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美島奏城  豊饒の海へ

豊饒の海をめざす、教育と文芸と風流に関する備忘録

太宰治“斜陽”への旅

2009年10月04日 | 小説家

  ETV特集「太宰治“斜陽”への旅 生誕百年ベストセラー誕生の知られざる物語」を観てしまった。太田治子氏がゲストのような立場で出ていた。

 

  今年が太宰治生誕100年あることは当然知っていた。ついでにいえば松本清張もそうだ。

 

  ちょっとした文学好きなら、太宰治がいかに今でも人気作家であるかを知っていて、その娘も作家(津島佑子・太田治子)であることを知っている。(太宰の生き方に嫌悪感持つ者が多いのも事実。つまり好悪のはっきりしている作家だろう)

 

  その太田治子が『斜陽』のモデル・太田静子(トップ画像)と太宰治との間の子どもであることも常識であろう。

 

  太田治子氏はかつてNHKで日曜美術館に出ていたので比較的津島佑子氏よりは「顔」の認知度は高いであろうか。

 

  正直、今夜、久しぶりにそのお顔を拝して、一層太宰に似てきたなと云う感想を禁じえなかった。親子だから当たり前だが。

 

  私は学生時代から太宰文学には教養程度(文庫本はすべて読んだ程度)にしか触れていないが、彼に翻弄された太田静子や治子氏には、一種応援したい気持がしていた。

 

  それで、太田治子氏の本も読んでみたのだった。1979年の『青春失恋記』だったな。もちろん初版、といっても価値はあまりないだろう。

  番組中の太田治子氏の、太宰も母も「芸術至上主義者ですよ」という言葉に納得するしかなかった。

 

 
太田静子

 

  
  太田治子

 

   
    津島佑子



かるた

2008年11月16日 | 小説家

  この時季になると、本屋にはカルタが並ぶ。年末の一つの風物詩といえるだろう。

  伝統的な百人一首から江戸カルタ、現代的な都道府県カルタ、もったいないおばさんカルタなどいうのもあった。


吉村昭著『わたしの普段着』

2008年06月07日 | 小説家

  吉村昭の最新の文庫本がでた。「冬の鷹」を読んで以来、吉村氏の作品が好きで、その文庫本はほぼすべて購入している。

  今回のものは随筆集である。悪い癖で、目次を確認後、「解説」まず読んでしまう。最相葉月氏がその筆をとっていた。

  その解説に気に入った句があった。

  「妥協とは見なかった者の傲慢である」

  ノンフィクションライターである最相氏が吉村から得た教訓である。

 

  また、最相氏は吉村の文学の視点を暗示しているだろう俳句を四句紹介している。

 

  無人駅一時停車の花見かな

  巻かれたるデモの旗ありビヤホール

  夕焼けの空に釣られし子鯊かな

  冬帽の人は医者なり村の道

 

  吉村の文学に登場する主人公の人生を思わせる俳句である。この四句を知っただけでも、買った価値はあった。

 


日乘  読書

2007年08月04日 | 小説家

平成19年8月4日(土)

 

  私の卒論は三島由紀夫と小林多喜二であった。三島は戦後最大の作家である。また,小林はプロレタリア文学界で最も有名な作家である。

  卒論では,この二人の共通性を殉教の美学として論じたのであった。

  序に久坂葉子をしつらえた。

  今回の本は三島が自衛隊に体験入隊していたときの様子を著したのものだった。初めて見る写真資料もあり参考になった。


日乘  檸檬忌

2007年03月24日 | 小説家

 

平成19年3月24日(土)一時強風&雨

 

  昭和7年の今日は梶井基次郎の命日で,彼の代表作の『檸檬』にちなんで檸檬忌と呼ばれる。行年31。

  己の非日常なる心象を,「えたいの知れない不吉な塊」と呼ぶ青年(まず梶井の分身と考えてよい)は,その心象を氷解すべく,本屋(丸善京都支店:知の権威の具象として)の画集の上に爆弾としての檸檬を置くといういたずらをする。
  

  端から見ればいい齢をした青年がいたずらをした,としか見えない行動を高尚な青春小説にまでに賞揚したわけだ。

  掌編なので高校の教科書にのったり夏休の課題図書になったりと今でも人気の作品である。
  また,檸檬のもつシンボル性に引かれる若者も多いに違いない。

 
昭和初期の丸善京都支店


日乘  原民喜忌

2007年03月14日 | 小説家

 

平成19年3月13日(火)気温は意外にあがらず 

 

  今日は『夏の花』で有名な詩人・小説家の原民喜の命日。行年,46。朝鮮戦争に対する憤死的な自裁であったという。
 『夏の花』は直接的には,ヒロシマ原爆をテーマにしているが,深いところでは愛妻・貞恵夫人の死が融合している。
 本当に無口だった民喜の言葉を外部へ通訳したのは夫人だったのである。夫人なしに民喜の名声はなかったともいえるのである。
 だから,終戦の前年に病で亡くなった夫人の重要なモチーフであったにちがいないのである。2つの喪失せしものへのレクイエムであるわけである。


貞恵夫人

 

 

 


日乘  佳人薄命(ブロンテ姉妹)

2006年12月19日 | 小説家

 

平成18年12月19日(火)わずかに 

         多忙にて未完のまま

 

  切り取りしふゆの模様や友到る  奏城

 

 今日は,あの大岡越前の命日。テレビで有名になった町奉行には,北町奉行の遠山景元(金さん:後に南町奉行も)と,南奉行の大岡がいた。
 ところで江戸町奉行にはほんの一時,中町奉行所というのがあって,テレビ番組(江戸・中町奉行所:近藤正臣や田中健が出演)にもなったが,人気は今ひとつであった気がする。でも,今となってはレアものとして価値があるような。

大岡忠相

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて今日は,英国の美人三姉妹の話。ブロンテ姉妹のことである。姉妹のうち,次女のエミリーの命日が今日。ブロンテ姉妹は全員が美貌の持ち主でしかも若くして亡くなっているという共通点がある。医療が進んでいなかった19世紀初頭とはいえ,まさに佳人薄命を証明してしまったような姉妹である。しかも,妹にいくほど若くして亡くなっているわけで,惰眠をむさぼる拙は深く反省したい。

シャーロット・ブロンテ

長女 シャ-ロット
 1816年4月21日~1855年3月31日(行年39)
代表作『ジェイン・エア』

 

エミリー・ブロンテ

次女 エミリー
 1818年7月30日~1848年12月19日(行年30)
代表作『嵐が丘』


Brontë, Anne

三女 アン
 1820年1月17日~1849年5月28日(行年29)
代表作『アグネス・グレイ』

 

 

 もう一人,今日が命日の英国人,画家のターナー。詳細は次年に。海の絵が素敵です。

 


日乘  草平忌・赤穂四十七士討入

2006年12月14日 | 小説家

 

平成18年12月14日(木)

 

   銀杏黄葉押し合う童の息はして  奏城

 

 

 今日は赤穂藩の浪人四十七人が吉良上野介の居宅に押し入り,主君の仇をとった日(上野介の命日:今の時刻なら15日未明ということになる)
 それを意識した本が,12日の火曜日発売だった『歴史をつくった先人たち-日本の100人(デアゴスティーニ・ジャパン)の「大石内蔵助」だ。そうでなくともこの時期は出版やら放送やら何らかの形で目につくようになっている。
 史実との数々の違いはさておき,このお話(物語)ほど日本人の心つかむものは無いのではないか,という雰囲気である。 
(私もその一人ではある。私の父は自分の名前が内蔵助の息子の主税(ちからよしかね)と一緒だと自慢していたせいもある。)

 さて,園田英弘氏の『忘年会』によれば,吉良家の手勢は赤穂側の3倍もいたのにもかかわらず,なぜ大石らが圧勝できたかを,次のように説明している。
 つまり,その日の前日13日は,正月の準備初めの日で,煤払いをした。その翌日は新春へむけての加祝の茶事をおこない,その後ぐっすり寝込んでいた。そこへ襲撃だったので対応に遅れた,ということである。
 茶事とは今の忘年会と見てよさそうである。確かに映像化された忠臣蔵をみると吉良方の面々は,清水一学をのぞき,極めてだらしない。どう見ても酔って寝ていた感じである。
 園田氏の忘年会説,おもしろく納得した。

 
大石内蔵助良雄

 

 さて,今日は『吉良家の人々』などを書いた小説家・森田草平の命日。
 彼は漱石の弟子の一人で明治14年(1881年)生れ。
 明治41年3月23日,彼は27歳で平塚明子22歳(はるこ:後の平塚らいてう)と栃木県・塩原温泉の老舗旅館「満寿家(ますや)」の周辺の雪山で,心中未遂事件を起こして有名になってしまう。
 草平はこの体験を『煤煙』という長編小説に昇華しないではいられなかった,生きられなかった。この事件,俗に塩原心中とか「煤煙」心中と呼ばれる。

 平塚の遺書の次のフレーズは,後の活躍を彷彿とさせますね!?

  「我が生涯の体系を貫徹す,われは我がCAUSEによって,斃れしなり,他人の犯す所に非ず」

 

    
     森田草平             平塚明子(後の らいてう)

 


日乗  漱石忌・大塚楠緒子・大高翔

2006年12月09日 | 小説家

 

 

平成18年12月9日(土)  漱石忌・開高健忌  

 

 大正5年(1916年)の今日,かの文豪・夏目漱石が49歳(数えの50)の生涯を閉じた。49歳である,今から見ればかなり若くして亡くなっているわけである。
 モノクロの写真のイメージから,もっと年長を思うが。ちなみにライバルのように扱われている森鴎外が60歳。
 太く短い生涯だなぁと,深く感慨。

 ところで,漱石は正岡子規と大学の学友。俳句に関しては子規の弟子にあたります。大変仲がよかったようです。ですから漱石も当然,俳句を詠んでいました。
 というより,かつての作家は教養として俳句を詠んでいたようです。(俳人の坪内稔典氏によれば,漱石は作家になる前には俳人であったのだ,そうです。『俳人漱石』岩波新書)芥川竜之介しかり,最近では藤沢周平(『藤沢周平句集』文藝春秋)しかりです。
 両人の俳句については別の機会にして,今日は漱石の俳句について。

 

  夏目漱石銅像
                      ↑漱石公園(東京都新宿区・漱石山房跡)

  さて,没後90年ということもあったのであろうか,若手俳人の大高翔氏が『漱石さんの俳句-私の好きな五十選-』(実業之日本社)を刊行した
 先の坪内氏の本では,漱石の俳句約2500句から100句を,大高氏は50句を選んで,おのおの思うところを述べている。執筆当時,坪
内氏は59歳,大高氏が29歳であるから選句にどれ程の違いが出るかを見てみたが,重複するのは26句であった。

 
 そこで,私はその重複する句から,勉強のためにいくつか選んでみる。
 
永き日やあくびうつして分かれ行く
仏壇に尻を向けたる団扇かな
枕辺や星別れんとする晨
菫程な小さき人に生れたし
行く年や猫うづくまる膝の上
秋風の一人を吹くや海の上
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
秋立つや一巻の書の読み残し
 
“菊”の句は漱石の恋愛にかかわる有名な句だそうである。
 
 それはトップ画像にある大塚楠緒子(いわゆる閨秀作家とよばれる時代の作家でもあった)の死に手向けたものだからである。
 彼女は漱石の思い人だった。しかし,彼女は漱石の親友・小屋保治と結婚してしまった。
 その彼女が明治43年11月9日に肋膜炎で逝去したのだった。行年35。この句から漱石の歎きの深さがみえよう。

 ところで,この3人関係,あの名作に似ていると思うのだが。
 小説家としての大塚楠緒子については彼女の命日に述べたい。

日乘  憂国忌

2006年11月25日 | 小説家

 

平成18年11月25日(土)

  

 トップ画像は,東大で学生と討論をしたときの三島


 今日は,戦後最大の作家・三島由紀夫の忌日で憂国忌。
 生きていれば川端康成についでノーベル賞確実とまでいわれた才能は,36年前の昭和45年の今日,途絶しました。
 毎年この時期になると,三島に関係する書籍が出版されるほどに,その死の影響は大きなものがあります。特に今年は『決定版 三島由紀夫全集』が完結した年でもありました。
 その全集の月報に連載された論考をまとめたものが田中美代子著『三島由紀夫 神の影法師』として先月末刊行されました。田中は『殉教の美学』以後も三島研究を進め,三島研究の第一人者といってよい評論家です。
 さて,個人的体験を話せば,学生時代,三島のよき理解者であった評論家・磯田光一に神田の古本屋で偶然会ったことを思い出します。
 私は磯田氏に「今,三島の死をどう考えますか?」とたずねたのですが,氏は「公を背負った個人の死」,と短く答え,「あまり思いつめないように」と付け加えた。?・・・・・・まぁ,そのように映ったのだと納得してその場を離れたのでした。
 磯田氏の晩年の住居が,同じ市内にあったことを知ったのは,かなり後のことでした。

 


日乘  有吉佐和子忌

2006年08月30日 | 小説家

平成18年8月30日(水)一時


富士山測候所記念日
マッカーサー進駐記念日
冒険家の日
ハッピーサンシャインデー


長谷川天溪 忌(評論家・英文学者 行年63)
月形龍之介 忌(俳優 行年68)
有吉佐和子 忌(小説家『紀ノ川』『恍惚の人』 行年53)
五社英雄 忌(映画監督『2・26』『極道の妻たち』  行年63)
山口瞳 忌(直木賞作家『江分利満氏の優雅な生活』  行年68)

 

 

 本日は有名な方の命日,私としては,やはり有吉佐和子について書くべきかと。
 当時の文壇では主流には属していなかったらしいが,大衆的には主流にいた作家であることに間違いは無い。
 作家としてもっとも創作意欲のあった時に逝かれてしまったわけで大変に惜しい方でした。
 特に『紀ノ川』『複合汚染』『華岡青洲の妻』『出雲の阿国』『恍惚の人』『和宮様御留』などは,その社会的反響も含め,名作といえると思います。『複合汚染』『恍惚の人』は造語としても優れています。
 有吉氏はカトリック教徒でもあり,洗礼名をマリア=マグダレナというそうである。また曽祖父は吉田松陰門下の勤皇の志士だった。




    有吉玉青      
           ↑有吉佐和子        ↑有吉玉青(娘さんも作家)   
   

 

 柳絮小

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  柳絮(季語としては春)

 



日乘  驟雨忌(吉行淳之介忌)

2006年07月26日 | 小説家

 

平成18年7月26日(水) 

    吉行淳之介忌 ’94年没 行年70 勝手に「驟雨」忌と命名。

 
   今日は吉行淳之介の命日。宮城まり子に看取られての最期だった。
 私は氏の作品の熱心な読者ではなかったので最初に手にしたのが,芥川賞受賞作の『驟雨』で,最後に手にしたのが第31回野間文芸賞作品『夕暮れまで』であった。驟雨がにわか雨のことだと知ったのもそのおりであった。

 氏は20代の一時期,私の故郷の病院で療養生活を送っており,まぁ,それで一種好ましい作家ということになっていた。だから,妹の吉行和子(女優)も,故・理恵(詩人)も好ましい方々ということになりますか。
 母はNHKの朝ドラにもなった美容師の「あぐり」さんであった。父はエイスケといって作家である。つまり,この家族はみんな文才があるということになるなぁ。

  
エイスケ                                  あぐり

 

 吉行和子氏 吉行理恵さん
淳之介              和子              理恵

 

  和子氏は俳句も趣味である。

 

 トップ画像は私がつくったミニ盆栽。直径7cm程の器に楓が3本植えてある。ほっておけば踏みつぶされそうな苗木を集めて植え,土の上にスナゴケ(砂苔)をかぶせた。

 

         四階に風受け流す若楓   奏城