「『八咫烏』という名前の漢波羅(かんばら=カッバーラ)の秘密組織が、1世紀のエルサレム陥落後2~5世紀の400年間に渡って中央アジアや華北、半島を経由し、中東から列島まで密かに移動した後、下鴨神社の隠された奥の奥に日本国建国当初から現在に至るまでずっと潜伏している。陰陽道も中東からこのようにして伝わった秘術であった。この組織は、3人の「大鴉」からなる「裏天皇」を中心としてその周囲に9人、さらにまたその周囲に70人、合計82人の構成員からなる組織だが、聖書でもペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を中心とする12使徒と、それを取り囲む70人、合計82人のイエスの弟子達の組織として、この全く同じ組織のことが記録されている。イエスを重大な結節点とした太古からの聖なる秘教の流れを直接受け継いだ、極めて根源的な霊性を帯びた秘教組織なのである。日本建国時にこの列島で「国仕掛け」を行い、天皇をその表に据えつつその後もずっと天皇と共に、この日本国の霊的な礎を守り続けて来たのである」。このような説があります。飛鳥昭雄という研究者が唱えた説です。私は何年か前に彼の著作を通してこれを知り、大いに信憑性を感じました(因みに飛鳥昭雄氏は「秦氏」所縁の文化財が全て百済様式ではなく新羅様式となっている点を踏まえて、秦氏百済渡来伝承を、秦氏自身による情報操作の結果と断定していますが、「秦氏」と呼ばれているからと言って全てが単一の氏族なのではなく、新羅系秦氏を初めとするいくつかの氏族の合流の結果出来上がった複合的な特殊巨大氏族という考え方を採用している事情から、私は、この点については飛鳥氏に同意せず、伝承を真実としてそのまま採用しています)。
その一方で、そんな彼らを中核としているはずの日本の隠れた支配層について、次のような主張も聞こえてきます。「(彼らによる)『日本国民』への、私利私欲に駆られ悪意の籠った無残な仕打ちの数々が事実として確認できる。明治以降の日本での欧米系悪魔崇拝秘教組織による暗躍が最近盛んに喧伝される中、その陰に日本古来の、ある意味でその欧米系のものにも全く劣らぬ悪魔性を持った悪魔崇拝秘教組織の、必ずしも明治以降にのみ限定されない非道の数々が日本と日本人を不幸に陥れてきたということが、事実として厳然と確認できるのだ。この事実やその組織のルーツの謎にもきちんと目を向けるべきなのだ」。
このような主張を聞くと私はいつもその主張に、上の飛鳥説と同じくらいの信憑性を感じるのです。「下鴨神社が安土桃山時代に、火薬の入手に拘るあまり何万人もの日本人女性を、ヨーロッパ人の性奴隷としてイエズス会に売り渡していた」という未確認情報もあり、何とか確認しようと気を張っている最中でもあります。
秦氏を巡る二つの非常に意味合いの異なった、しかし同じように信憑性のある情報。これは紛れもない矛盾です。ここに至って私は、この矛盾をどう考えたらいいかという問題に直面することになりました。その際に瞬間的に閃いたのは、この矛盾を見かけ上の矛盾と捉え、この見かけ上の矛盾を解消してくれる隠れた構造体を探る必要がある。そうすることで飛鳥説をより精密かつ包括的に発展させる機会にもなるという展望でした。
例えばこれは、「よくない」教師に出会った時に学生が取らなくてはならない態度と共通していると言っていいかもしれません。こんな時多くは、陰でその教師への批判を撒き散らしながら、かと言ってその教師の元から立ち去ることもできずに、気持ちを鬱屈させ続けるようです。あるいは諦めて、その授業時間を何の感情も込めずに遣り過すようです。
しかしながら実際は、その教師に対するそのような評価が真実と確認できる以上は直ぐに、そこから静かに立ち去って他の教師を探しさえすればいいはずです。反対にそうでない場合には、教師に対するそのようなマイナス評価が自分の主観から出たものに過ぎないかもしれないという可能性をもちゃんと考慮に入れつつ、まず自分が、どこからも非難されないような最高の学生でいるよう心掛けなければなりません。そうすることで、何らかの理由で現象としての「無能」の背後に隠れているその教師本来の能力も、いつしか発揮されるようになるかもしれないわけです。このような学生としてのあるべき最高の態度を十分に続けても結局その教師の能力が発現して来ないということになったりしたら、それこそ無駄ではないかなどと考える向きがあるかとは思いますが、実際はそういうことにはなりません。その時は、一旦は現象と見なしていた教師の無能も実は、その教師の本質そのものでしかなかったのだと考えればいいからです。隠していた無能が自ずから露呈することで、その教師の側が、教師としての虚飾を自ら剥ぎ取られてその本来の相応しい場所に戻されるだけなのです。こちらには存在のどのレベルにおいても傷が付くことがありません。ましてや私の経験上、どんなに「酷い」教師も、学生の側が今述べたような積極的な態度を示す際には、不思議なことに、教師としての能力を生き生きと発揮し始めることが多いようです。教師の良し悪しは、大抵は、学生の良し悪しによるということのようなのです。
日本の古来からの隠された支配層を巡る上記のような矛盾に対してもこれと同じ手法でしか対処できないというのが、私の基本スタンスです。なぜなら、日本を創ったのは彼らであり、我々はまさにそこから生まれてきたのですから。彼らと我々では存在の次元が大きく異なっています。彼らに対する批判は、私たちひとりひとりが神と直接結ばれた存在であるという、私も形而上学的な真実として敬っている信念からすると、たとえどれだけ厳しくなったとしても悪くはないとは思いますが、同時に、上記のような正しい自己認識を弁えて慎重に行うのでなければ結局は、自分の存在基盤を毀損してしまい、取り返しのつかない悲惨な事態を招く可能性が高いと考えるのです。
まずは我々ひとりひとりが真っ当な日本国民となった後で、隠れた裏社会の本質が自ずから悪魔性として現れてくるのか、それとも神聖性として現れてくるのか、泰然自若として眺めるというのも、取るべき方策のひとつと言っていいのではないかと考えます。
今後暫くはこのスタンスの下、『「三人の天皇」を検証する』を初めとする一連の著作を行っていくつもりでいます。
その一方で、そんな彼らを中核としているはずの日本の隠れた支配層について、次のような主張も聞こえてきます。「(彼らによる)『日本国民』への、私利私欲に駆られ悪意の籠った無残な仕打ちの数々が事実として確認できる。明治以降の日本での欧米系悪魔崇拝秘教組織による暗躍が最近盛んに喧伝される中、その陰に日本古来の、ある意味でその欧米系のものにも全く劣らぬ悪魔性を持った悪魔崇拝秘教組織の、必ずしも明治以降にのみ限定されない非道の数々が日本と日本人を不幸に陥れてきたということが、事実として厳然と確認できるのだ。この事実やその組織のルーツの謎にもきちんと目を向けるべきなのだ」。
このような主張を聞くと私はいつもその主張に、上の飛鳥説と同じくらいの信憑性を感じるのです。「下鴨神社が安土桃山時代に、火薬の入手に拘るあまり何万人もの日本人女性を、ヨーロッパ人の性奴隷としてイエズス会に売り渡していた」という未確認情報もあり、何とか確認しようと気を張っている最中でもあります。
秦氏を巡る二つの非常に意味合いの異なった、しかし同じように信憑性のある情報。これは紛れもない矛盾です。ここに至って私は、この矛盾をどう考えたらいいかという問題に直面することになりました。その際に瞬間的に閃いたのは、この矛盾を見かけ上の矛盾と捉え、この見かけ上の矛盾を解消してくれる隠れた構造体を探る必要がある。そうすることで飛鳥説をより精密かつ包括的に発展させる機会にもなるという展望でした。
例えばこれは、「よくない」教師に出会った時に学生が取らなくてはならない態度と共通していると言っていいかもしれません。こんな時多くは、陰でその教師への批判を撒き散らしながら、かと言ってその教師の元から立ち去ることもできずに、気持ちを鬱屈させ続けるようです。あるいは諦めて、その授業時間を何の感情も込めずに遣り過すようです。
しかしながら実際は、その教師に対するそのような評価が真実と確認できる以上は直ぐに、そこから静かに立ち去って他の教師を探しさえすればいいはずです。反対にそうでない場合には、教師に対するそのようなマイナス評価が自分の主観から出たものに過ぎないかもしれないという可能性をもちゃんと考慮に入れつつ、まず自分が、どこからも非難されないような最高の学生でいるよう心掛けなければなりません。そうすることで、何らかの理由で現象としての「無能」の背後に隠れているその教師本来の能力も、いつしか発揮されるようになるかもしれないわけです。このような学生としてのあるべき最高の態度を十分に続けても結局その教師の能力が発現して来ないということになったりしたら、それこそ無駄ではないかなどと考える向きがあるかとは思いますが、実際はそういうことにはなりません。その時は、一旦は現象と見なしていた教師の無能も実は、その教師の本質そのものでしかなかったのだと考えればいいからです。隠していた無能が自ずから露呈することで、その教師の側が、教師としての虚飾を自ら剥ぎ取られてその本来の相応しい場所に戻されるだけなのです。こちらには存在のどのレベルにおいても傷が付くことがありません。ましてや私の経験上、どんなに「酷い」教師も、学生の側が今述べたような積極的な態度を示す際には、不思議なことに、教師としての能力を生き生きと発揮し始めることが多いようです。教師の良し悪しは、大抵は、学生の良し悪しによるということのようなのです。
日本の古来からの隠された支配層を巡る上記のような矛盾に対してもこれと同じ手法でしか対処できないというのが、私の基本スタンスです。なぜなら、日本を創ったのは彼らであり、我々はまさにそこから生まれてきたのですから。彼らと我々では存在の次元が大きく異なっています。彼らに対する批判は、私たちひとりひとりが神と直接結ばれた存在であるという、私も形而上学的な真実として敬っている信念からすると、たとえどれだけ厳しくなったとしても悪くはないとは思いますが、同時に、上記のような正しい自己認識を弁えて慎重に行うのでなければ結局は、自分の存在基盤を毀損してしまい、取り返しのつかない悲惨な事態を招く可能性が高いと考えるのです。
まずは我々ひとりひとりが真っ当な日本国民となった後で、隠れた裏社会の本質が自ずから悪魔性として現れてくるのか、それとも神聖性として現れてくるのか、泰然自若として眺めるというのも、取るべき方策のひとつと言っていいのではないかと考えます。
今後暫くはこのスタンスの下、『「三人の天皇」を検証する』を初めとする一連の著作を行っていくつもりでいます。
この人達にはどうやって言葉を届けるのですか?
〉国民の6割から7割近くが選挙にも行かないという事実。この人達にはどうやって言葉を届けるのですか?
〈皆が選挙に行かないと世の中はよくならない。行きさえすればよくなる。なのに、ほとんどの人が政治に無関心で、投票率が低い。あなた(飛鷹)がこのブログで述べているような事実が皆に伝われば投票率も上がるはず。まずは伝える努力をするべきだ。そのためにどういう方策が立つのか?〉
このようにご質問なさっていると受け取らせていただきました。
歴史を正確に理解した場合、民主主義を標榜してなされた革命はひとつの例外もなく、王を中心とする各国の古来からの支配体制を弱体化させ、その上でその国を乗っ取るために、金融偽ユダヤ人が、周到な計画の元に演出していたことが明確となってきます。民衆が政治意識を高め民主主義を声高に唱えるようになると、そこには必ず外部の邪悪な秘密結社の陰険な企みが潜んでいるし、民衆には悲惨な運命しか降りかかって来ないと、考えておいた方がいいということです。
「何をバカなことを。そんなはずがないじゃないか」というのが、多くの人の反応でしょう。しかし、この人たちは皆、戦後の学校教育やマスコミの報道によって(どちらも間違いなく、周到な陰謀によってコントロールされているものです)洗脳されてしまっているのです。今私が述べていることは、歴史が証明している紛れもない真実なのです。民衆はかくも容易に扇動できるのです。何千年も前に書物になってある特定の人たちによって密かに徹底的に研究し尽くされてすらいることなのです。
例えばヒットラーは、実際は金融偽ユダヤ人のロスチャイルド家の血筋で、ある隠された邪悪な目的実現のために選ばれて育成された後、巧妙な手法で作り上げられた権力者でした。その彼の政権は、当時のドイツ民衆の約90%(投票率約100%)という極めて高い率の支持を集めてできたのでした。アメリカ独立革命も、フランス革命も、ロシア革命も、戦後日本の学生運動も、最近のアラブ諸国における市民革命も、例を上げていったらキリがないくらい、文字通り全てが陰謀だったのでした。
私たち自身も似たようなことをつい最近、実際に経験したばかりです。2005年の郵政選挙の時に、何も知らない私たちは、金融偽ユダヤ人の飼い犬であるマスコミや評論家達の口車に載せられて大いに政治的関心を募らせ、「非常な確信」を持って投票所に足を運び、競い合うかのように投票しました(投票率は約70%)。しかし、今となってはあれも、日本国民の貴重な資産である345兆円にも上る郵便貯金と簡易保険の蓄積金を奪い取る目的で金融偽ユダヤ人がシナリオを描き、そのエージェントである小泉純一郎と竹中平蔵に命じて実行させた陰謀だったということが明らかになっています(詳しくはリチャードコシミズ氏のYouTube動画を観て下さい)。
ですからある意味、投票率は低くなっていなければいけないし、民主主義に庶民が期待をかけるのは極めて危険なことなのです。
よく考えてみるとこれは、あまりにも当たり前のことです。庶民には自分に課せられた仕事を十分にこなし家族を養う義務があります。政治に責任を持って関わる時間的余裕も金銭的余裕もないのです。庶民とは力がないからこそ庶民なのであり、政治は力のあるものが専門的に請け負うものでしかないのです。デモクラシーとは「民衆の力」とか「民衆による支配」とかいった意味ですが、「力のないものの力あるいは支配」なんて、それ自体完全な矛盾でしょう。言葉自体がトリックであるに違いありません。
「ひとりひとりは力がなくても、大勢が集まって協力し合えば大きな力になるじゃないか」と言う人がいるかもしれませんが、0はいくら加算されても0のままというのは、あまりにも明らかな論理的帰結です。
百方譲って全員がそれぞれ1くらいは力を持っているとしても、それをひとつの場所で同じ方向に同時に、しかも継続的に総合し続けるなんてこと自体、物理的に不可能です。
断言します。民主主義はトリックであり、危険な幻想であり、民主主義への幻想があるからこそ、民衆は幸せになれないのです。議論の余地なく、絶対にそうなのです。
日本には未だに、王もいれば、王族や貴族もいて、それぞれが各公的団体や大企業などを現代版の「荘園」として所有し、極めて高度な武力や諜報組織すら保持しています。それによって維持される権力を行使して影の政府を運営し、日本国を支配しているのです。「民主国家日本」は完全な幻想なのです。小沢さんがどんなに頑張っても、絶対に何も起こりません。ひょっとしたら、頑張って見せるのが彼に与えられた指令なのかもしれないとすら考えてもおかしくないのです。
私がこのブログで述べていることが世の多くの人に伝わるということは、今述べたような事実が世の多くの人に伝わり、投票率が下がることを意味します。このことだけはちゃんと、踏まえておいていただきたいと思います。
「それでは希望も何もないのではないか?ブログの記事を読むと何か前向きなことが書かれているようだが、それは間違いなのか?こんな悲惨な状況の中で何ができると考えているのか?」。このような疑問が湧いてくることでしょう。その通りです。民主主義とは全く異なるあるひとつの方策によって、権力打倒などとは全く異なるある根本的な解決がもたらされると、私は考えています。詳しくは上に書いたことを踏まえた上でこのブログ内の各記事をもう一度よく読んでいただきたいと思いますが、ここでも簡単にまとめてみると、次のようになります。
1)ひとりひとりがそれぞれ「神」(呼び名は何でもいい。この現存在は、絶望しているのでない限り必ず、誰もがもう既に知っているはずである)と結びつくことで「一票」とは全く異なる極めて大きな力を、それぞれの持ち場を全く離れることなく獲得できる。
2)その力は、外的には天皇を中心に統合され、現実に反映される。
3)強い者が弱い者を慈しみ、弱い者は慈しみ深い強者に敬意と忠誠を尽くすことが、人間に唯一課せられた倫理である。
4)庶民ひとりがある時に行う小さな不正が集積して大きな問題を生み出し、支配層に影響を与えてその振る舞いを「邪悪」なものに変える場合があるという恐ろしい真実を踏まえた上で、ひとりひとりがそれぞれの場所で常に極めて高い道徳性を発揮しなければならない。道徳性とは、「神」との内的な結びつきの中で正しいと感じたことを、外的な事情に負けて曲げてしまうなどということが絶対にないようにする心の強さのことである。
5)以上の全てを可能にするため、現実についての詳細で正確な知識を獲得し、できるだけ広く拡散しなければならない。
6)敵を滅ぼし排除しようとするのではなく、敵に善なる影響を与えて敵の邪悪な性格をのみ滅ぼし排除しようとするのでなければ、本当の問題解決にはならない。
7)お金を廃止し生産物を無料で分け合うコミュニティの可能性と、お金のためではない純粋な社会奉仕としての職業の社会通念化の可能性を、洗脳し尽くされた狭い心から無下にバカにしてしまうのではなく、心を根本から正した上で、曇りのない目で本気で検討すべきである。
詳しくは、このブログのこれまでの記事をご参照下さい。
聖書には金銭欲が諸悪の根源であるようなことが書かれていましたが、イエスキリストも喩え話の中でお金を用いて話しており、お金そのものが悪いなどとは一言も言っていません。
お金はには「個人の選択の自由」という重要な尊厳を保持保証する側面があると思います。
お金がなくて、すべてを一元管理するシステムが出来上がってしまったら、それこそワンワールド政府の思う壺じゃないですか。お金は汚くない。自己本位の不当な金銭欲こそが悪徳であると思います。IT産業なんかで湧き上がる利益こそ汚い。泥だらけで働く土方のおじさんの賃金こそ尊い。現代社会では、人の労働の対価の評価かが間違っている。ITの連中はくそだ。エアコンの聞いた部屋でシコシコしてて、暴利。方や汗みどろで疲労困憊ですずめの涙。異常だ。
〉お金は汚いとは思いません。自分で稼いだお金のどこがきたないのでしょうか?
現在の制度の中では、自分が働いて手に入れたお金が汚ないものになることはありません。労働の神聖性がお金ですら清めてしまっていると考えます。
〉聖書には金銭欲が諸悪の根源であるようなことが書かれていましたが、イエスキリストも喩え話の中でお金を用いて話しており、お金そのものが悪いなどとは一言も言っていません。
「カエサルのものはカエサルに」のことですね?私の師匠である戸田慈海先生は、著作の中でこの言葉を取り上げて、聖なるものと俗なるものとの厳密な分離の勧めと解釈しています。確かにイエスは、神殿の入り口付近で神への捧げ物となる物品を巡礼者に不当な高額で売りつけ、利益を貪ろうとする人達の出店を、物凄い剣幕で壊し、追い払って回ったと伝えられています(因みにカントは「このイエスの行為ですら、道徳法則に照らして善悪を判定さるべきだ」と主張しています)。しかし、この言葉にはもう一つ、全く別の側面があると私は考えています。聖書は4世紀初頭にヨーロッパで、ある特定の必ずしも聖なる者とは言い切れない者達によって勝手に取捨選択され、継ぎ接ぎされたという側面を持っています(だから価値がないのだとまでは、私も言いません)。聖書の中にイエスのこの「カエサルのものはカエサルに」を残した(あるいは挿入した)人達の意図として、人々を貨幣経済への服従に誘導しようとする意図が含まれていたのは明らかだと主張する人が大勢いるのも事実なのです。
〉お金には「個人の選択の自由」という重要な尊厳を保持保証する側面があると思います。
お金があれば、選択の枠が広がる。なかったら、狭まる。こういうことでしょうか?確かに、お金があるからこそ個人でも、一々嵩張る物品を携帯しないまま比較的身軽に遠くの土地へと移動して、自分の故郷に留まっていては決して享受できない物品を享受できるとは、言えるかもしれません。しかし、それにも見えない前提があります。それは、異郷から入ってきた人間に、商取引以外の手段で必要な物品を提供する人間などこの世にはいないという前提です。お金でなければ個人の選択の枠を広げることはないという一見正当に見える主張も、貨幣が世の隅々にまで行き渡った現状の枠内で考えられたものに過ぎないのです。私の主張は、例えば日本では清盛以来800年も続いているこの前提を、たかが800年しかと捉え直した上で展開している主張なのです。私が見るところ、例えばドラマ『北の国から』を貫いているテーマのひとつもこれになっているようです(日本古来の「結」や「もやい」について登場人物のひとりが解説する場面が最終話に登場します)。
お金がなくなっても、私たちの生活には何の変化もありません。働いてその有形無形の産物を無償で流通に乗せ、世の中に提供する。このようにしてあちこちから集められた物品をスーパーマーケットなどで無料で必要なだけ手に入れる。この流れのどこにお金が必要でしょうか?貨幣制度はこの流れに、不必要であるにも拘らず何者かによって、何らかの意図をもって無理矢理、組み込まれたものなのです。
貨幣があると、何が可能になるのでしょうか?貨幣は自然消失しないので、貨幣を用いれば財の蓄積そのものが可能になります。また、貨幣を発行する権利を持った人達や貨幣の操作に長けた人達が、現実には全く労働することのないままで、実際には何の現実的な価値もないはずのバーチャルな財を産み出し、蓄積することができるようにもなります。これによって、現実的な財の生産手段を集約している伝統的な支配体制に外から割り込んで行き、それを乗っ取ることができるようになるのです。
貨幣経済の導入や維持の背後には、このような意図以外の何ものも隠れていないと考えられます。
お金があるが故に我々庶民に降り注いでくる悲惨な出来事については、体験や伝聞のない人はいないと思いますので、ここでは記述いたしません。ただここではそれらとは別に、貨幣が労働そのものに与える本質的な悪影響だけは、指摘しておく必要があります。お金を稼ぐためにという目的が、家族の保護のためにとか社会に貢献するためにという目的よりもずっと手元に挿入されると、いつしかその背後にある本来の目的が色褪せてしまい、労働に伴う苦痛が結果として、当人にも全く気づかれないままに、本質的にいかなる代償も得られないような類のものに変化してしまうということです。お金のために行う労働の苦痛は、家族の保護や社会貢献のために行う労働の苦痛よりも遥かに、人間の実存の健全性を損なうような堪え難いものになってしまうということです。お金を挿入せず純粋に家族のため社会のためとなっていれば、絶対に味わうことのない苦痛なのです。こんな悲惨なものなのに、しかも我々庶民には全く必要ないものなのに、どうしてしがみつかなくてはならないのでしょうか?これが私の主張の骨子です。
〉お金がなくて、すべてを一元管理するシステムが出来上がってしまったら、それこそワンワールド政府の思う壺じゃないですか。
お金をなくすことで、ワンワールドの企みは実現不可能になります。貨幣経済が一元管理の基盤のひとつになっているからです。つまり私の理解はこの事柄に関して、アルトさんの理解と正反対になっているようです。アルトさんの意図を掴み来れていない可能性もありますので、不都合なければもう少し詳しく、説明していただけたらと思います。
〉お金は汚くない。自己本位の不当な金銭欲こそが悪徳であると思います。IT産業なんかで湧き上がる利益こそ汚い。泥だらけで働く土方のおじさんの賃金こそ尊い。現代社会では、人の労働の対価の評価かが間違っている。ITの連中はくそだ。エアコンの聞いた部屋でシコシコしてて、暴利。方や汗みどろで疲労困憊ですずめの涙。異常だ。
この点には、全面的に賛成です。「ヨイトマケの歌」は、いつ聞いても泣けて来ますよね。魂の歌です。
お金を使うとき、人は品物やサービスに対して必ず「評価」を行います。労働、努力の対価として受け取ったお金だからこそ、人は支出することに対して慎重になり評価するのです。人は業が深い生き物です。ただで手に入るものには敬意も評価もありません。物品サービスの供給側は需要側の評価を勘案して品質向上に努力するのです。この作用・権利を放棄したら、これは個人の尊厳たる「取捨選択権」を放棄することになってしまいます。私は、聖書に邪悪な改竄があるとは思っていません。邪悪な解釈はあると思いますが。貨幣のない社会では競馬も競輪もなくなりますね。そのような社会が健全でしょうか? 現状は異常ですが。人間の本来持っている投機本能を抑制することが本当に正しいことでしょうか? 人間は過ちを犯して始めてその罪深さを思い知ると言うことがあります。いや、常にそうでしょう。人間には過ちが必要だと思います。だからキリストは許すといっているのだと思うのです。
貨幣がなく博打もない。普通に働けば何でもひとそろいてにはいる。この場合誰が、人の労働を評価するのですか。政府もしくは公的機関が行うことになるでしょう。公的機関が邪悪な連中に支配されたら、もっとたちの悪い支配構造の出来上がりだとおもいます。レスは結構です。ご多忙の邪魔をしてはなりませんので。それより「三人の天皇」を楽しみにしております。
〉お金を使うとき、人は品物やサービスに対して必ず「評価」を行います。労働、努力の対価として受け取ったお金だからこそ、人は支出することに対して慎重になり評価するのです。人は業が深い生き物です。ただで手に入るものには敬意も評価もありません。物品サービスの供給側は需要側の評価を勘案して品質向上に努力するのです。この作用・権利を放棄したら、これは個人の尊厳たる「取捨選択権」を放棄することになってしまいます。
よく分かりました。この点についてあれこれ検討してみようと思いましたが、複雑すぎて短時間では無理でした。練り上がったら、記事としてアップしたいと思います。貴重なご意見、ありがとうございました。
〉私は、聖書に邪悪な改竄があるとは思っていません。邪悪な解釈はあると思いますが。
私の師匠である戸田慈海先生も、聖書をはじめとするいくつかの聖なる書物を読む基本姿勢として、その神聖性を疑わないことが、真の理解を得る上で絶対条件になると繰り返し教えてくださいました。そして私も、それを全く疑っていません。ただ歴史的事実として、必ずしも聖とは言い切れない者たちによる取捨選択を受けたことや(これも神の意志であると捉えた上で、その結果を無数の人が何千年にも渡って心の底から尊び続けてきたという拭いようのない事実を考慮に入れる時、それでもその神聖性は消えないと考える必然性が出てくると考えます)、死海の近くで発見されたクムラン文書がその欠落部分を埋めていることなどの事実も、考慮に入れるべきだと考えています。
〉貨幣のない社会では競馬も競輪もなくなりますね。そのような社会が健全でしょうか? 現状は異常ですが。人間の本来持っている投機本能を抑制することが本当に正しいことでしょうか? 人間は過ちを犯して始めてその罪深さを思い知ると言うことがあります。いや、常にそうでしょう。人間には過ちが必要だと思います。だからキリストは許すといっているのだと思うのです。貨幣がなく博打もない。普通に働けば何でもひとそろいてにはいる。この場合誰が、人の労働を評価するのですか。政府もしくは公的機関が行うことになるでしょう。公的機関が邪悪な連中に支配されたら、もっとたちの悪い支配構造の出来上がりだとおもいます。
この点に関しても、単純に反対とも賛成とも言い切れない、ある程度込み入った考察ができそうです。機会があれば、記事としてアップしてみたいと思います。貴重なご意見、ありがとうございます。
〉それより「三人の天皇」を楽しみにしております。
焦らず腰を据えて、頑張ってみます。