すことが出来るのです。それこそが一番大切なんじゃないでしょうかね。
私は小学の高学年になるまで学芸会で「劇」を
やった記憶はありません。そういうのを気にするのならダンス(お遊戯?)をやればいいのに…。
あ。ちなみにその手ので私が一番目立ったのは小学校高学年の劇で悪役(怪物)の「声優」をやったこと。
でも顔が出てない…ってあれ?怪物の中の人はそういう話ですらないな…。
まあ高学年ならそれもありですね。多分。
で、脇役の魅力ってのもあるわけだし、主役より脇役のほうが凄いことだってある。
ちなみに、オレが一番目立ったのは、幼稚園時代の運動会の飛び箱ですかね。学芸会のほうは、さっぱりだったんでしょうね。何役だったか記憶すらない。そっちの才は無いようです。
あ、そういえば昔やってた「みにくいアヒルの子」って TV 番組の「一番星」ってのを思い出しました。人には何かしらいいところと少しだけ人より優れているところがある。それを知って、お互いがそのことを認め合えばそれでいいじゃん。って思うんですけどね。何でもかんでも欲しがり屋さんは困ったモンですね。