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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私の本心、神に聞くとは?

2025-03-22 06:14:18 | 現臨、ハタラキ
自分の本心は?
本当の自分に聞いてみる、というような時、私は私の神に聞くようにしています。
なーんて...ちょっとぶっ飛んだ言い方みたいですが...
大体、自分からは本心とか本当の自分なんて分からないものですね。
普通は、考えている自分が何が本心か?って、あーでもない、こーでもない、と考えているのではありませんか?
そう神、私の神のことも本当は分からないのでした。
でも、私はすぐ、自然にそっちに意識が向いてしまうのです。その何か分からない神的なものに...
意識を向ける、とか私はよく言いますが、本当はそれも自分からは掴みようのないもので出来ないことなのです。私は意志努力で向けよう、向けよう、というようなことを言っているつもりはありません。
それは、ほんの取っ掛かりとして、意思することはあるけれど、そのように自ずと向いてしまうということなのです。
そうすると、いつの間にか、神的なものが臨んで来る...その現臨に聞いてみるということに他なりません。
その時、何か自分が、考えている自分が(と言ったらいいのか)...頭から、肉体から出て行くような感じになります。
神は思いを超えている、といつも言っていますが、これは空間的に、存在的に自己を超えてしまうということを言っています。同時に思いも超えられる訳なのですが...
だから、本当の自分(らしきもの)は、自分の現前にある、という感じになります。(神が現前している!)
そんな、自分が自分から離れてしまう神などにゆだねてしまうようなことでは自分の主体性が無くなるではないか、と思われますか?...これはとんでもないことですよ!
それは、本当の自分は自分の中に、自分の頭の中にある、という固定観念から来るのでしょう。考えている自分は、本心は自分の中にあると思うのでしょう。(ややこしい言い方ですが)そういう自分は自分の中に向けられないはずですよ。
これも意識が自分から出ることにより向けられるようになるのです。頭の中は関係ありません。
こうなると、自分の外も中も無い感じになります。肉体という壁が超えられてしまう!...
要するに、本心、本当の自分とは、そう考えている自分のことではない!、ということなのです。
だから、私の神に聞くという次第なのです。本心と一つのような神に!...
朝目覚めた時などは、向けるとか向いちゃうということも無く、そういうようなことになっていることもありますよ。きっと寝ている間に臨んでいるのでしょう。
ん~、又出る、出る...自然にそうなる。いつの間にか身についてしまったようです。
これはですね、日頃の祈りの修行の成果なのです...ってそんなことあない!
でも、いつも祈り心にあるということはあります。それも自然にさせられることのようなのです!...



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