人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

見えない実現

2018-08-26 12:27:08 | 哲学・思想
この世では、何かに与ろうとするならば、"それを獲得しなければならない"と思うのがフツーのことですね。
それを得るためには"何かを為さなければならない"とも...
そしてそれに与り、それを得た時、目指していたものに達成した、とかその何かが実現したとか思うようです。
それは幸福とか悟りなど目に見えないものにも向けられるようです。
だから一生懸命修行などに励むらしいです。
スピ界には、神の実現とか真我の実現といった言葉が散見されますが、これがどうも誤解を生むような気がします
一体何が実現されるのでしょう。実現されなければ確かな手応え、充足というものは味わえないでしょうか?
いや、それが実現されてこそ、望んだこと、為してきたことの証なのでしょうか?
これはこの見える現実世界においては、勿論そういうこと、そうでなければならないこともあります。
絵に描いたような家に住むことは出来ませんからね。
この現実世界では思い描いただけのものは、何も実現しません。
"思ったことは実現する"という教えもありますが、皆そう思っているだけだったら、この世はゾンビ帝国です。
だけど、神も真我も幸福も愛も目に見える、形あるモノじゃないのです。
異性や友人、家族、ペットなどには、しばしば幸福や愛が宿っているように写し出されます。
しかし、それらが感じられなくなったらどうなるのか?
現実に手に入った瞬間、どうもそれまで胸をときめかされたものと違って感じてしまったりするのは何故か?
目に見えるものは、常在するものではありません。だからと言って無価値、無意味なものとして捨て去っていいという訳でもありません。
この見える現実世界には、見えない現実世界が重合しているのですから...
見える現実では、実物があること、実証出来るものなど、ものの実体性が大きくものを言います。
この観方、感じ方のみからは、見えない現実は到底理解され得ません。
そこには何一つ実現されたものとて感じられません。何かを為して到達したというものがありません。
実体も無く、実証も為され得ない現実、それはこの世の如何なる現実に比ぶべくもなく、リアルなものなのです。
これは真に"実あるものが現わになる"という実現なのかもしれません。
見える現実しか分かろうとしない者には思い描いた世界と、内奧に開かれる世界の区別がつかないらしいです。
私は何回でも言います。そのもの自体が顕現するという他はありません。
そこに実体があると感じさせる、見える現実の有り様とは、その実体なきそのものが写し出されたものと言えます。
そのものに与るには、"得よう、捉えよう、為そう..."といったこの世の流儀からはアプローチが出来ません。
じゃ、棚からぼた餅のように何もしないでいたらいいって訳でもありません。
そこに、待ち望む心持ち、そのものに意識を向ける~祈りというものがあるのです。
これはその気のある人だったら、言われなくとも理解出来ることですし、もうしていることでしょう。つまり意識が向いちゃっていることでしょう。
神の恩寵を受けるとか、神の実現、真我の実現を願って...しかし、そうしていると何だか有り難い、平安な気持ちになったりしてくるものです。それを得ようと、何も実行してなくとも...得なければならないと、とらわれていたら気がつかないかもしれません。
願っていたものはとっくに実現していた...かもしれない...。








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