スカーレット手帖

機嫌のいい観客

観劇との関係の近況

2016-07-13 | わたくし

わたくし、本格的に東京に来て、2年ほどたちます。

うっかりすると息を吸うように連日劇場に足を運べてしまうこの街が怖い。
あれほど非日常だった「好きな俳優を見る」「気になる演目を観る」が、
一大決心もなしに出来てしまう。恐ろしいことです。
離れたところから自分勝手に妄想をたぎらせる暇もないままにひとまず実体があり、
見てしまわざるをえない状況である場合に私が出来るアウトプットというのは、
それはもう理想もくそもない、そのご本尊様の今のありようの写生・賞賛、という感じになってしまいます。
この距離の縮まりについては嬉しくもあり、寂しさも感じています。
まず、こちらとしてはどんどん情報量がたまっていくのに、
目撃する一挙手一投足の価値が、機会拡大により有無を言わさず単価が下がっていく感じになるのがつらい。
そして、人間関係を営んで生きているものの哀しい性として、
対象者との物理的に距離が近くなると、次は心理的な距離を詰めなければいけないような気がしてくる。
でもそれはなかなかかなうものではない。その感覚は、正直とてもしんどい。
1週間に3回見れたとしても、結局は3か月に1回見ていた時と関係性はなにも変わらないのだから。

このような心境と距離感の中、
それでも飽きずに劇場に足を運ぶという状態を保つためには、
あえて少し心を不感症に保っていなければいけない、そんな気がしています。

・・・ただね、観劇なんていうのはそもそも、
金を払いながら、自分の精神状態を嬉々として素っ裸の過敏症状態にしに行っているようなものなので、
無理やり丸呑みするかのような味わい方でないと日常生活に支障が出るというのは、本末転倒というか、
なんなの。好きっていえない女子高生なの。哀しすぎるやん。やっぱ好きやねん。

まったく求められていないとしても、君かその周辺かなんかしらんけど誰かに届け。
自分の中に脈々と続く妄想と思いこみによる大仰な言い回し、
静かなる熱狂のちんどん屋的散文で私を取り戻してみたく、
やはり文章を書いていこう。ふつふつと溜まっている思いなどをもとに、
「この人のこと」などもふたたびしばらくやってみようと思います。