平成18年12月22日(金)冬至わずかにわずかに
今日は持統天皇の崩御(行年数え58)された。持統帝の父は天智天皇,夫は天武天皇(天智帝の弟)。
歴史視的には天武・持統朝とされ律令体制が整った時代とされている。天皇という称号が確立したのもこの頃とされる。
今風に言えばの近代国家になったということ。彼女はその体制確立に夫君天武とともに尽力した豪腕の女帝という見方が大方である。
女帝の豪腕を語る際によく引き合いに出されるのが,実子の草壁皇子の立太子にまつわること。
天武帝には優れた長子・武市皇子がいた。本来であれば彼が次期天皇である。しかし,聡明な彼は自ら皇太子になることをさけた(壬申の乱の二の前をさけたともいえる)。
その裏には持統帝(まだ鵜野讃良皇后)の実子・草壁皇子への譲位画策があったことを彼が察知していたからだといわれている。
その草壁が皇太子になっても,持統帝はやはり聡明な大津皇子の存在が気になる。そしてついには謀反の疑いをかけ,大津皇子を死に追いやったのである。
しかし,草壁皇太子は即位するまえに,薨去。そこで持統天皇は,ならば草壁の実子,つまり直系の孫・軽皇子が即位するまでの間,武市を片腕に自分が即位(ここで持統天皇となる)し,軽皇子(後の文武天皇)につなごうとしたのである。
母は強しを絵にかいたようなことではあるが,これ以後皇位は兄弟間で行われることが原則的になくなり,直系子孫に譲位されるようになったのである。その意味では皇室の近代化を図ったともいえるのである。いずれにせよ聡明な女帝であったことは間違いない。
←百人一首で有名な持統天皇御製。この絵柄は当時の服装を反映していませんが。
そこで,コミックの紹介,里中満智子『天上の虹-持統天皇物語-』(講談社)がその辺の時代考証は正しいような。
一読の価値ありである。ただし,書き下ろしなので,まだ完結していない。里中氏の体調しだいか?
もう一人古代の有名人で命日なのは,小野篁 (歌人,政治家 行年数え51) 。
小野篁は遣隋使を務めた小野妹子の子孫で,父は小野岑守。孫に三蹟の一人小野道風・小野小町などがいる。
彼のエピソードとしては,承和元年(8344年),遣唐副使に任ぜられるが,承和5年(838年)に正使とのいさかいから,病気と称して職務を事実上拒否したため,嵯峨上皇の怒りにあい壱岐に流された。2年後に許されて帰京し,従三位参議に至ったというもの。
今ひとつは奇怪な伝説の類,夜ごと井戸を通って地獄に降り,閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたというものである。
この井戸は,京都東山の六道珍皇寺にあり,また珍皇寺の閻魔堂には,篁作と言われる閻魔大王と篁の木像が並んで安置されているからそれらしい。魔界を信じていた当時らしいエピソードではある。
←地獄への井戸
なお今日は,俳人・阿波野青畝( 行年93)の忌日でもある。
狐火を詠む卒翁でございかな 青畝
威銃大津皇子は天に在り 青畝