人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

感じたことを言うこと

2024-06-29 09:52:31 | 雑感
精神的な道では、意識の表層から深層へと深くなるにつれて、決めつけたような言語表現が適応出来なくなるのが普通です。
これは、思考の領域から段々離れてゆくことと連動していると言えるでしょう。
例えば、死後の世界とか霊界、第何次元、アストラル界...これらのことは、考えられて表されたものだと思うのです。
そういう決めつけた言葉自体、既存の知識に依っているのは誰にも分かることだし、そうでなくとも思い描かないと、そういう表現は出来ないものでしょう?
あるいは、霊能力者なんかは、私の知らない有り様で、実際にそういう世界を見て、感じて言っているのかもしれませんが、そうでない普通の人間には確かめようもないことなので、そのことを考えたり、(気が向けば)信じたりするしかありません。
こういうことを蔑ろにした一方通行の対話というのは、他者のことを無視したウカツな言葉に終始するだけで、私は全く付き合う気など起こってきません。
観念に浮いた、どこにも立脚しておらず、どこにもたどり着けない言葉のキャッチボールなんかしてたってしょうがないでしょ!
第一、それは、先入、固定観念から自由でないということであり、意識の内奥が開かれない状態になるだけではありませんか?
有り体に私が感じていることを言います。内奥では、何次元だとか段階だとか、そのように見たり思い描いたりすることは何も感じられません!
よく言われる、時間、空間を超越しているとかそういうものは、確かに感じられます。
あるいは又、私のこういう表現自体に、先の決めつけた表現というものを感じてしまう向きもあるかもしれません。
しかし、私は何も人に信じてもらいたいなんて思ってなどいないのです。大体、分からないでしょ?、私にも何だか分からないことなんだから!
ただ、感じたことを言う!...
もし、分からないけど、言葉では伝わらないものが伝わったというのなら!...おお、それでいい!...ベリグ~!
この場合、要するに分からないことは、分からないと言えばいいのです。そう感じたのなら...分からないことを前提にして、“私が思うに、感ずるに...“とか言えば(相手に伝われば)話はつながります。
然るに、何で分かったようなこと言うかなあ?
思考を超えた世界のことは、感じたことしか言えないはずなのです。
とはいえ、言うまでもなく、言葉というものは、思考に依らなければ、それを借りなければ表せないものですが、感じたことから切り離されたら生きたものにはならないでしょう。
そこでは、通常、思考と区別されること無い、内省とか洞察といった感性を伴った“別なる思考“が生きてくるのです。
そういう思考表現での他者との交流では、ウカツな言葉など言えない状況に自然になったりします。
だからね、“霊界というのは、神は、悟りは...“な~んて分かったような物言いは、彼方の世界で、生きているのかどうか分からない異界の人間とやっていたらいいのです。...
なんて、エラそうに言ってるけど、私は何度か場違いなことを言った経験があるからこういうことが言える訳でして!
それは、あの安らぎ、リアリティに与ることを妨げるものだから場違いなことなのです!
コメント
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