人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えないものとの接触点

2021-12-01 10:04:28 | 現臨、ハタラキ
思いが超えられる、至福に与る...こういうことは、いつも言うように、抽象的に思い描くことでなく、具体的に感じられることなのです。
"愛を感じる"、というのも同じことでしょう。
よくスピ界で、全体とか宇宙とかと一つになると、そのように感じられるとか言われるのですが、(感じ方は自由なのでしょうが)私はあまりに漠としていて、そう感じられません。ということは、私はそうなったことがないということです。
そうなったら、おそらく何と一つになったのかも分からないでしょう。
ま、ミもフタもないこと言っててもしょうがありません。そう言ってる人は多分、そういうイメージを借りて、その曰く言い難い感じを表しているのでしょう。
感じるということは、何らかの触れるものを通さなければ不可能なのです。
何かハタラキかけて来るものがある...でなければ思いを超えられる、ということがありません。
そして、何かと一つになるという感じも確かにあるi...それは何か?...それがもっとも肝心なものです。それ無しには何も始まらないi
神だの、真理だの、悟りだのって言ったって、その内実は、このものに触れないことにはただのお話にすぎません。だのに、それを言い表す決まった言葉が無いと言うんだから、世の中どうかしてるi
しかし、これまでの幾多もの、有名無名の宗教的道にある人たちは皆知っていたのではないでしょうか?...霊なるキリスト、阿弥陀如来、観音、OOの神...これら信仰対象として語られるものが、ある種の宗教体験として、各々に具体的に感得、感応道交されたものをかく言い表していたのでしょう。
それは言うなれば、絶対界と相対界の接触点となるものに他なりません。
見えない、捉えることの出来ない世界の消息が、何か一点の穴が開いたようなところから閃光のように接触してくる...老子が竅(きょう~穴)と言っていたものはおそらくこういうものだった、と思われます。
私が現臨と言い表しているものも、こういうものに他なりません。
それは先の通り、宇宙的全体と一つになる、という感じは直接にはありません。しかし、"そのものにあること"で、全体は分からないけれど、どこまでも開かれている、無限につながっている、という感じがあるのです。(この言い回しの違いは色々な意味で結構重要なのですi)
それは又、この自己と切り離されていない...故に"一つですべて"としか言いようがありません。(先の全体と一つになった、という人たちもおそらくこういう消息を伝えているのではないかと思われます)
思いを超えたものは、こちらで捉えることが出来ません。"捉えられる"ということがあるばかりです。
かと言って、何もせずに懐手でいても、多分そうなることはないでしょう。
ただ、意識的になる、広い意味で祈ることは出来ます。
そこで、内なる火種が意識され、自ずとそのに火が付くということに...なるかもしれない。
寒くもなり、火の後始末に心がけなければならなくなってきましたが、霊の火種は絶やしてはなりません。いつ自然発火しないとも限らないですから...
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