令和6年2月議会本会議質問 案① 井上しんご
私は議案第一号令和6年度北九州市一般会計予算案について質問します。
成長への再起動予算として、稼げる街など3つの重点戦略の実現を図るなど次世代投資枠として3年間で300億円、今年度は111億円の予算を重点的に配置しています。しかし一方で、令和6年度予算の事務事業の棚卸しとして、約3000の全ての事業のうち、1288事業、151億円の削減を提案しています。
当然、目的が達成したり、思ったような効果がなかった事業の廃止や、類似事業の統合による効率化、事務経費のスリム化による削減はありえます。しかし、教育や子育て、自治会やボランティア、障害者、高齢者や空き家対応にかかる予算で、これからも必要と思われる予算も、事務経費等の見直しとの説明で、全体予算が大幅にカットされている事業がたくさんあります。
事務経費の見直しと言えば、単純に事務作業の効率化かと思いますが、実質の事業の廃止のように、最大で8割を超える予算が削減されいるものもあり、事務経費の見直しのていで、これでは事業が行えないのではないかと危惧しています。
これからこの151億円のも予算の削減という棚卸しの影響が、市民の暮らしに一体どういう影響が出て、高齢者の生きがいや、子供達の成長が阻害されるか、非常に心配です。今回の棚卸しでは、決算実績等を踏まえた予算配分の見直しとあり、決算おける不要額分が丸ごと削減される提案になっています。通常、予算は予測を上回るニーズや利用者の増にでも対応できるように、若干の余裕を持って組んでいると市は説明してきました。例年実績の必要額だけのギチギチの予算で、必要な市民サービスがちゃんと公平に行き渡るのか心配です。
市長は3年で300億円の財源を捻出するとし、今回は不要額分など予算に計上せずに100億円程度を捻出しましたが、令和7年以降はそのトリックは使えずに、100億円の財源を捻出する為に、更にどれだけの市民の血が流れるか、考えるだけでもぞっとします。
今回の棚卸しで削減された1288事業で、本当に市民ニーズがなくなったのか、また目的が達成されたのか、その予算を活用してきた市民の方から十分に聞き取って、双方がある程度、納得済みで未来へ進んでいけるのか、これまで市が長年続け、多くの方が関わってきた事業において、どこまで当事者の方の意見を丁寧に聞いていたのか、例を見ないような削減を提案する以上、そのことの説明責任があります。
予算は単なる数字の羅列ではなく、机の上で電卓弾いて、はいカット、はい廃止とできるものではありません。その事業に予算が付けられるまでに多くの方の要望があり、また例え僅かな予算であっても、それを守り、育ててきた関係の方の思いが、その予算の一円、一円に、込められています。
市民から預かった予算をどう使うか、仮に廃止や削減をせざるを得ない場合は、関係者に前もって丁寧に説明し、別で手当できるのか、できない場合は、どう決着するのか、これまで予算の執行を通じて、市政の発展や、事業目的の達成に協力してくれた方々への敬意が必要です。
しかし、議会に提出されたものは、予算事務事業の棚卸し結果反映という紙切れのみです。通常は予算を新しくつける場合も、市民の要望から始まる場合は、それに至る経過で議会内外での議論があり、予算化されきました。また事業を見直す場合や削減する場合では、関係者への説明と議会への説明があり、関係者がこれは困ると思えば、行政への直接的な要望もさることながら、議員への要望、議会への請願陳情とへ、市政の当事者である市民の声を聞く場が不十分ながらもありました。
今回は、廃止や削減された事業が過去例を見ない程度に膨大で、しかも予算議会の直前に渡され、予算に関係する市民ですらも、声を上げる機会すら全く奪われるという前代未聞なことが行われています。いくら子育て支援を進めたと言っても、その裏で多くの市民が泣いていることを思うと、全く喜べません。誰かの痛みを前提にした幸せなど、喜べるでしょうか。市長は成長の果実を彩りあるまち、安らぐまちへ還元すると言っています。まだ果実のカすらないのに、市民から彩りある生活と、安らぐ気持ちを奪っているだけではないでしょうか。
特に私がこれは酷いと思っているのが、福岡朝鮮学園助成の削減です。朝鮮学校で学ぶ子ども達を支援しようと、施設や備品などの整備に当てられています。とは言っても額として年間285万円と僅かでしたが、今回更にそれを全体の4割近い110万円を削減するというものです。他の私学助成も同じ基準で減らしていると言っていますが、朝鮮学校は他の私立学校が受け取っている私学助成もなく、政局の関係で高校無償化の対象からも外れており、その学校運営は厳しものがあります。
同じ北九州市で学ぶ子ども達への貴重な予算を大幅に削る。これまでこの予算を確保するために、どれだけの汗が流されてきたのか。党派を超えた様々な議員さん、支援してきた市内の学校関係者や弁護士さん、そして、その苦しい事情を知る市の職員さん。これまで何度となく行われてきた学校と行政との懇談や改善を求める意見書など、
市長は、この一円一円に込められたこうした市民の皆さんの熱意に思いを巡らせて欲しい。元々、この助成は平成⭕️年までは⭕️万円ありました。削減される時も、それは大変な議論がありました。その中でも、本市と歴史的な関係のある朝鮮学校への予算については、他都市以上の助成をしているので、引き続き精一杯支援する旨が話されました。今回の提案は、前の水準に戻すならまだしも、更に引き下げる内容で、私はいとも簡単に長年の学校を巡る歴史と、人々の想いを切り捨てらたことに、とてもショックを受けています。
削られた1288事業のうちの一つ、朝鮮学校の助成をとってもこれだけの問題があり、しかも事前の聞き取りや、現場の実情を把握する余裕もない中で、また被害を受けた子ども達が声を上げる余裕すらない中で、行われています。だったら、残りの1287事業にも同じような問題を孕んでいるのではないでしょうか。
その痛みと苦しさとの重さはどれほどでしょうか。いくら稼げる街、子ども真ん中シティ、若者応援日本一、異次元の子育て支援と様々、新規事業を並べてみても、私には虚しく聞こえ、空虚感しか残りません。なぜられば、その華々しく見える新規事業の裏には、どこかの子ども達が泣いているかと思うと全く喜べません。
今回の事務事業見直しの棚卸しは、市長直属の市政変革室が音頭をとり、内部管理経費1割削減は財政局主導です。市はそれらの説明の中で、市は当然必要な事業を機会的にカットや廃止するものではなく、現場の実情に応じて、丁寧に現局に聞き取りをし、削減ありきではないこと言っています。ではこの朝鮮学校への助成は、説明通り、丁寧に担当部署や担当者に聞き取りをしたのか。その中で、これは必要な予算だと現局が伝えても、変革室や財政局にゴリ押しされたのか。それとも、助成を所管する教育委員会企画課、現局自ら進んで削減を提案したのものなのか。その削減に至る経過を答弁願います。①
次に、市長は前回の予算議会で市長給与1割削減し、「かいより始めよ」と、議会へ同調を求めました。また市長と歩調を合わせる会派は、昨年12月議会に「市議会議員の報酬削減について早期に議論を開始する決議」を提出し、それに先立って提案者の選挙区の八幡西区、小倉北区において、決議案内容とほぼ同趣旨のチラシを配り、自身が求める報酬削減の議論が進んでいないことをもって、塩漬けだと指摘し、議論に慎重な議員を批判しました。
報酬削減とは違う意見や、報酬削減の議論と合わせて、社会保険加入や年金など将来にわたり、市民の代弁者として持続可能な議員活動となるような意見を持つことも悪なのでしょうか。
議員報酬は議員個人の生活の問題でもあり、また議員の市政相談や議員活動のあり方にも関係する問題です。スマホなどSNS中心の議員活動なら経費はかからないかもしれません。議員は市民の代表であり、その活動スタイルは多種多様で、一律ではありません。
議員活動が多様であるからこそ、老若男女の多様な意見を市政に届けることができます。古いスタイルだからダメだとか、SNS中心でないとダメだとはなりません。
昨年末の決議では、全会派に賛同してほしい旨の話があったでしょうか。決議の共同提案者の若松を愛する会の代表は、文章の内容が他党批判になっているので、これでは賛同が得られない、この文章を修正して、全会派へ話に行こうと提案されていましたが、修正はしない。否決されてもいいのでこのままでいくと言っておられました。
しかも事前に、削減の議論をしない議員はダメだとするチラシもすでに選挙区でまいていることもあり、彼らは鼻から賛同を得るよりも否決されることを前提に、決議を提出し、反対派は悪だというイメージを狙ったものでした。全会派で話し合い丁寧に合意を得て、成案にする気が少しでもあったのでしょうか。目的は来年の市議選に向けた布石です。本気で議員報酬を削減する気など無かったと言わざるを得ません。
「かいより始めよ」の意味は、大事業をするには、呼び水となる小さなことから始めるのが必要だという意味だそうです。つまり市民や子ども達の出血を伴う棚卸しという大事業の呼び水とするため、市長給与を10%削ったということです。そして、議員報酬削減は、自らの選挙と議員報酬削減一本で多くのチルドレンを当選させるがための呼び水ということではないでしょうか。
自身の仕事ぶりと報酬が見合わず、身を切りたいというなら、周りに同調を求める必要はありません。人知れず身を切ればいいのです。身を切った事を宣伝する必要もありません。武士が切腹するのに、他人に同調は求めないでしょう。
私達の任期はすでに一年を切っています。三年前に掲げた公約の実現に向け、がむしゃらに取り組まなければならない時期です。私の公約はどれも完結していません。あと一年それこそ命懸けでやらないといけません。それをこの時期に、議員報酬削減で他の議員を批判し、コネでマスコミを使って議会で騒ぎ立てる。市議会は遊び場ではありません。市民の声を集めて真剣に議論する場です。
私は正直、こんな不毛な選挙活動に付き合っている暇はありません。政治家人生残り一年を切っているんです。議員報酬について議論するならば、私は議員報酬は削減ではなく、引き上げるべきだと考えています。
その理由は、長引く経済の低迷と高齢化などにより、日々の市民ニーズに行政だけでは対応できないことが増えているからです。市民の暮らしを預かる議員として、行政ができないから、何もできないとは言えない問題があります。まさに議員は最後の砦なのです。
私は一人暮らしですが、車は自家用車と軽トラック2台持っています。前は地域活動用でもう一台ありました。草刈機は2台あります。また耕作放棄地を耕かすための耕運機もあります。
様々な事情で家を追われた方と暮らしたことも3度ありますし、暴力を受けたベトナム人技能実習生3名を預かって欲しいと言われたこともあります。今はネパール人の留学生の方20名近くが3月末で契約が切れるとのことで、家を探すのに苦労しています。
何十年も空き家だった商店街のシャッターを開けるのに工事をしたり、正直お金がいくらあっても足りません。私の活動スタイルがまずいのかも知れませんが、借金だけが膨らんで、破産するかどうかのきわきわで議員活動をしています。
市民の声に応えようと思えば思うほど、市で対応できない問題で、経費がかかります。議員は基本ボランティアなので、市民は気軽に相談できます。市外であろうが、外国の方であろうが、子どもであろうが、いつでも、誰でも、何度でも。私は議会制度は最高の市民サービスだと思っています。
しかし私の活動は北九州市議の諸先輩に比べるとまだまだ弱小です。私の遥かに上をいかれている方ばかりです。私はそうした先輩議員を尊敬し、学び、北九州の流儀や人情、議員活動を学びました。そうした先輩方を塩漬けだと批判し、イラストを描いて小馬鹿にし配布する、こんなやり方は正直、許せません。北九州市の議員がどれだけ奮闘努力しているか知っているのでしょうか。私以外の議員さんには正直もっともらって欲しいとさえ思います。
現在、議会改革協議会で議員報酬について議論されていますが、私は選挙前にやる必要はないと思います。やるべき仕事が沢山あり、塩漬けでいいのです。報酬については次の期で当選された方々で、持続可能な議員活動も含めて議論する問題だと思います。任期が一年もない議員が集まって議論しても、選挙目当てだと思われるのがはなです。
仮に、5パー、10パーと削減しても、まだ足らないと騒ぎ立てられるのがオチです。中途半端に下げても、文句を言われるなら、むしろ一円もいりません。私たち議員は乞食ではありません。いくらがいいでしょうかと顔色を伺いながら議員活動なんてしたくありません。自らが命をかけて、誇りを持って議員活動をしています。私はこんな不毛な議論に終止符を打ちます。
議員報酬削減を提案された会派の方と、議員報酬増額を求めている私とで、議員報酬全額カットで、誰かが泣きを入れるまで行うデスゲームを提案します。全額カットが難しなら、削減額は決議案提案者に任せます。共同提案者の一人は60%カットでどうだろと提案がありました。その代わり、あくまで対象者は、私と決議案提案者の7名の8人、そして、この問題は市長の発言から始まっていることからして「かいより始めよ」のお返しで、市長もこの8人で決めた削減額で一緒に給与削減を行ってもらいたい。削減額は私は100%カットで提案します。市長は、議員報酬削減決議を否決した議会に対し、市長の出方を待つという主体性のなさに違和感を覚えますと述べています。また「自分のことは自分で決めていくべき」とし、有権者は見ていると釘を刺したと報じられています。
議員報酬ゼロなら、誰も文句は言えないでしょう。
そこで質問します。議席番号49番から55番まで及び57番までの8人と、武内市長の給与を全額カットする予算案の修正を求め、市長の見解を伺います。②
最後に、市政の私物化と市民や職員のプライドを傷いつけている問題についてです。この度、北九州市誕生以来60年?に渡り使われてきた財政局が財政変革局に変えると提案を受けています。なぜ財政局のままでいけないのでしょうか。目が点になりました。変革とは、武内市長を支援する議員の選挙中のキャッチコピーであり、会派名にも使われてきた名でもあります。
武内市長の当初の公式ホームページには変革という名は出てきません(現在、再確認中)。
また前回の市議選の全候補者の選挙公報でも変革と打ち出している候補者は一人しかいません(現在、再確認中)。
これまで行政は行財政改革や構造改革など、一般的に改革という言葉を使ってきました。変革は改革と同義だと国語辞典には書いてありますがも、英語では明確に違います。英語で改革はリフォーム、つまり住宅リフォームと同じで改善、模様替えのような意味です。一方変革はトランスフォーメーション、つまりロボット玩具や戦隊モノで言えば、変身です。全く別物になる意味です。革命が「政治的変革」と評されるように、変革とはもとあったものをひっくり返して、作り直すというニュアンスを含みます。
果たして市民は武内市長に、これまでの末吉、北橋市長から続く行政の継続性、それをひっくり返すことを期待して投票したのでしょうか。違うと思います。私の周りの友人に聞くと、私の支援者の85%は武内市長に期待をされて投票しているようです。面白いことをしてくれるんじゃないか、ジリ貧でなく前向きの改革を期待してのことです。
棚卸しなど今までの市民生活を根底からガラガラポンにして、破壊することを誰も望んではいません。そこにきて、今回の歴史ある財政局の名前の変更、これは、市長が一体どっちを向いて政治をしているのかが明白になってしまう。市長が友人を大事にするのは分かります。しかしこれは露骨すぎます。
市長は北九州市は人情の街だと言われています。県知事選挙後、政治生命が絶たれたあと、北九州市民が自分を救ってくれたと話されていました。私もすごく共感を覚えます。私も、36歳で議員を引退した後、建築現場で働く毎日で、とても政治家に復帰できる可能性もない状態でした。しかし奇跡的に8年後に私は八幡の市民から再び市議へと押し上げられました。8年後に私を議員にした人達は、私と考えの違う人達でした。つまり思想や考えが違っても、がんばりよるし応援するかとの人情です。
私は市長と同じように、北九州市民から救われ、再び政治家としての命が与えられたのです。市長がその人情に恩返しするのであれば、自身の取り巻きの方でなく、むしろ、敵対した、意見の違う議員や市民の声を聞き、徳で報いいる政治をすべきではないでしょうか。
武内市長を市長に押し上げた人達は、県知事選挙の時に敵対した人達が多数含まれています。それでも市長のやる気に期待し、武内市長誕生の大きな原動力になりました。それが北九州市民のザ人情です。右も左も、表も裏も関係ない、それが北九州の任侠の心ではないでしょうか。是々非々が常の明朗な気質です。しかし、市長が自分のお友達ばかりに気を使う政治をすると、市長の原点を大きく踏み外してしまいます。市長は選挙前、しがらみアンド既得権にNOだと言っていました。しかし、今回の変革局にあるように、これは新たなしがらみと既得権ではないでしょうか。財政変革局の名前の変更を求めます。答弁を求めます。③
以上で私の第一質問を終わります。