私にとって霊、霊なるものと神というものは、区別の出来ないものです。
それらは共に思慮の及ばない、自分の思いを超えたものだから当たり前のことでしょう。
世間では、守護霊とか霊的存在は、神とは低い段階のものであり、神にも幾つか段階があるとか、一なる宇宙神が最高の存在である、とかいったことが説かれたりしますが、それは一応の言葉、概念による説明に過ぎないのです。
霊的存在だろうと神的存在だろうと、生きたハタラキというものがある...それが私に直にハタラき、臨在するならば、それこそが私自身には唯一なるもの、すべてで一つのものとなります。私のあらゆる思いを超えせしめるものは、このもの以外には無いのであります。
この意味で、それは神と言ってもいいのです。神というと漠然としているならば、キリスト、弥陀でも呼び名は何でもいいが、それは一コの私を超えた主なるものに違いありません。ですからそれは、“わが主“なるものなのです。
そのように私に直に臨みたまうもの故、もう観念的に信じる必要はありません。
神を信じるという。しかし多くは、そのように神そのものを実存的に信じるのではなく、宗教の教え、人がそう言っている神を、人の言葉を信じているのでしょう。否、本当に信じているのかどうかも疑わしいのではないでしょうか?
居るのかどうか分からないものを信じるということは、疑いというものと裏表になっているものでしょう。
そのように漠然と信じるというだけなら、そこから自分自身に即して神そのものを探求する方向に向かうこともあるかもしれません。しかし、その手段として、ある宗教、教えに関わろう、信者になることで、その道は分かれるようになります。
ある宗教、ある神を正しいと信じるということは、他の宗教、神を疑っているということでしょう?...そういう念が強ければ強いほど、その自分の信仰に固執するものです。要するに自分の信念を信じているのです。
そして、内心ではその自分が信じる宗教、教師が本当に正しい存在なのかを疑っていたりします。他にもっと優れた教え、教師が居るかもしれない、と。
しかし表面ではそういう念は否定される、そういうことは考えまいとする。そうして益々自分の信仰、信念は固執され、いよいよその思念に閉じこもるようになります。
思いが開かれることが無いということは、神そのものに意識が向けられていないということです。
意識が一なる神、わが主にあれば、他の教え、神はどうとかなど考える必要がありません。
神は宗教、思想を超えたものということが示されるから!...世の中に色々な教えがある訳ではない!、すべてで一つなる教えがあるだけではないでしょうか!...
狂信者のように神を信じて益々相対観を強め、思念に閉じこもってしまうことは、内的に神と関わり、自己実存を開く道とは全く逆の方に向かうことになってしまうのです。
あなたは、それでも神を信じますか?
それはあなたの本心から望んでいることなのですか?
よくよくあなたの本心に...(それはあなたの神と言ってもいい!)尋ねてみたらいいでしょう。
最初が肝心!...あなた自身の神の道は、最初から決まっていると言ってもいいでしょう。
そこに、真に愛、安らぐものが感じられたならもう決まっている!...
それらは共に思慮の及ばない、自分の思いを超えたものだから当たり前のことでしょう。
世間では、守護霊とか霊的存在は、神とは低い段階のものであり、神にも幾つか段階があるとか、一なる宇宙神が最高の存在である、とかいったことが説かれたりしますが、それは一応の言葉、概念による説明に過ぎないのです。
霊的存在だろうと神的存在だろうと、生きたハタラキというものがある...それが私に直にハタラき、臨在するならば、それこそが私自身には唯一なるもの、すべてで一つのものとなります。私のあらゆる思いを超えせしめるものは、このもの以外には無いのであります。
この意味で、それは神と言ってもいいのです。神というと漠然としているならば、キリスト、弥陀でも呼び名は何でもいいが、それは一コの私を超えた主なるものに違いありません。ですからそれは、“わが主“なるものなのです。
そのように私に直に臨みたまうもの故、もう観念的に信じる必要はありません。
神を信じるという。しかし多くは、そのように神そのものを実存的に信じるのではなく、宗教の教え、人がそう言っている神を、人の言葉を信じているのでしょう。否、本当に信じているのかどうかも疑わしいのではないでしょうか?
居るのかどうか分からないものを信じるということは、疑いというものと裏表になっているものでしょう。
そのように漠然と信じるというだけなら、そこから自分自身に即して神そのものを探求する方向に向かうこともあるかもしれません。しかし、その手段として、ある宗教、教えに関わろう、信者になることで、その道は分かれるようになります。
ある宗教、ある神を正しいと信じるということは、他の宗教、神を疑っているということでしょう?...そういう念が強ければ強いほど、その自分の信仰に固執するものです。要するに自分の信念を信じているのです。
そして、内心ではその自分が信じる宗教、教師が本当に正しい存在なのかを疑っていたりします。他にもっと優れた教え、教師が居るかもしれない、と。
しかし表面ではそういう念は否定される、そういうことは考えまいとする。そうして益々自分の信仰、信念は固執され、いよいよその思念に閉じこもるようになります。
思いが開かれることが無いということは、神そのものに意識が向けられていないということです。
意識が一なる神、わが主にあれば、他の教え、神はどうとかなど考える必要がありません。
神は宗教、思想を超えたものということが示されるから!...世の中に色々な教えがある訳ではない!、すべてで一つなる教えがあるだけではないでしょうか!...
狂信者のように神を信じて益々相対観を強め、思念に閉じこもってしまうことは、内的に神と関わり、自己実存を開く道とは全く逆の方に向かうことになってしまうのです。
あなたは、それでも神を信じますか?
それはあなたの本心から望んでいることなのですか?
よくよくあなたの本心に...(それはあなたの神と言ってもいい!)尋ねてみたらいいでしょう。
最初が肝心!...あなた自身の神の道は、最初から決まっていると言ってもいいでしょう。
そこに、真に愛、安らぐものが感じられたならもう決まっている!...
私は神を信じています。そして、貴殿が提唱されている《神に意識を向けるだけの瞑想》に深く惹かれております。その瞑想を始めた頃は、《神》からイエスやブッダを連想する傾向がありましたが、ある時から《内なる光》を想い、そこにふわっと意識を向ける瞑想を始め、今も楽しんでおります。これも貴殿のブログのおかげです。これからも楽しみに拝読させていただきます。
その祈りとも瞑想ともつかない瞑想(?)ですが、こちら側のやり方というものでなく、神に意識を向けることで、そちらからハタラキかけられ、内なるものを呼び覚まされるように導かれるようなことをよく言い表されていると思います。読むだけで私もそのように導かれそうになります。
貴方のような方が読者がおられること、本当に強みになります。有難うございます。
記録破りの暑さの続く折、どうぞ御身大切に!...