美島奏城  豊饒の海へ

豊饒の海をめざす、教育と文芸と風流に関する備忘録

日乘  伊東静雄忌・菜の花忌

2007年03月12日 | 詩人

 

平成19年3月12日(月)

 

 昭和28年(1953年)の今日は,詩人・伊東静雄の命日,行年46。『わがひとに與ふる哀歌』『夏花』などの詩集をのこした。日本浪漫派の流れにいる詩人である。
 旧制中学の教師をしながら,創作に打ち込んだ。

 『夏花』から私の好きな作品を。伊東が30歳のときの作。

 

 八月の石にすがりて

 

 八月の石にすがりて
 さち多き蝶ぞ,いま,息たゆる。
 わが運命(さだめ)を知りしのち,
 たれかよくこの烈しき
 夏の陽光のなかに生きむ。

 運命? さなり,
 あゝ われら自ら孤寂(こせき)なる発光体なり
 白く外部世界なり。
 

 見よや,太陽はかしこに
 わづかにおのれがためにこそ
 深く,美しき木陰をつくれ。
 われも亦,

 雪原に倒れふし, 飢ゑにかげりて
 青みし狼の目を,
 しばし夢みむ。


 ちなみに伊東の忌日を「菜の花忌」ともいうのだが,今では司馬遼太郎の命日も同名として有名になってしまったので,個人的には伊東の方を別の名称にしたらと思う。たとえば「青狼忌」とか。
  
  

 


日乘  みすゞ忌

2007年03月10日 | 詩人

平成19年3月10日(土)東京大空襲記念日

 

 東京大空襲が米国によって行われた。綿密な計画の下に囲い込むようにして我国民を焼死させた。明瞭な戦争犯罪である。
 しかし,この件で米国が謝罪したことはない。原爆投下のことすら当然の如くに考える国であるから。
 とはいえ,世界で自国の過去の過ちを国家として謝った国はほとんどない。英国はアヘン戦争などについて支那に謝ったことはない,韓国はベトナム戦争で自国兵士がしたことを謝罪したことはない。かつての植民地所有国で謝罪した国はない。
 その例外が先の戦争について謝罪した我国日本である(ドイツは国家としては謝罪していない。すべてをヒトラーらの責任にして個人賠償をしただけ。)。
 それでも我国の某新聞は謝っていないと糾弾するが,その新聞はマッチポンプのような新聞で我国が亡くなるまで糾弾するだろうから聴くに値しない。

 

 さて今日は童謡詩人・金子みすゞの命日。行年26。

 詩人・西条八十から「若き童謡詩人中の巨星」と称えられたが,結婚後,理解のない夫から詩作を禁じられ,しかも夫から病をうつされた末に,毒を飲み自ら命を絶った。
 地元・山口では知られた存在だったが,全国的になったのは矢崎節夫氏の再発見によるところである。

 


日乗  大東亜戦争開戦日・暮鳥忌・文明忌

2006年12月08日 | 詩人

 

平成18年12月8日(金)大東亜戦争開戦日

 

山村暮鳥忌・諸橋徹治忌・土屋文明忌

 

 今日は大東亜戦争の開戦日,4日後の12月12日に,当時の情報局は「今次の対米英戦は支那事変を含めて大東亜戦争とよぶ」と発表した。これは大東亜の白人からの解放を目指して行うとしたからである。
 歴史的に正しい語句をつかっていくことが大切ではないかとおもう。

 

山村暮鳥忌(行年40)本名・土田八九十(つちだはくじゅう)
 群馬県出身・クリスチャン・トップ画像が慕鳥


慕鳥の主宰誌「苦悩者」

 代表作「聖三稜玻璃」・「風は草木にささやいた」・「雲」など」

 

「聖三稜玻璃」より

風景
純銀もざいく

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
かすかなるむぎぶえ
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
ひばりのおしやべり
いちめんのなのはな

いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
いちめんのなのはな
やめるはひるのつき
いちめんのなのはな


誘惑

ほのかなる月の觸手
薔薇の陰影のじふてりあ
みなそこでなくした瞳
それらが壷にみちあふれる。
榲悖のふくらみ
空間のたるみ
そして愛の重み
蟲めがねの中なる悲哀。




ふところに電流を仕掛け
眞珠頸飾りのいりゆじよん
ひかりまばゆし
ぬつとつき出せ
餓ゑた水晶のその手を……
おお酒杯
何といふ間拔けな雪だ
何と……凝視るゆびさきの噴水。


いのり

つりばりぞそらよりたれつ
まぼろしのこがねのうをら
さみしさに
さみしさに
そのはりをのみ。

 


諸橋徹次忌(行年99)漢学者・新潟出身 

 生涯,漢学研究に情熱を傾けた諸橋轍次は,明治16年,下田村に誕生。東京高師卒業後,都内の大学教授を経て,戦後は都留文科大学学長に就任。この間50余年にわたり儒学を研究,大漢和辞典編纂という偉業を成し遂げた。
  諸橋家は,与板城主・直江兼続の子孫で,大面組(現・栄町)で大庄屋を務めた名家です。生家は,昭和41年に村の文化財第1号に指定。
 近年補修工事が行われ,屋根は現在ほとんど姿を消した杉皮葺きに石を載せ,旧来の姿のままに復元されている。

 

 

土屋文明忌(行年100)歌人
 
 明治23年,群馬県出身。伊藤左千夫を頼って上京,左千夫の家に住み込み短歌の指導を受け「アララギ」に参加する。その後,一高・東大に進む。一高・東大の学友に山本有三・近衛文麿・芥川龍之介・久米正雄らがいた。東大在学中から芥川,久米らと第三次「新思潮」の同人に加わり、井出説太郎の筆名で小説、戯曲を書いた。

 大正6年,「アララギ」の選者に加わる。大正7年から13年まで,島木赤彦の紹介により諏訪高女の教頭として赴任し,諏訪高女,松本高女の校長を歴任する。大正14年,第一歌集『ふゆくさ』を出版,歌壇の絶賛をあびる。

 

 主な著書に『万葉集年表』,『万葉集私注』,『短歌入門』,『ふゆくさ』,『山谷集』,『韮菁集』,『山下水』,『青南集』等。

  
      

『山谷集』より (昭和5年~9年)

 冬草の青きこひつつ故郷に心すなほに帰りたく思ふ

 故郷をひきかへし来て武蔵の国山野ゆきつつ足ると思へや

 のぼり来し峠の上ゆふるさとの赤城の山が見ゆといふものを