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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りは神との呼応

2025-03-14 06:14:52 | 祈りと瞑想
祈りというものは、一般にはこちらが神を対象にして、何か願い事をするだけのように思われているようです。
そして願いが叶えられ無ければ、神も仏も無いと思ってしまうのでしょう?
それは正に神も祈りもただそのように、観念的に思い描いているだけにすぎません。
それは、実に思いを超えた神により、その超えた次元に突破させられ、内なる自己が開かれ、神と一つに、確実に、容易に安心立命へと導かれる道であるにも関わらず...
祈りは断じて、こちら側から神へとハタラキかけることに止まるものではありません。それはただの入り口にすぎないのです。
純一に神を求め、祈り続けるのなら、必ず神からのハタラキかけがあることを感じずにおれなくなくなります。
具体的に言えば、いつの間にか、何か自分の思いを超えて、加持されるというか、上からそう、降りて来て迫り、中から押し出されりように祈るというより、祈らされるように感じられて来ることです。
祈りは実にこのような自己と神との呼応なのです。呼べば必ず応えたもう...この応答こそが神の現臨に他なりません。神は思い描き、信じるというだけのものでなく、実に生きてこちらに臨みたもうのであった!...それにより神と自己は、本来一つのものであることに覚めさせられるのです。
純一に神を求めるとは、例えば、興味本位に神の実体についてや、霊界や前世のことなどへの空想ごとに外れたりしないことです。
神をモノのように捉えて、神を超えないと悟りに至らないと思っているような者には、決して悟りの道など開かれることは無いということです。神無しには、ずっとそういう観念に囚われ続け、思いが超えられることは無いのだから!
かかる者がどんなに祈りについて語ろうとも、“敬虔であること“について全く分かっていないと言わざるを得ません。
この敬虔さこそが“純一に“、ということなのですが、それはそうせねばならないという倫理的なことではありません。
神、霊なるものにものに意識が向かい、それを現前にすれば、自ずとそうならざるを得なくあるということなのです。それが神からの応答を受けることに他なりません。
そして、神に祈っても願いが叶えられないなんて言うのは、とんでもない話ではありませんか?!
愛、平安、リアリティという恩恵を受けているではないか!
あの願い、この願いがあったとして、それが感じられなければ一体何になるでしょうか?

ああ...神はどういう存在なのかは知らないけれど...私は“敬虔であること“がどういうことかを知りました。
神はどういうものかはもはやどうでもいい!...もうたまらない!、あなたの迫りを受けて!
もう、感謝しかありません。
私は知らずに神の応答を受けていたのです!...
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